(雪・2)



「……御免くだせえ。」
「はいはい。…――ああ、白ひげの。」

この天候で客足が悪く、しんと暗い外海屋の玄関先で声を張る。
客ではないと見るや、露骨に声の温度が落ちた手代の出迎えに、エースは内心苦々しく舌を打った。

「雪の中難儀でしたでしょう。言ってくだされば小僧を遣いにやりましたのに」

外海屋の土間で、若い手代はさして心の籠らない声音で形ばかりの労いを言った。職人と見て内心では見下しているこの手代を、エースは決して気に入ってはいなかった。
外海屋の奉公人は、特に店表に立つ商人たちは、一体に職人や棒手振りなど、小さな商いで飯を食っている者たちを見下す態度を取ることがあった。それは店の中ですらも同じなようで、奉公人たちの中での商人と職人たちの確執を、サボが憂いているのをエースは知っている。

上に立つ主がそうだから仕方がねぇのよ。
周辺の人間がそう苦々しく吐き捨てるその相手が、決して「若旦那」のことではなく、奥方その人のことであることも。

「……急ぎの品と、聞いておりやしたんで。申し訳ねェが、若は」
「…若?……ああ、ルフィさんのことですか。さて、今日は店に出ていたかどうか」

お世辞にも主に対するものとは思えない言い方だった。
ざらりと胸の内が感触悪く波立った。この男が、引いてはこの外海屋の奉公人の一部がルフィをどう見ているか、それが露骨に剥きだしになった様だと思った。

過去にも散々やらかして白ひげやマルコから大目玉を喰らったことがある、曰く付きのごくごく短い堪忍袋の緒が、じりじりと音を立てて焼き付き始めた。
おいあんた、と口を開きかけた、その時。

「―――エース?エースじゃねェか!来てくれたのか!」

もくもくと湧いた真っ黒な雷雲に、日向が差したようだった。
たたた、と足音を立てて奥から出てきたルフィは、白磁色の木綿にからせみ柄の着物をすらりと着ているだけだった。綿入れどころか羽織さえ着ず、剥きだしの足首が寒々しいが、自分と同じで寒さには強いこともエースは知っていた。
深々とルフィに向かって頭を下げた後、エースはちらりと笑って腕の中の傘を持ち上げた。

ルフィに会釈の一つでもするでもなく、件の手代がしれっとすれ違って行ったが、ルフィはそんなことを気にもせず、満面の笑みでエースに駆け寄った。

「悪ィ、寒かったろ?お茶でも出すから上がって行けよ!」
「いえ、まだ仕事がありやすから、お気持ちだけで。それより若、品の出来を見てもらいてえんですが」
「エースの仕事だ、確かめるまでもねえよ」

職人にとっては赤面ものの殺し文句をさらりと言って、ルフィは花のように笑った。
ぐ、と熱くせり上がった血に二の句を詰めてしまったエースには頓着せず、その腕から直接傘を受け取ったルフィは、膝をついて大事そうに板の間にそれを置いた。慈しむ様な手つきでそのうちの一本を膝に抱くと、きれいだな、と静かに呟いてその身を撫でる。

ルフィの手に触れられて、番傘の江戸紫がよりいっそう鮮やかに、誇らしげに映えた気がした。

「――ありがとう、エース。立派な傘だ。大事にするな。」
「…若にそういってもらえたら、こいつらも本望ってもんだ」

吐息で小さく笑って、ルフィはまた傘に目を落とした。ぱり、と音を立てて、糊の乾いたばかりのそれを半分ほど開く。ルフィの瞳にこそ相応しい色を。そう思って、丹精込めて紙を染めた。

「…――でもやっぱり、おれァまだまだだ」
「……? 何が?」
「おれは、染が苦手で。――あ、いやもちろん品は何度も直してやっとできた物を、…あ、」
「――あはは!」

意外だ、エースも苦手とかあるんだな。
そういってルフィがけらけらと笑うのに、エースは苦笑して髪をがしがしと乱すしかなかった。

「……何度も?」
「………十ほど、です。マルコに無駄にすんなって怒られやした」

また声をあげて笑ったルフィは、ふと息をつくと膝をついたままの姿勢でエースを見上げ、言った。

「――ありがとう。大事に作ってくれたんだな。」

いっそ愛おしそうにすら思える手つきで、ルフィは傘を膝に抱いていた。
店のための品だとわかっていた。わかってはいたが、叶うなら、叶うならこの5張の傘のうちひとつでも、この冷たい雪からルフィを守るために使ってもらえたらと、エースは思った。間違いなくそう思いながら、節を削り骨を組み紙を染め、そして張った。
ルフィを想って、作った。

