(雪・3)


「……物好きだねえ。せめて冷めないうちに食えよ」

ふたりが腰を降ろしているのを確かめてから、サンジが熱い茶と湯気の立つぜんざいを運んできた。
熱いぞ、と一声かけて湯呑をルフィに渡しかけたのを、思い直してエースに渡す。
あ、とお預けを食らった子供の様な顔をしたルフィに、サンジは言っても聞かねえお前だからな、と憎まれ口をたたいて笑った。

くつくつと喉で笑ったエースが、懐から手ぬぐいを出して熱い茶碗を包み、ルフィに手渡した。
じんわりと柔らかに熱を伝えるそれに、ルフィは雪が解けるように笑った。
ぜんざいの椀は、傍らに。しんと冷えた冬の気を手のひらの中のぬくもりで宥めて、エースも小さく笑った。
サンジが煙と葉巻の香をたなびかせて棚の奥に引いた後、ルフィが零すように口を開いた。

「……――ごめんな、さっき。店のもんが」
「…気にしてません。若が、気にすることでもありやせん」
「…ん、ありがとう。」
「おれこそ、済まねえことをしやした。店先で、騒ぎを」
「それこそいいよ。気にしない。…おれは、うれしかった。エースが怒ってくれて。」

ありがとな、と白い吐息に溶かすように言って、ルフィが笑った。

「……おれの、方こそ。若に、あんな風に言ってもらって、こんな嬉しいことはねえ」

若、と呼びかけて、エースは肩だけでルフィに向き直った。
ん、と微かに笑って応えたルフィをまっすぐに見つめ、エースは口を開く。

「おれは、この通りしがねえただの職人です。力も、銭もねえ。…だけど、おれは絶対に若の味方です。何があろうと、絶対に若のお力になりやす。それだけは、絶対に忘れねえでほしい」

ルフィの顔から笑みが消え、微かに見開かれた眼がただひたすらにエースを見上げた。

「…若。おれは若が大事です。恩も見栄も義理も抜きにして、一生かけて尽くすおひとだと思ってます。」
「……おれがいます、若。それだけは、絶対に忘れねえで下さい。」

生涯生きてきて、こんな心底正味の台詞を面と向かって人に吐いたのは初めてだった。らしくないことをした自覚はあって、血の昇りそうな顔を隠して俯いたエースは、知らなかった。
唇を噛んだルフィが、一瞬だけ、泣きそうに顔を歪めて自分を見つめていたことを。
ことり、と小さな音を立てて、ルフィが湯呑を傍らに置いた。
自らが染めた手ぬぐいを、手のひらに握りしめる。

「…―――エース」

静かな声で呼びかけて、ルフィはエースの手に触れた。
あたたかな手の感触に、は、と顔を上げかけたエースの手を逃げないように捕まえて、その手のひらに藍色の手ぬぐいを柔らかく握らせた。
その大きな片手を、上から両手で握りしめて、ルフィは笑った。

「ありがと、エース。…――ありがとう。」

それ以上何と言っていいかわからなかったから、ルフィはせめて目一杯に笑ってみせた。
その笑顔につられて、微かに照れの混じった顔でエースが笑ってくれたので、ルフィは滲みそうになった涙に気付かれなかったことに胸を撫で下ろした。そうしてひとしきり笑い合って、ふたりは互いの手をゆっくり離した。
ぜんざいの椀を手に取ったルフィが、一口含んであったけえ、と笑う。

椀から立ち上る湯気で、優しく滲んだようなルフィの横顔を見つめてから、エースも椀を手に取った。
ひさしぶりに味わう甘味が舌に優しかった。うめえ、と思わず零したエースのため息に、ルフィがまた小さく笑った。

ちらちらと雪が降っていた。
穏やかに降り積もる雪を眺めながら、ふたりは黙って肩を並べていた。狭い腰掛けのその上で、微かに肩が触れていた。

雪の白さと、湯気と、そして自らの煙草の煙にけぶるその後ろ姿を眺めていたサンジが、ゆっくりと目を逸らした。



「…―――やー、ちょっと遅くなったかなー」
「……若、やっぱり送りましょうか」
「いいっての。迷わねえよ、サボもエースも、おれをいくつだと思ってんだ」

三春屋の外でエースがそう申し出たのは心配からだけではなかったのだが、いいかげん遣いに出ただけにしては時間がかかり過ぎていたから、仕事場にも要らぬ心配をかけるかもしれなかった。ルフィが朗らかに笑ったのにも安心して、エースはそのまま身を引いた。

