※Caution!R18
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白い、ただ白い世界にルフィはいた。
膝を抱え、俯いて、目を閉じて。
そうすれば、音もなく、光も色もにおいもない。
17歳のルフィの手から零れ落ちた色んなものを、思い出さずに済む。
ああ、でも、
(さみしい、なあ)
ああ、こんなにも、
(会いてえなあ)
ああ、でも誰に会いたいんだったろう。思い出せない。
思い出したくないのだろう。
会いたいと思った途端に溢れ出した涙で、ルフィはそれを悟った。
何故泣く。会いたいから泣くのだ。会いたいのに会えないから泣くのだ。もう会えないから泣くのだ。
もういないから、泣くのだ。
真っ白い世界に落ちた涙が吸い込まれて消えてゆく。
硬質な大理石の床に波紋が広がっていく。
その、先。
肩に触れる、手のひら。
ルフィの肩を優しく包み込む体温。抱きしめる、強い、腕の力。
(―――だれ、だ?)
ゆっくりと離れた相手が、黒髪に隠したその顔を上げる。
その瞳は、黒々と、深く、深く、
******
「…―――ルフィ。オイ、どーしたルフィー?もしもーし」
は、と星空を見上げていた視線を戻す。いつからそうしていたのかすぐに思い出せない。どこまでも透き通るような黒に、一瞬呑みこまれたような。
夜空の星が船上の灯りに淡くけぶる。
どこか現実味のないほど、ルフィを取り巻くその灯りはあたたかく鮮やかで、そしてやわらかかった。
「……ウソップ、」
「オイオイ大丈夫かよ今日の主役がー!まだまだ宴はこれからだぜ船長!」
「珍しいわねー、アンタが酒の席でこんな大人しいなんて。落ちてたモノでも食べた?」
ベンチに腰掛けたまま呆けるルフィを、酒のジョッキを片手にウソップとナミが覗き込んだ。憎まれ口のその中に、心底正味の心配が当たり前のように溶け込んでいるのをルフィは知っている。
「酔っ払っちゃったのかルフィ?平気か?おれ診るか?」
ミルクのなみなみと注がれたジョッキを傍らに置いて、とことこと寄ったチョッパーが足元から見上げる。頼りになる船医は、どこまでもやさしい。
「―――しし!わり、ぼーっとしてた!まだまだァ!!」
反動をつけて、思いっきり跳ねるように両腕を突き上げた。そのルフィの勢いに、うお、と声を上げてのけぞったウソップのジョッキから、波立った酒が撥ね跳んだ。
「きゃ、つめたーい!ちょっとウソップ何すんの!」
「うお、わりー…ってかおれじゃねえよルフィてめー!珍しく大人しくしてたと思ったら、ってうお」
「ナミさんの!悲鳴が!!」
ウソップを押しのける勢いで、サンジが弾丸のように飛び込んできた。
その勢いに見合わぬ丁寧さでルフィのすぐ近くに置いた、骨付き肉の照り焼き。香ばしく艶々と焼き上げられたそれを準備するために、彼が昨日夜遅くまで起きて仲間達の誰より遅く寝床に入ったのを、ルフィはなんとなく気付いていた。
「大丈夫かナミさん!!ウソップてめェコラナミさんの美しい肌にシミひとつでも付けてみろオロしてタタキにし」
「てめーはよくもまぁ飽きずに毎度毎度」
「あァ!?んだコラマリモ剣士言いてェことがあるなら」
「あーもーやーめなさいってば!!今日は喧嘩も決闘もナシ!!そう決めたでしょ!!」
我らが船長の誕生日よ、わかってるはずよね。
ジョッキを掲げていない手の甲を腰に当てて、ナミがぴりりと張った声で高らかに言った。
すまねェナミさん、と苦笑して矛を収めたサンジのその反応は珍しいものではなかったが、ゾロまでもが黙ってその場を引いたのは、やはり「その日」だったからだろう。どっかと音を立ててルフィの隣に陣取ると、親指一本でポン、と音を立てて酒瓶の栓を開け、ルフィのジョッキになみなみと注ぐ。
「…ルフィ、もう一度、あなたに乾杯させて頂戴」
背後から艶やかな落ち着いた声で、ロビンが言った。
振り向いたルフィの肩に置いた手があたたかかった。もう片手には赤いワインのグラス。かと思うと、ルフィの寄り掛かった柱からすらりと花の咲くように現れたもう一つの手が、ルフィの口元についた食べかすを拭う。予想していなかったそれに、お、と目を瞬いたルフィに、ふふ、と小さくロビンが笑った。
「アウ!オイルフィおめー酒進んでねーんじゃねーのか!コーラ飲むか!」
「ヨホホホ!いや〜実にめでたい!ルフィさん、乾杯の後はルフィさんのリクエスト、お伺いさせてくださいね。」
「―――ししし!おう!!ありがとな、フランキー、ブルック!」
さて、それじゃ仕切り直しと行きますか、とナミが胸の高さまでジョッキを掲げた。よぉーしそれじゃ2回目の乾杯の音頭は俺様が、と自慢のゴーグルの角度を整えてウソップが胸を張る。
ゾロがルフィに注いだ酒瓶をそのまま掲げたかと思うと、ふと足元に目を遣りぴょこぴょこと飛び跳ねるチョッパーに気付いた。無造作にその背中をつまみ上げ、傍らの酒樽の上に乗せてやる。
サンジが煙草をくゆらせながら、早くしろ、せっかくの料理が冷めちまう、と憎まれ口を叩く。その口元が、だがしかし楽しげに笑みを敷いていることに気付いて、ヨホホホ、とブルックが何も言わないまま楽しげに笑った。
