(雪・1)


しんしんと降る雪が音を吸う静寂の中、ほた、と何かが落ちる音がして、エースは足を止めた。
小さな神社の境内に植えられた白の寒椿。その花が、降り積もった雪の上にまるで今そこに咲いたかのように落ちていた。

腕には商売物の傘を抱えている。急ぎの品であったから、長々と寄り道をしている時間はない。それをわかっていて足を止めたのは、その音に呼び起こされた記憶があったからだ。

椿の花は「枯れない」。その様の通り「落ちる」と言う。
なんと美しく、かなしい様だろう。

そう言ったのは、母だった。
質素な囲われの暮らし。病に侵された細い両腕に、自分と、そして弟を抱き、母は庭の椿を眺めそう言った。
その言葉のまま、春を待たず母は花の落ちるように死んだ。美しいまま死んだ。

「……。」

エースが目を伏せ歩みを進めると、しゃく、と雪が小さく音を立てた。
幾重にも折り重なった朱色の鳥居を抜け、社の裏の抜け道へ。ここを抜ければ、外海屋までは近かった。子供のころ、弟と二人でよく通った道だった。外海屋の勝手口からこっそり抜け出してくるサボを迎えに。

エースは、追憶を振り切ることができぬまま歩みを進めた。

母の死に目に、弟は、ルフィは会うことができなかった。
母が亡くなるひと月前、外海屋に引き取られていったからだ。
自分とルフィは、父親が違う。ルフィの父親は、先代の外海屋の主。サボの父親だった。

詳しい話を、エースは母の口から聞いたことはなかった。ましてや先代の外海屋とは言葉を交わしたことも数えるほどだし、ルフィも、そしておそらくサボも、聞いたことはないだろう。
ただし、娯楽もない奉公人たちの口や、町人たちの噂話から、いくらでもその顛末をうかがい知ることはできた。サボも、そしてルフィも、きっと同じだったろう。
いや、ルフィはきっと、もっと心無い言葉を耳にしているはずだった。

ぼたり。椿の垣根から、だま雪が落ちた。

母が外海屋に奉公に上がったのは、まだ赤子のエースを抱えていたころだったと聞いている。そのころすでに、父親はいなかった。急な病で死んだと、彼女は言ったそうである。

丁度その頃、外海屋のおかみは待望の長男を生んだ。
先代外海屋は、もともとは手代まで務めた奉公人であった。外海屋の娘であったおかみが、奉公人であった先代を見初め、父に祝言を挙げる口添えを頼み込んだとのもっぱらの噂だったという。
口さがない奉公人の間には、おかみの一方的な恋慕に、一介の奉公人が断りを言えるはずもないと、二人の仲をあしざまに言うものもあった。そんな最中の、待ちに待った跡取りの誕生。外海屋は諸手を挙げて祝う騒ぎであったという。

これで外海屋は安泰だ。子はかすがいと言うし、これで主人夫婦のぎこちない関係にも少しは油が差すだろう。
そう誰もが思った、その2年ほど後のことだった。

独り身であるはずのエースの母が、ルフィを身籠ったのは。

外海屋は、いや、おかみはすぐに彼女にいとまを出した。だが、幼子を抱えた身重の女ひとり、町に放り出すのは同じ母として気が引けたのか、はたまた世間様の外聞を気にしたのか、町はずれの離れ屋に住まわせ、針の仕事をぽつりぽつりと与えたという。

二人の女と一人の男。その間に何があったのか、エースは知らない。
だが、その離れに、人目に隠れるようにして訪ねてきていた先代外海屋の姿を、幼子の淡い記憶ながらにエースは覚えている。

寡黙で物静かな男だった。
生まれたばかりの小さなルフィを、男は世の中で最もやわらかいものを抱くかのように、愛おしそうに抱いていた。母を気遣い、その肩に自分の羽織をかけてやっていたその大きな手で、彼はエースの頭を撫で、飴玉やちいさな独楽をくれたこともあった。

父がいたならこんな感じだろうかと、幼いながらにエースは思った。

その先代外海屋が、死んだ。
その年は、江戸中にたちの悪い流行病が流行った年だった。
熱に浮かされ、あまりにあっけなく主人が倒れ、次いで隠居していた先々代も後を追い、外海屋は土台が揺らぐ大騒ぎとなった。
エースが数えで7つ。ルフィは5つの時だった。

ルフィがいなくなったその日のことを、エースは今でも忘れない。

疲れ切った、般若のような顔をした外海屋のおかみが、離れ家を訪れた。そして、先代の血を引くルフィを連れて行くと言った。
泣いて頭を下げる母に、彼女は冷たく言った。
「今更、どの口が許しを請うのか」と。