「……じゃあな、エース。ありがとう。」
「…――いえ。お気をつけて。…また。」

にこ、と笑ったルフィは、そのままくるりと裾を翻して背を向けた。
わずかにちらつく雪の中、白い息を後ろに流してルフィが歩く。
それを見つめていたエースは、その後ろ姿にどこか引っかかるような感覚を覚え、眉をひそめた。若、と呼びかけようとした、その時。
どう、と突然地の底から吹き上げた風が、降り積もった粉雪を舞い上げた。

白くルフィの影を覆う、雪。それにルフィが攫われてしまう。子供の様な馬鹿げた不安感がエースを襲った。
風に乱れる髪もそのままに、訳も分からずエースは声を張り上げた。

「――――若!!」

襟元を押さえて立ち止まったルフィが、その声にゆっくりと振り向いた。
弱まった風に黒髪と白磁の裾を任せ、粉雪を纏わせてルフィがエースを見つめる。
滑らかな頬に艶やかな髪が纏わりつく。その遠目からでも黒々と艶めく瞳がエースを捉える。
そうして、穏やかな眼でエースをしばらく見つめたあと、ルフィは静かに笑って手を振った。

どこかつかみどころのない、幻の様なその淡い姿に、エースは言葉を失った。
ゆっくりと去ってゆくその背中を、追いかけて連れ戻したかった。訳も分からぬまま、その肩を掴んで腕の中に捕まえてしまいたかった。
胸が、言いようのない不安に焼け付くようだった。

雪の中にルフィが消えた。
いつものように、「またな」、とルフィが言わなかったことに気付いて、エースはその場に立ち尽くした。

もうルフィに会えない気がした。
手触りのない不安感が、ざわりとエースの胸を押し潰した。


*****


「…――どうしたよいエース、浮かねえ顔して」
「……マルコ」

「白ひげ」の2階。住み込みの職人たちが、仕事を終えた晴れやかな顔で談笑している。その輪から一人外れ、かすかに開けた障子から外の雪を眺めていたエースに、マルコが歩み寄り声を掛けた。

「ルフィに何かあったのかよい」
「……何でそこで若が」
「おめえがそんな顔すんのは、あの子絡みのことぐれえのもんだろうがよい」

自覚ねえのかよい、と笑い混じりに言われて、エースはがしがしと髪を乱した。

「…別に、何があった訳でもねぇんだ。――ただ、妙に、胸騒ぎがして」
「……。」
「……あんな風に笑うおひとじゃねえんだ。あんな、」

あんな、消えそうに、あまりにもきれいに。
まるで、寒椿を見ていたあの時の母のように。
言葉にしたら何かが定められてしまうようで、エースは続けられずに口をつぐんだ。

その冗談とも思えないような思いつめた顔に、マルコまでもが言い様のないざらつきを胸に覚えたとき。
遠く障子戸の外から、鐘の音が鳴り響いた。

は、と顔を上げたエースが、勢いをつけて振り返りざま、ばん、と音を立てて障子戸を開く。雪のちらつく中に、眼尻を尖らせて耳を澄ませる。
カーン、カーン、と、冬の夜空に鉄を叩く音が鳴り響いていた。
東の空が、かすかに朱く染まっていた。

「…―――半鐘、」
「火事だ!」

にわかにざわめき立った畳の間を、エースが駆け抜ける。それを追ってマルコも、職人たちも外に駆け出した。
火事と喧嘩は江戸の華。木造りの江戸の町。火はすぐに燃え広がる。江戸の民は、火には敏感だった。

町々には見張り台があり、火が出れば鉄の半鐘を打ち鳴らして民に知らせる。今はまだ、カーン、カーンと等間隔で鳴り響く長打ちであったが、これが半鐘の内側を擦る様にジャラジャラと鳴り響くようになればいわゆる「擦り半」、火が大きくまた近い、その報せだった。