ホラ主役、と彼専用のコーラボトルを掲げたフランキーが言うと、ぽんぽん、とロビンのやわらかな手が肩でやさしくルフィを促す。見上げたそれに笑って応えて、ルフィも立ち上がった。
「さーて、本日はめでたくも我らが船長、モンキー・D・ルフィの誕生日なわけだが!思えばイーストブルーの片隅で海賊王を目指して大海原へ飛び出した無謀なこいつがこの広い海の中でこの俺様と出会った奇跡」
「ルフィおめでとー!!」
「「「「「「カンパーイ!!」」」」」」
「ちくしょおおおめでとうだルフィこんにゃろおおおおおおお」
ガシャン、と音を立てて、荒々しく激しくジョッキ同士がぶつかり合う。弾けとんだ水滴や泡の欠片が、華やかに灯された灯りを反射してきらきらと夜空に散った。
仲間たちの変わらぬ笑顔と明るい笑い声、そして少しだけいつもよりルフィに寛大なそのひとつひとつの気持ちが嬉しくて、ルフィも声を立てて笑った。
夢の様にどこか足元がふわふわするような気さえする。あまりに嬉しくて少し飲み過ぎてしまったかもしれない。笑い声が途切れたふとした合間、甘く滲むような浮遊感に身を任せて、ルフィはほろりと零した。
「…よかった、また、全員一緒になれて。2年間、やっぱ少し長かったなあ」
するとルフィのその言葉に、仲間たちがそろってはたとこちらを振り向いた。
不思議そうにルフィを見遣るその視線の意味がわからなくて、ルフィはことりと首を傾げた。
「なんだ?お前ら。おれなんか変なこと言ったか?」
「……ルフィ、お前、本当に大丈夫か?酔ってんのか?」
「へ?何で、」
「――――おれ達、この2年間ずーっと一緒だったじゃねえか。離れ離れになったりしてねえぞ?」
どくり、と心臓が鈍く鳴る。
「―――え?だって、シャボンディ諸島で、」
「ああ、シャボンディで3日間別れたこと言ってんのか?」
「何よオーゲサねー!もう2年も前の話じゃない!まあ確かにゾロが迷子になって捜しまわって、少し出航は遅れたけど」
「ちげーだろ、お前らがいつまでたっても集合場所に来なかったんだろうが」
「どの口が!そんなセリフを!」
「ちょ、ちょっと待てって、え?だって、くまのやつに全員飛ばされて、…戦争が、起きて、おれエースを助けたくて、行けなくて、…エースが、」
「戦争?」
「誰だ?エースって」
ひゅ、と喉が鳴った。
「…―――冗、談、きついって、ウソップ…。お前だって、会ったじゃんか、アラバスタで、」
「アラバスタ?ナミ、お前覚えてるか?」
「全然。ビビのお城とか?誰だっけ?」
「―――ポートガス・D・エース!白ひげ海賊団の!おれの、兄ちゃんだよ!!」
しん、と静まり返った仲間たちは、心配と疑念が入り混じった目でルフィを見た。
ゾロが、ルフィ、お前本当に大丈夫か、と支えるようにルフィの両腕を掴む。
「……ルフィ、お前に兄貴がいるなんて、おれ達の誰も聞いてない」
「――う、そだろ、…、だって、だって、」
「夢でも見たのか?戦争なんか起きてないし、おれたちの誰も、一度だって欠けてないぞ?」
「白ひげの海賊団に、聞く限りそんな名前の有名な海賊はいないわ。」
「―――『エース』って、誰だ?」
ぐらりと揺れた。
膝から力が抜けて、その場にへたりこんだ。
あんなにあたたかかった仲間たちの顔が、声が、遠い。遠い。
ここは、エースのいない世界だ。
そう悟った瞬間、ルフィの世界はぐるりと歪んだ。
******
「…―――ィ、ルフィ、ルフィ!!」
びくりと身体を震わせて、ルフィは目を開けた。それに合わせて、知らず止めていた呼吸を取り戻す。早鐘を打つ心臓に連動して、吐く息が浅く上ずった。苦しい。こめかみをつう、と伝ったのは、汗か、それとも、
「……――ルフィ、おれを見ろ」
暗い部屋。すぐ近くで響く低い穏やかな声。やさしく髪をかき上げる大きな手。暗闇に艶を帯びる切れ長の眼。記憶より大人びた、男の顔。
「…――――エー、ス…?」
「そうだ。わかるか。」
おそるおそる、ルフィは手を伸ばした。
20歳のエースより、少しだけその線の鋭さを増したそばかすの頬。震える手のひらをひたりと当て、その感触を確かめた。
「……エース…」
「ん」
「エース…」
「うん」
「エース」
「うん。大丈夫だ。おれはここにいる。」
ルフィ。低く鼓膜を震わせたその声に、やっとルフィは全身の強張りを解いた。
震えの抜けない手のひらで、その素肌の背中を抱き寄せる。
「…―――夢、見たのか」
「……、多分。眼が疲れた」
「どんな」
「…わすれた。思い出せない。……思い出さない方が、いい気がする。」
「おれを呼んでた。」
「ああ。おれも、それはわかる。こわかった。覚えてねえけど。」
ルフィが縋りつくその力より強く強く、エースが抱きしめてくれる。
ルフィの腕で覆いきれない広い背中。あたたかな素肌の感触。首筋に頬を押し当てて、その脈と鼓動を感じてやっと、全身に血が巡るような気がした。
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