(紅・下)



「―――…この手ぬぐい。まだ使ってくれてんだな」

見上げるルフィの言葉に、ああ、と思い出したように応えたエースは、ルフィの手を包み水滴を拭っていたそれを愛おしそうに眺めやった。

「…若にもらったもんです。墓まで持って行きますよ」

真摯な声音とやわらかい笑顔で、エースは言った。
それは、ルフィが生まれて初めて自分の手で染めた手ぬぐいだった。

それにじんわりとあたたかくなった胸の内をなんと言葉にしていいかわからなかったから、ルフィも彼の顔を見上げ、笑った。
ありがとう、と色んな思いを込めて言うと、エースはゆるく首を左右に振った。

座れよエース。いや、おれは。いいから。そう問答を何度か繰り返し、ようやっとエースがためらいがちに並んで腰掛けた。

「……今日は」
「…ん、頼みがあってな。毎月の傘な、来月少し多めに入れてもらえるか」
「…量にもよりやすが、いかほど」
「上物5張。…いけるか」

大きな商いがあるんだ、とルフィはエースの目を見て言った。
豪商相模屋の一人娘が武家に嫁ぐ。その花嫁衣装を上方から取り寄せることになっていた。扱うモノも、客も生半可な覚悟ではならぬ相手。下手を打てば外海屋の身代にもかかわる商いになる。

呉服屋は見栄の商売である。
例えば新しい反物を仕立てた客がいたとして。花嫁衣装を定めにくる客がいたとして。
梅雨の時期。秋の長雨、みぞれに雪。新しい反物を抱えて客がそれに濡れることがあっては、品も店の箔にも傷がつく。外海屋は、いつなんどきでも客に惜しみなく傘を差し出し持ち帰らせるよう、毎月この傘職「白ひげ」から和傘を仕入れ、置いている。

あえて傘に外海屋の屋号は入れない。露骨な主張は粋好みの江戸の民に嫌われる。
そのかわり、柄に焼き紋を入れていた。持ち主の手を離れ、傘を立てて置いたとき。その時に初めて、その名を示すように。

「……相模屋のお嬢さんが。なるほど」
「頼めるか。…つっても、ここ以外頼めるとこなんかねェんだけど」

はは、と声を立てて笑って、エースはひと呼吸ののちルフィの方を向いた。

「……やりやしょう。ほかでもねェ若の頼みだ。オヤジも無下にはできねェ。」
「いやった!ありがとうなエース!あーよかった!!」
「若のことだ。大方おれがこう言う事も踏んで来たんでしょう」
「しし。わかるか?」

若にゃあ敵わねェ。
くつくつと喉を鳴らして、またエースは笑った。

本来傘は、その複雑な構造ゆえに、いくつかの工程を専門の職人がそれぞれ請け負って作るのが一般的である。
だが傘職「白ひげ」は、それを店構え一つの中に揃った職人たちだけでやってのける、江戸の中でも稀有な店であった。職人ばかりの店構えだから、そうそう愛想のいい商いもせず、昵懇の客との細々とした商売、そして外海屋のような商家への卸ばかり。それでもこうして「白ひげ」の一枚看板が曇らずにいるのは、腕のいい職人が全ての工程を請け負う、その安心感と受けた注文の確かさがあるからだった。

そして、大所帯の「白ひげ」の中でも一人で全ての工程をやってのける職人はほんの数人。エースは、その中のひとりだった。

「受けたからにゃあ、おれが責任もって仕上げやす。納めは。」
「向こう7日延ばしでいいよ。…あんまり余裕あること言えなくて申し訳ねぇけど」
「いえ、充分です。向こう5日には、必ず。」
「…助かる。礼ははずむって、サボが」
「若旦那が?そりゃあ豪儀だ、ありがてえ」