跡取りであるサボが、流行病の兆しを見せていた。
彼にもしものことがあれば、先代の血を引くルフィを、という心づもりだったのだろう。
わけもわからず腕を引かれ、泣いて泣いて、顔をぐちゃぐちゃにしてルフィは泣いた。

ルフィを離せ。ルフィを返せ。
力ずくで連れ戻そうとしたエースを、抱きしめて離さなかったのは母だった。
母はすでに病に侵されていた。後ろ盾も何もない自分のもとにいるよりはと、身を切る思いで送り出したのだと、今ならわかる。
母の絞り出すような嗚咽を背中に聞きながら、エースも泣いた。

弟を返せ。ルフィを返せ。返せ。返せ!
泣き叫ぶ幼い自分の声。母の嗚咽。母を、自分を呼ぶルフィの声を、エースは今でも夢に聞くことがある。
小さな、やわらかい弟。殴って泣かせたこともある。幼さゆえの歩幅の足りなさに、腹を立て放り出したこともある。それでもいなくなるなんて、考えたことがなかった。

父親がいないことを近所の子らに笑われれば、兄がいるからいいと胸を張って殴りかかっていった弟。
人混みの小さな夜祭の日、エースの手を小さな手で探り掴んで、はぐれないように歩いていた弟。
冷え込む雪の夜、母と自分の間に潜り込んで、幸せそうに笑った小さな弟。

なぜもっと優しくしてやれなかったかと悔やんだ。自分がもっと強かったら、自分がもっと大切にしてやれていたら、弟はいなくならなくて済んだのではないかと思った。

どうしようもなかったのだと、誰もがそうするしかなかったのだと、そう思えるようになるには随分と時を要した。

弟のぬくもりが消えたのがよほどこたえたのだろうか。母は火の消えるように弱り、そして亡くなった。
呆然とするエースを迎えに来たのが、「白ひげ」と名乗る大男だった。聞けば、エースの父親の昵懇だったという。悪友、と彼は言ったが、どんな知り合いだったのか詳しく聞いたことはない。

母は、死ぬ前にエースの行く先を案じ、彼に助けを求めたのだ。
こうして、エースは数え7つにして職人としての道を歩むこととなった。
それ以来、エースは弟を名前で呼んだことはない。

「……。」

さく、と足元で雪が鳴る。
江戸で降る雪の量は高が知れている。なめし皮の地下足袋にそろそろ雪が浸みていたが、もともと寒さには強い。足取りを重くしているのは、濡れた足元のせいではない。

そう、あの日もこんなふうに雪のちらつく日だった。白ひげの生活にも慣れたころ、エースはルフィに会いに行ったことがある。
いつもサボがこっそり抜け出てきていた勝手口から忍び込み、外海屋の母屋の裏手に回った。

一緒に帰ろう、ルフィ。白ひげで一緒に暮らそう。職人になってふたりで暮らそう。
そう言って、あの小さな手を引いて帰るつもりで。

だが、外海屋の奥で見たルフィは、エースの知っているみすぼらしい小さな子供ではなかった。
暖かそうな綿入れの着物を着せられ、柔らかく炭の燃える七輪にあたり、サボと二人並んで番頭から外海屋の帳面を見せられていた。

お二人は外海屋の大事な跡取りです。坊ちゃんは若旦那様、ルフィ坊は頭取番頭かのれん分けか。いずれはこの外海屋をしょって立つのですから、お得意様のお名前と商いの大きさくらいは知っておかねばなりません。

訳も分かっていないだろう。ただぽかんと口を開けて番頭の顔を見上げていたその小さな横顔を見て、エースは背を向けた。そのまま走ってその場を離れた。

弟はここにいた方が幸せだと思った。
自分のこの頼りない両手で連れ出してしまうより、あのあたたかい母屋にいた方が余程幸せだと思った。
もう弟と思ってはいけない。ルフィは外海屋の血を引く子供だ。サボに何かあれば、ルフィがあの大店をしょって立つのだ。あいつならやるだろう。きっと立派な主となるだろう。もう弟と思ってはいけない。自分とは違う世界にあいつは行ってしまった。そう思った。

ルフィ。その名を呼ぶことを、自らに禁じた。

そうして、初めてルフィが自分から「白ひげ」を訪ねてきたとき、エースは初めてルフィを「若」と呼んだ。他人行儀な町人言葉を使うエースを、空っぽの目で見上げていたルフィ。
その顔を、エースは今でも忘れない。

それから、何度ルフィが訪ねてこようと、エースは頑なにその態度を変えることはなかった。
ルフィもいつしか、エースに縋るような目をすることをやめた。その代わりに、ひどくさみしい、きれいな顔で笑うようになった。

ほたり。またひとつ椿が落ちた。
エースは、雪の上に咲いたそれから、目を逸らした。