「…―――若、」

ん、と小さく返事をし、前髪をさらりと揺らしてルフィが顔を上げた。
何を言うでもない。ましてや伝えられるわけはないのに、なぜか彼の視線を捉えたかった。そんな自分に、呼びかけた後で気付いてエースがうろたえた、その時。

「……ルフィさん、そろそろ相模屋さんが見える頃です。おしゃべりもほどほどにしてくださいよ」

せかせかと忙しそうに、件の手代がうしろを通りすがりざま、少し声高にそう言った。またも、あのルフィを軽んじているのがあけすけな口調で。
あれ、もうそんな時間か、とルフィはさらりと言ったが、その平然とした様子も気に食わなかったのか、手代は小さく舌を鳴らして見せた。まあどうせあなたは商いの場にはおられないのでしょうから、と口の中で言ったのも、きっとルフィの耳には届いている。
周りの奉公人にも聞こえる様な声で言ったそれに、誰も何も言わず、唇の端を上げる者さえいた。

エースは、じり、と頭の中で再び何かの燻る音を聞いた。今度こそ口を開こうとしたエースがそれでも声を出さなかったのは、エース、と静かに呼びかけたルフィが、穏やかに微笑んで、微かに首を横に振ったからだった。
こんな扱いにも慣れきってしまっている。そのきれいな笑顔が痛々しかった。

見ていられなくて、思わずぎり、と手代を睨みつけた。

「……―――なんだ、その眼は。何か言いたいことでもあるのかい」

汚らしい職人風情が、生意気な。
口の中で呟かれたそれは、確かにエースの耳にも届いた。が、矛先がルフィから自分へ向いたことで、少しは冷静になれた部分があった。
ルフィ本人が黙って聞いているものを、自分が勝手に騒いで彼に迷惑をかけるようなことがあってはならないと思った。だが、自分や自分の身内を貶される分にはそれ相応の応酬をすればいいだけだったからだ。

手代の名前をきいて、あとで店の外にでも呼び出してやろうか。
そんなことを頭の端で考えていたその視界の隅に、白磁の木綿が翻った。
だん、と音を立てて手代が壁に背中を打ちつける。目の前に舞った黒髪と白磁の残像を、エースは夢でも見るかのような心地で眺めた。

「―――もういっぺん言ってみろ」

手代の胸倉を掴み上げ、腹の底に響くような強い声で、ルフィが言った。若、何を、とどよめいて駆け寄る奉公人たちが、その眼差しにおののいて足を止めた。

「おれは、自分がなんて言われようと構いやしねェ。言われて当然だってこともわかってる。…だけど、職人たちを、――エースを馬鹿にするようなこと言うのだけは、絶対に許さねェ!!」
「誰のおかげで、おれたちが毎日お天道さんの下歩けると思ってんだ。雨の日も雪の日も、カンカン照りの日だって、地に足踏ん張ってお天道さんに胸張って歩けると思ってんだ!!」

「…――もういっぺんでもエースを貶すようなこと言ってみろ。おれが絶対に許さねェ。」

はあ、と大きく息をついて肩を揺らしたその背中に、エースはぎり、と拳を握った。
どうしようもなくて、せめての気持ちの代わりに頭を下げた。

一生をルフィに捧げようと思った。誰に笑われてもいい。何を言われてもいい。ルフィのために生きようと思った。ルフィを守るためなら何でもしようと思った。この身は、この腕は、この手は、たった今からルフィただ一人のものだと、そう思った。
今度こそ。今度こそルフィを守るのだと、そう、思った。

「……――誰か、手貸してやってくれ。」

そう静かに言うと、ルフィはずるずると座りこんだままの手代には目もくれず、背を向けた。
立ったままのエースに近づき、目線を合わせる為に雪駄をつっかけて土間に降りる。まっすぐにエースの目を見つめ、ごめんな、と言ったルフィに、エースはゆるゆると首を振った。もう十分だった。