そしたら、あの雨漏りする屋根くれえは葺きなおせるかな、と独り言のようにため息をついたエースに、きゃらきゃらと声をあげてルフィが笑った。

「あーよかった!これでダメだったらまた役立たずって怒られるとこだった」

何でもないことのように、冗談のようにルフィがさらりと言ったその言葉。
その言葉の意味を知っているエースは、一瞬息を呑んだ。

それに気づいたか、ルフィははっとした表情でエースを振り返り、申し訳なさそうに小さく笑った。

「……悪ィ、変なこと言った。」
「……若、…おかみさんとは、」

それ以上何とも言えず黙ってしまったエースに苦笑して、ルフィは自ら口を開いた。

「……相変わらずだよ。これ以上悪くもならねェし、良くもならねェ。このままだ。これからも、ずっと。…当たり前だよな、旦那が外に囲ってた妾の子とひとつ屋根の下なんて、気分いいわけねェよ」
「…若、」

エースがそう呼んだ、その時。
ルフィが、足元に落としていた視線を、ぞくりとするような緩やかさで持ち上げた。

「―――『ルフィ』って、呼んでくれねェの?……あの頃みたいに」

ひゅ、とエースの喉が鳴った。

「……一緒に暮らしてた、あの時みたいに。」
「……ッ」
「金はなくても、幸せだった。寒くても、エースの布団に潜り込んで」
「若、」
「…おれ、おれ、ほんとはエースと」
「―――若!!」

びくりとルフィの肩が跳ねた。目が覚めたように息を呑む。

「…若、それ以上は。……ひとに聞かれやす」

前髪に表情を隠したまま、唸るようにエースが言った。

「……ごめん。エースに迷惑かけるとこだったな。」

ごめんな、と努めて明るくもう一度詫びを言い、ルフィは立ち上がった。

「――さて、注文も上首尾に終わったことだし、さっさと帰るか!お天道さんも傾いてきたし」
「……送っていきやす」
「ん?いいよ、いつもの道だし」
「せめて大橋まで。……これくらい、させてください」

自分に従ってするりと立ち上がったエースを、ルフィはゆっくりと見上げた。
ごめんな。ほろりと零すように小さくつぶやいたルフィに、エースが切なそうに顔を歪めた。
夕陽にあてられた二人分の影が、交わらぬまま土間に長く落ちていた。


******


「……しかしすげェ色だなあ。夕焼けと彼岸花で大川が燃えてるみてェだ」

チャリン、チャリンと雪駄を鳴らしながら先を行くルフィに一歩遅れ、エースはそのうしろ姿を眺めていた。
西の空を焼く夕焼けに身を染めながら、ルフィはつと河原に寄ると曼珠沙華を一輪手折った。くるりとその手元で竹とんぼのように弄ぶと、そのまま片手に再び歩き出す。

秋風にさらりと揺れる黒髪が、夕焼けを泳ぐアカネを追うその瞳が、どうしようもなく美しいと思った。
触れることはできない。だからこそこんなにも胸を焼くのかも知れない。そう思った。

「……ここまででいいよ。ありがとう、エース。」

大橋の真ん中で、町と町のその間で、ルフィはエースを振り向き、言った。
一輪の曼珠沙華が、ルフィの胸元でくるりと揺れた。
せめて大橋まで。そう言ったのは自分だった。それ以上距離を縮めることは、できなかった。

「……また来てもいいか。次はいつになるか、わかんねェけど。」

さわさわと大川が音を立てる。それとも、風に揺れる曼珠沙華の音だったか。

「もちろんです。……お待ちしておりやす。」

静かに笑むと、ルフィはかみしめる様にありがとう、と言った。
すらりとおもむろに、川に向かって片手を伸ばす。細い指先に、紅の花が一輪。
時が止まったかと思った、その余りに美しいその一瞬。

