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「……――――ルフィ。ルフィ、…大丈夫か」
呼びかける声にふわ、と意識が浮いた。
気怠く首を傾けたその先で、気遣わしげに自分を見遣るその顔。
「…エース…、」
「ん。…すまねえ、怖かったか」
問いかけには答えず、手を伸ばしてその背中を抱き寄せる。優しい兄は何も言わず、ルフィの欲しいだけの体温をくれる。
ぎゅう、と抱きしめるその腕の温度で、ルフィは先程の狂乱からさして時が経っていないことを悟った。まだ熱い体温と、速い脈。一瞬意識を飛ばしていただけのようだった。
「――――、しぬかと、おもった…」
「……ん。凄かったな。さすがのおれもちょっと焦った。」
「気持ちよすぎて、怖かった。頭おかしくなりそうで」
「もしそうなってもおれが貰ってやるから。……最高だった、お前。」
もう絶対お前以外抱けねェ、などとのたまう兄の後頭部を、力の入らない拳で小突く。あたりめーだ、と文句を言いながら縋りつけば、喉を低く鳴らしてエースが笑う。
醜態を晒した羞恥心も、始めて味わったドライオーガズムの余韻の前には意味をなさなかった。
セックスのあとの気怠い空気を味わうように、ゆるく穏やかにエースがキスを落とす。
そのまま眠りに誘い込む気の様だった。
大きな手のひらが、何度も何度も髪を撫でる。魔法のように睡魔がルフィを襲う。世界がぼやけて歪む。エースの笑顔が優しく滲む。
あいしてる、ルフィ。誕生日おめでとう。霞む世界のその向こうで、エースがささやいた。
ルフィは、優しい波に逆らって爪を立てた。
「―――、ルフィ?…寝ていいぞ、」
「まだだ、…エース、」
急激な睡魔に抗い、無理やり瞼をこじ開ける。世界はどんどん淡く霞んでいく。焦燥感がルフィを襲う。
「―――ルフィ、」
「……エース、…ビブルカード、くれよ」
「…、」
す、とエースが音もなく息を止めた。
どんな顔をしていたかはわからない。もう身体を持ち上げてその顔を覗き込むこともできなかった。
「エースの、新しい、ビブルカード」
「……。」
「誕生日プレゼント、…いい、だろ」
「……。」
「なあ、」
「…。」
開かぬ瞼から、涙が溢れた。
「―――――ッ、夢、なんだろ……!?」
ぎゅう、と強く強く、抱きしめる腕。あんなに熱かった体温が、温かった鼓動が、ない。
「なんで、」
「……だってこの部屋、――ドアが、ない。」
白い壁。白いベッド。木造りの天上。月明かり。
窓はあるのに、ドアがない。
「―――おれたちしかいない世界だから、だろ。外には誰も、いないから。誰かが入ってくることも、ここから出ることも、ないから。」
「――、」
「おれと、エースと…!一瞬だけの、世界だから…!!」
眼を閉じたまま、ルフィは泣いた。知らないエースの、ルフィの知らない22歳のエースの腕の中で、ルフィは泣いた。
「…――ルフィ、愛してる。夢でもいいから、逢いたかった。会ってお前に言いたかった」
「―――ッ、やだ、エース…!!いくな、」
「誕生日おめでとう、ルフィ。生まれてきてくれて、本当にありがとう。」
「……ッ!」
優しく優しく髪を撫でる手に逆らえない。ゆるやかに睡魔が襲う。せめてとばかりに、抱きしめるエースの腕の力が強かった。それに縋りつくように、ルフィはもう動かせない身体の代わりに額を摺り寄せた。声も出ない。涙ばかりが、音も立てずに流れて落ちた。
「―――あいしてる、ルフィ。…愛してる。」
お前の夢で逢おう。
穏やかなその声の残響を聴きながら、ルフィはやさしく残酷な世界の底へ、墜ちた。
******
「…―――ルフィ。オイ、どーしたルフィー?もしもーし」
は、と星空を見上げていた視線を戻す。いつからそうしていたのかすぐに思い出せない。どこまでも透き通るような黒に、一瞬呑みこまれたような。