近くの住民たちもわらわらと外に出始めていた。
尖った目で東の空に瞳を凝らすエースを目の端にとめたその時、サッチが声を掛けてきた。

「こっちまで回ると思うか、マルコ」
「……いや、確かに雪が水を地面に落としちまって空気が乾いてはいるが、風向きが逆だ。火の元もそこまで近くねえようだし、火の勢いがよっぽどでなきゃあ、ここまでは届かねえだろうよい」
「だよな」

火元はどこだろうな、とサッチが呟いたその時、火消しの一団が半纏を翻して横を駆け抜けた。
町人の一人が、火元はどこだい、と声を掛けた。

「―――東町の富田屋だ!!おめえら、絶対に近づくんじゃねえぞ!!」

荒く張り上げたその声に、ざわり、と群衆がざわめいた。

「東町だァ!?すぐ近くじゃねえか!」
「富田屋さん?何のお店だったかねえ」
「馬鹿野郎、油だよ!積油問屋だ!!何だってよりにもよって」

富田屋。油問屋。――東町。
それらの単語をマルコが反復するかしないうちに、目の端を黒髪が韋駄天の勢いで駆け抜けた。

「――――エース!!行くんじゃねえ!!」

マルコの叫びも、反射的に伸ばしたサッチの手も、もはや駆けだしたエースには届かなかった。空を掻いたサッチの指先のさらにその先を、エースが駆ける。
ルフィ。その名前を胸の内でただただひたすらに呼んで、エースは走った。
懐の藍色の手ぬぐいを、手探りで握りしめた。

「―――ッ、ちくしょう、」
追って走り出そうとしたサッチの肩を、ぐいと掴む手があった。

「―――オヤジ…!」
「!、オヤジ!…エースが、エースが行っちまったんだよ!!」
わかってらァ、と重く答えた白ひげは、その深い色の目でもう見えなくなったエースの背を追った。
止めても無駄だと、わかっていた。

「―――マルコ。ひとっ走り、一番町まで行って来い。まだ若えが、腕のいい蘭方医がいただろう」
「…トラファルガー・ロー、かよい。」
死神。鬼の子。
決して響きの良くない異名が付けられたその医者の名前。決して知らぬ名ではなかったが、マルコはその意を求めて親と慕うその男を見上げた。

「―――死神だろうが鬼だろうが、腕が立つなら借りやがれ。……あの馬鹿共を死なすんじゃねえぞ、マルコ」

その言葉を一時反芻したのち、合点だ、と定まった腹で答えを返し、マルコも駆け出した。その背を見送って、白ひげはもう一度口を開く。
「……―――じきこの辺りにも逃げてきた奴らが集まるだろう。おめえら、湯を沸かして傘もありったけ出しやがれ!普請小屋の準備が始まったら、手ェ貸してやれ!いいな!」

腹の底に響いて、浮足立った人の心を地に付けるようなその声に、おお、と強く応えて、職人たちがてんでに散った。
白ひげが目の前の背中をひとつ強く押し出すと、定まった目で頷いたサッチは、店の中へ駆け戻った。
白ひげの声に突き動かされたように、周りの町人たちもわらわらと散ってゆく。それぞれが、それぞれのできることをするために。

怒声と、物を運ぶ掛け声とが入り混じるその中で、白ひげは吹き付ける風に向かって仁王立ちした。
東の空が、先刻より明らかに明るく、朱く染まっていた。

死ぬんじゃねえぞ。そう誰にともなく呟いて、白ひげは空を睨んだ。


******


「……――ッ離せ!ルフィが!!」
「若旦那!なりません!!」
「離せ!!」

外海屋が燃える。油を吸った朱い炎が、ぬらぬらと巨大な生き物の様に外海屋の母屋を舐め、崩してゆく。飛び散る火の粉。呆然と立ちすくむ奉公人たちの顔にも、熱が痛いほどに迫る。
その先で、炎に照らされてサボが手代や番頭に取り押さえられ、声を荒げて叫んでいた。

「―――ルフィがまだ中にいるんだ!!離せ!行かなきゃ、…おれが、おれが助けてやらなきゃ、」

一度は、ルフィの肩を抱いて逃げたはずだった。
腕の中の弟が火傷ひとつ負っていないことを確かめて、サボが一抹の安心を覚えて手の力を緩めた、そのほんの一瞬だった。ふと振り向いたルフィは、何かに憑かれた様なぼんやりとした声音で、言った。