エースを見送ろうと一歩踏み出したルフィの背中。
奉公人たちに助け起こされながら、手代は悪意を持って口を開き、その無防備な背に言葉を投げた。
「妾の子が」、と。

「―――――エース!!」

反射的に振り返り足を踏み出したエースを止めたのは、やはりルフィの声だった。
だが今度こそは許せなかった。どうなろうと構わない。そう思って拳を固めたその腕ごと抑え込むように、あたたかな体温がエースの身体をしめつけた。

「…エース、もういい。十分だ。」
「……離してください若。若が良くても、おれの腹が収まらねェ…!」

燃える様な瞳で睨みつけるエースに恐れをなして、奉公人たちがざわりと一歩引く。件の手代がもはや逃げ腰なのもわかってはいたが、それでも腹の虫がおさまらなかった。

「駄目だ、エース。……職人の手だろ。」

固めた拳をするりと包み込んだあたたかい手の感触に、エースは呼吸を取り戻した。

「大事な手だろ。おれの、大好きな手だ。傷つけたら許さねェ。」

な、と笑って見せたルフィに、エースは全ての毒気を抜かれた。
あまりにその笑顔がすがすがしくて、やわらかくて慕わしくて、泣きたくなるくらいにエースは身体の力が抜けるのを感じた。
何より、触れた手を、全身でエースを抱くように止めたその身体を、腕の中に収めてしまいたい、力一杯腕に抱いてしまいたい。その衝動にうろたえ、抑えるのに必死だった。

「おいおい、なんの騒ぎだい」
「……若旦那様」
「サボ、」

粋好みの柳染めの羽織に格子柄の小袖を着こなして、ゆったりとした足取りでサボが顔を出した。
エースがいることに気付いてつと目を見開いた彼に、エースは目線と会釈で詫びを入れた。
寄り添うように立つエースとルフィ、そして未だに床に尻をついたままの手代。それを順に見遣ると、全てを察したようにサボはエースに視線を合わせ、頷いて見せた。

「ちょうどよかった、ルフィ、ちょいと遣いを頼まれてくれねぇかな」
「……え、」
「実は相模屋さんに出すはずの茶菓子、数が足りなくてさ。悪いんだけど、三春屋まで行ってきてくれねえか。ああ、ちゃんとサンジが作った大福選んで来るんだぞ。」

懐の紙いれから小銭をちょいとつまみ出し、サボはルフィの手のひらに握らせた。外は雪だ、せめてこれを着ていきな。そう言って、自分の羽織をその肩に掛け、軽くエースに向かって押し出してやる。
戸惑うルフィには穏やかな笑顔で応えておいて、サボはエースに向き直った。

「エース、仕事中に悪いんだけど、こいつ三春屋まで送ってくれねえか。迷子になったらと思うとおれも気が気じゃなくて」
「……はい、必ず」
「ちょ、サボ?」
「若、行きましょう」
「エース…!」

深々とサボに頭を下げたかと思うと、エースはルフィの肩を促して早々に外海屋を出た。
エースの広い肩の陰から、最後まで眼の端で振り返ったルフィ。安心させるようにひらひらと手のひらを振りながら、サボは自分の笑みがだんだんと硬質に冷えていく感触を覚えた。
弟にはあまり見せたくない部類の顔だった。
ゆっくりと振り返る。

「――何度も言ったはずだよ。ルフィはこの外海屋にあるべくして居る子だと」
「……、わ、私は、外海屋と若旦那様のためを思って」
「店とおれ?おれに何かあったら、この店をしょって立つのはあいつだよ。外海屋とおれを思うなら、そろそろ心構えを改めてもらわないと困る。……あいつがどんなことを言われてるか、おれが気付いていないと思ったら大間違いだよ。」

あくまで薄く笑みを浮かべて言うサボに、大店の主人としての風格を見たのは手代だけではなかった。
しん、と凍るように動きを止めたその場の空気を動かしたのは、静かな白い足袋の足音だった。

「――騒々しい。店の表で、何の真似ですか」

奥から姿を見せた奥方の冷徹な声に、奉公人が一層恐縮して身を縮めた。
ただ一人サボだけが、すらと背を張って彼女に向き直った。

「……母上。この際だし、話があるんだ」
「…――じき相模屋さんが見えます。何をしているのですか、早く支度をなさい。」
「母上、」
「反物を奥から。お茶の用意は、」
「母上!!」