夜空の星が船上の灯りに淡くけぶる。
どこか現実味のないほど、ルフィを取り巻くその灯りはあたたかく鮮やかで、そしてやわらかかった。
「……ウソップ、」
「オイオイ大丈夫かよ今日の主役がー!まだまだ宴はこれからだぜ船長!」
「珍しいわねー、アンタが酒の席でこんな大人しいなんて。落ちてたモノでも食べた?」
ベンチに腰掛けたまま呆けるルフィを、酒のジョッキを片手にウソップとナミが覗き込んだ。
そのまま、二人が目を見開く。
「――オイ、どうしたルフィ、」
「……ルフィ、―――泣いてるの…?」
え、と聞き返したその拍子にぱたぱたと音を立てて雫が落ちた。
「――あ、れ、おれ、なんで、」
思い出せない。なぜ泣くのか。何が哀しくて泣くのかわからない。ただ、ただ、鼓膜に残る声の残響が、
「……エース…。」
声に出してからハッとした。フラッシュバックする仲間たちの怪訝そうな表情。胸に穴が開いたような絶望感を、
「―――エースのこと、思い出してたのね。」
ナミの声に、は、と息を呑んだ。
思わず顔を上げた途端、ふわりとオレンジの香りが鼻先を掠めた。
ぎゅう、とやわらかな腕が首に絡みつく。
「ナミ、」
「いいわ、ルフィ。見なかったことにしてあげる。――2年前、傍にいらんなかったことの、お詫び。」
見開いた眼を覆うように、視界が遮られた。一瞬前、ウソップが少しだけ潤んだ目で乱暴に頭上の麦わら帽子に手を伸ばしたのが見えた気がした。隣に、どかりと音を立ててそのまま座る体温。
仲間たちの顔はもう見えなかった。
見えなかったが、ゾロが見て見ぬふりで盃を傾けたことも、サンジが煙草の煙を空に向かって吹き上げたことも、チョッパーがぐすりと鼻をすすったことも、フランキーがコーラの瓶を空に掲げたことも、ブルックがやさしいメロディーを奏でてくれているその意味も、そして伝った涙をこっそり拭ってくれる手がロビンのものだということも、ルフィは全部知っていた。
全部知っていたから、ルフィは笑った。耐えきれぬ涙を帽子に隠して、エースが好きだと言ってくれた、最高に自分らしい笑顔で、笑った。
新世界の月が、大海原に浮かぶ一隻の船を照らす。どこか現実味のないほど、ルフィを取り巻く灯りはあたたかく鮮やかで、そしてやわらかかった。
この優しくて残酷で、どうしようもなく愛おしいこの世界が、ルフィの愛する世界だった。
******
「…――――フィ、ルフィ、…ルフィ!」
呼ぶ声に、ルフィは瞼を開いた。
途端、白い光が網膜に刺さる。ホワイトアウトする視界。ぼやける輪郭は、だが確かに知っている、
「……――ルフィ、おれを見ろ」
朝の白い光。すぐ近くで響く低い穏やかな声。やさしく髪をかき上げる大きな手。剥き出しの広い肩。切れ長の眼。記憶より大人びた、男の顔。
「…――――エー、ス…?」
「そうだ。わかるか。……何で泣く。ルフィ」
つう、とこめかみを伝った雫を、エースがキスで拭い取る。次から次へと溢れ出す涙を、飽きもせず何度も何度も拭い取ってくれる。
「―――ゆめを、みてた。」
「どんな」
はっきりと思い出せる鮮やかな世界。淡く滲む世界。美しくて哀しくて、愛おしい世界。
それは夢であると同時に、どこか遠いところにある、もうひとつの世界。確かに「ルフィ」が生きていた世界。
確かに「ルフィ」が知っている、世界。「エース」は忘れてしまった、遠い遠い世界の話。
「夢を叶える、夢だ」
「めちゃくちゃ楽しくて、嬉しくて、悔しくて、さみしくて、つらくて、そんで、」
「すげぇ、きれいな、ゆめだ。」
それだけ言って、ルフィはエースを抱き寄せた。エースの体温が、鼓動が、髪の手触りが、そしてそれらを「知っている」という確かな感覚が嬉しくて、泣いた。