――――母ちゃんの、針箱が。
そうぽつりと零したルフィの声を、サボが聞いたかどうかのその刹那。
サボの腕の中をするりとすり抜け、ルフィは燃える外海屋の中へ駆けて行った。ルフィ、行くな。サボの悲鳴のような呼び声にも、振り向かずに。

サボの必死の膂力に、番頭や手代が振り切られそうになる。追い縋るその手を殴りつけるようにして、サボが燃える外海屋に向かって足を踏み出そうとした、その時。

「――――行かせません。」

すらりと小袖の袖を広げ、奥方がサボの目の前に立ちはだかった。
雀茶の小袖が、炎を背にまるで血の色のようにサボの目には映った。火の粉を纏う母の、こんなにも温度のない眼を、サボは見たことがなかった。

「どいてくれ母上!ルフィが、あの子がまだ中にいるんだよ!!」
「なりません。どうしても行くと言うのなら、私を殺してお行きなさい。」

業火が風を吸ってごうごうと吠える。その中でも妙にひやりと耳に届く声で、あくまで淡々と、まるで世間話をするかのような温度で紡ぐその言葉に、サボは息を止めた。

「……なんでそこまで…!あの子が、ルフィが何をしたっていうんだよ!!あの子がこんな目に遭う理由なんか、」
「あの子に罪はありません。それは私も解っています。」
「ならなんで!!」

そう叫ぶ、燃える様な頭の中のその裏で、サボはちらりと何かが瞬いたのを見た。
「…―――父上の子じゃないか。あんたが好いた男の子じゃないか…!!」

あの時の母の顔を思い出した。ルフィを連れ、外海屋に戻ってきたときの母の顔。熱に浮かされ、夢うつつに揺れる視界の中で見た母は。
「……頼むよ、母上…!!弟なんだ!…たったひとりの、弟なんだよ…!!」

―――彼女は、般若の顔で、泣いていた。

「―――鬼と言われようと。…あなたを死なせるわけには行かぬのです。私は、――外海屋は、貴方を失う訳には行かぬのです!」

血の涙を、見た気がした。

「……母上は、何と、一緒になったんだ…?」

炎を背に凛と立つ母に向かって、サボは呆然と口を開いた。
頭で考えたのではない。サボの心から、血を流し脈打つサボの心から零れる言葉を。

「そんなにまでして。外海屋を守るために、ひとのこころを、殺してまで。……母上は、父上と一緒になったんじゃない。外海屋と、店と一緒になったんだ。」
「…若旦那様!」
「――――それがわかったから、だから父上は、」

母も、そして自らも傷つくとわかって吐こうとした言葉を、サボの肩を掴んだ手のひらが止めた。
サボ、もういい。
囁くように、サボにだけ聞こえる声音で言ったその声を、サボは確かに聞いた。

は、と顔を上げたサボに、一瞬だけ笑いかけて、エースは駆け抜けた。

無駄だとわかっていても必死に火を食い止めようとする外海屋の奉公人の手から水桶を奪い取り、頭からざばりと被る。黒髪から、ぽたりぽたりと水が滴る。炎が、そばかすの散るその頬をてらてらと撫でる。

「…―――エース!!ルフィを!!ルフィを…!!」

サボの涙すら混じるその声に、エースはゆっくりと振り向いた。
もう言葉も続かないサボと、炎に照らされて立ちすくむ奥方をしばらく見つめて、そして、

エースは、笑った。

濡れた藍色の手ぬぐいを、ぱん、と音を立てて広げ、口元を覆うように首の後ろで結んだかと思うと、エースはなんの躊躇いもなく、燃え盛る業火の中へ飛び込んだ。
あっという間に、炎が彼を呑みこんだ。
誰も動けぬままに、ただ炎が風を吸い外海屋を焼き崩していくその音だけが、轟々と響く。

「…死ぬな、エース。…ルフィ…!!」

サボは、ついにその場に崩れ落ちた。燃え盛る外海屋に向かって、叫んだ。

「―――ッ、死ぬな!!エース!ルフィ!死ぬな!!」

サボの血を吐くような叫びが、冬の夜空に呑みこまれた。
雪が、降っていた。











凍て雪や 眼沁みゆる 寒椿
いてゆきや まなこしみゆる かんつばき

20130303 Joe H.