珍しく声を荒げたサボに動ずることもなく、奥方はゆるりといっそ優雅ですらある仕草で振り向いた。結い上げた髪から首筋への線が細い。ふとその姿に、纏う空気とは裏腹の脆さを見たような気がして、サボは思わず息を止めた。

「…――誰が何と言おうと、外海屋の跡取りは貴方です。」

外海屋は、私が守ります。
凛と背筋を張り、呉服屋の女将にしては控えめな雀茶の小袖の裾を揺らし、奥方は背を向けた。
その頑なまでの細い肩に、サボは拳を握りしめた。

外海屋の庭の松から、雪がぼたりと落ちた。


******


「おお、ルフィじゃねえか。えれェしばらくぶりだなオイ。さすがのおれも心配したぜ」
「よ、サンジ。久しぶり。皆には会うか?」
「ウソップはカヤさん連れてよく来るし、チョッパーはいわずもがなだな。アイツらもお前のこと心配してたぜ」
「うわーあいてえなー。ゾロにはこないだ庭の手入れ頼んで会ったけど」
「あのクソ庭師はどうでもいいんだよ。……と、人相の悪いお供もお連れの様で?」
「おれァ客だぞ。もうちっと愛想のいいこと言えねえのか」
「あいにく野郎に振りまく愛想は持ち合わせてねェんでね。コラルフィ、麗しのナミさんは今日もお元気か」
「しし!相変わらずだなあ」

いつもならこのサンジの甘い言葉と菓子を味わいたい女客がひしめき合うこの三春屋も、今日はこの雪で客足が落ちているようだった。
奥の小さな席に若い女の二人組が座っているのを除けば、この店にしてはひっそりと静まっている。

「…エース、時間もらっていいか。少し話したいんだ」
「……え、」
「店、忙しいか」
「…いえ。でも、お店の遣いは」
「お茶菓子のことか?あんなのサボの嘘だ、エースだってわかってんだろ?」

しし、と悪戯をたくらむ小僧の様な無邪気な顔で笑って見せて、ルフィはサンジに向き直った。

「サンジ、お茶と適当に茶菓子頼む。お前が作ったヤツな」
「……全くお前ってお人は…。はいよ、お待ちを若様」

菓子屋とは思えない色気のある仕草で葉巻をくゆらせて、サンジは茶を入れるべく店の奥に姿を消した。

「…頼む、エース、ちょっとだけ。……一緒にいたい。」

どくりと鳴った心の臓を、妙に生々しく意識した。
黒々とつぶらな瞳に見上げられ、とどめにこんな台詞を言われて帰れる奴がいるなら見てみたい。浮世を捨てた坊主だって揺らぐに違いないとエースは思った。

だがしかし、あまりにもその疼きは胸に甘く、そして痛かった。
離れて暮らし、触れることもかなわないかつての「弟」に抱くにしては、あまりに甘く、そして痛い鼓動だった。
先ほどの、外海屋の店先で彼をこの腕に抱きたいと思ったあの衝動を思い出す。
守りたい。大切に慈しんで、彼が幸せに生きていけるように。彼が笑っていてくれるように。

(―――それだけ、か?)

有り得ない。それ以上に何があるのだ。そう思う頭の端で、もうその答えを知っている自分がいるような気がした。

「…――エース?」
「…あ、」

すみません、と一声かけると、無理矢理ルフィの瞳から眼を引っぺがし、エースは空いている席を探して視線を巡らせた。
頭に熱が昇っていた。おれは今、一体何をこの胸の内から引き出そうとしたのか。

「……若、奥へ」
「…んや、おれここがいい。エースがよければだけど」

そう言ってルフィが視線で示したのは、入り口近くに置かれた鮮やかな緋毛氈の腰掛けだった。
暖かい時期に、外で茶を楽しめるように店の軒下に出されるものを、店の中へ片づけただけのそれ。風はなくちらちらと雪が降るだけの日ではあったが、奥に比べたら格段に寒いはずのそこ。

「……雪、見たくて。」

微かに目を伏せ外を見て、密な睫毛を震わせるように瞬いて、ルフィがぽつりと言った。
エースが言うべき言葉は、もうなかった。