「―――なんだってんだよ…。せっかくの誕生日の朝だってのに」
エースはそれを悪夢と受け取ったのか、ルフィを守る様に強く抱きしめて慰めてくれた。
大丈夫。大丈夫だルフィ。おれがついてる。
幼いころから変わらない、根拠も後ろ盾も何もないその強気の台詞が何より心強くて嬉しくて、ルフィは泣きながら声を出して笑った。
ルフィの笑顔を覗き込んで確かめて、やっとエースも穏やかに笑ってくれた。
22歳のエース。その背中に傷はない。そばかすが散った頬は少し骨ばっていて、そして髪が少しだけ伸びた。
「誕生日おめでとう、ルフィ。今日は大忙しだぞ。なんたって主役だからな。」
サボもそろそろ帰ってくるし、ああジジイが帰ってくる前にさっさと服着ねえと。昼メシはサンジが来るからいいとして。サボが帰って来たらさっさと朝飯食っちまうぞ。お前友達みんな来るんだろ?ほら、もう泣くな。
最後の涙を拭われて、まじないのように額にキスを落とされる。
その首筋に頬を摺り寄せて、ルフィは目を閉じた。
「――エース…?」
「ん?」
「どこにも、いかねえ?一緒に、いてくれるか?」
眼を閉じていたので、エースがどんな顔をしていたかはわからない。
少しの間の後、ルフィ、と呼びかける声で、ルフィはゆっくりと瞼を開けた。
黒々と深い瞳が、真摯に見下ろしている。
「―――ずっと一緒だ。約束する。」
何のためにおれが実家から通える距離の会社に就職して、必死に今日の休みをもぎとったと思ってんだ。一瞬たりとも離さねえから覚悟しろよ。
そう冗談とも思えないことをいうと、表情をくるりと入れ替えてエースはからから笑った。
その些細な約束が、ほんの少し先の未来の約束がどうしようもなく嬉しくて、ルフィは兄の背中を力いっぱい抱きしめた。噴水のように突き上げる感情に任せて、ルフィは笑う。
エース、愛してる!
ドアも窓も開け放ったままの部屋で、ルフィは大声で叫んだ。ルフィの愛するこの世界中に響くように。
「ちょ、バカ声がでかい、」
「エースー!!あ――い――し――て――」
「バカバカバカお前!!コラ!!」
ぎゅう、と声を抑え込むように抱きしめられたかと思ったら、そのまま強く強く口づけられてルフィは叫ぶのをやめた。
わかってる、と言われている気がした。
「―――ルフィ、愛してる。誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。」
穏やかに言ったかと思うと、エースはすう、と大きく口を開けて息を吸った。
「ルーフィー!!あ――い――し――て――」
「ちょっとうるさいよお前ら何してんだ!!外まで丸聞こえじゃんか恥ずかし、」
「「サーボー!!!あ―――い―――し―――」」
「やめなさい!!」
全身でルフィとエースの暴挙を止めるべくベッドに飛び込んできたサボを両腕を広げて迎え入れながら、思いっきり笑ってルフィを抱きしめるエースの体温を感じながら、ルフィは思った。
辛いことも苦しいこともかなしいことも、今ならみんなみんな抱きしめてあげられると思った。
この優しく厳しく美しい世界を丸ごと、間違いなく愛していると思った。
生まれてきてよかった。「ルフィ」に生まれてきて、よかった。そう思った。
今なら、膝を抱えて泣いていたルフィを。
17歳のルフィを、抱きしめてあげられる気がした。
DREAM WALKER
もはや何と言っていいかわからん
ルフィ、お誕生日おめでとう!
「ルフィ」がいるこの国に、この世界に生まれたことを、心から幸せに思います。
あなたと出会わせてくれたこの世界を心底愛そうと思います。
生まれてきてくれて、ありがとう!!
20130505 Joe H.
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