突然、秋風が背から吹き上げてきた。

「…――!」

思わず一瞬瞬きをしたその合間。風を待っていたかのように、ルフィがついと手首を返し、花を川に投げ込んだ。
ふわりと宙に浮き、一瞬風に舞った曼珠沙華。
ほんのひと時。その紅の行方を目で追っていたエースは、じゃあな、と軽く言ったルフィの声を聴いて振り返った。

ルフィはもう、背を向けたあとだった。

チャリン、チャリンと雪駄が鳴く。
淀みないその足音が橋を渡り切り、町へ向かって遠ざかってゆく。

ひとつ、ゆっくりとその背中に向かって深く深く頭を下げて、エースも踵を返した。
一歩、二歩、三歩。ゆっくりと大橋から離れてゆくエースは知らなかった。
背を向けたそのあとで、ルフィがゆっくりと振り返り、その背中を眺めていたことを。
紅に染まるその背中を、ちいさく唇を噛んで見つめていた、そのことを。



「……――おう、なんだいるんじゃねえかよいサッチ」
「……あー、おけえりマルコ。オヤジは?」
「下にいるよい。…なんだよい、外なんか眺めて」
「……マルコ。今日ルフィが来たぜ」

二階の障子窓を開け、小さな枠に凭れ掛かったまま外を見つめサッチがそういうと、マルコは少しだけ息を詰めたようだった。
そうかよい、と静かに言うと、荷物を下ろしどさりと腰を畳に下ろした気配がした。

「……道理でエースがいねェわけだよい。送ってったのかよい。」
「あァ。…多分、じき帰ってくると思うがな」

小さな木造の長屋が立ち並ぶ狭い町の路地を、子供たちが歓声を上げて駆け抜けてゆく。それも少しすれば途絶えるだろう。
自分の名を呼ぶ母の声に、はーいと答える甲高い声。少し早く上がれたのだろう、父の姿を通りの向こうに見つけて駆け寄っていく小さな背中。
それらを見つめて、サッチは言った。

「……とてもじゃねェけど、降りていけなくてよ。せめて見送ろうと思って、ここから見てたんだ。できればちっと声かけようか、なんてよ。」
「……。」

サッチの横顔に西日が差す。深い影が落ちていた。

「なんも言えなかったよ、マルコ。おれァ、胸が潰れちまって声が出なかった。」
「……。」

マルコも、黙って聞いていた。

「幸せそうな顔して笑うんだ。あいつら。絶対そんなわけねェのに、もっと言いてェこともあるはずなのに、肩並べて、黙って、ほんの一瞬でも大事そうに、二人並んで歩いて行くんだよ。影並べて、ゆっくり、ゆっくり。」
「―――おれァ、切なくて、切なくてよ…。」

なんで、あいつらだったんだろうなァ。
そう言ったまま、凭れた腕に顔を埋めてしまったサッチに、マルコは、そうだねい、と言っただけだった。

路地に響くわらべ歌が、ひとつ、またひとつと消えて行った。


******


「……―――随分と、かかったようですね」
「……!『母上』…。」

外海屋の玄関を開けるなり、ぴしゃりと浴びせられた冷たい声音。覚悟をしていたとはいえ、ルフィはあちゃー、と漏れる声を抑えられなかった。

母と呼ばれた彼女が、ぴくりと無表情のまゆを微かに動かしたのがわかった。かつてはさぞやと思わせるような美貌も、今やより一層彼女のまとう空気を冷たくさせる一要素となってしまっていた。
彼女はルフィにそう呼ばれることを望んでも、ましてや好んでもいない。
世間様の耳と目を気にして、あえてそう呼ばせていることを、ルフィは骨身にしみて知っていた。

「……遊びに出したわけではありませんよ。注文はちゃんと付けて来たんでしょうね。」
「あ、それは」
「――ルフィ!お帰り、ご苦労だったなァ!」

思わず、助かった、と思った。
たたた、と廊下の奥から駆け寄ってきたのは、この店で「若旦那」と呼ばれるサボだった。主人亡き今、実質この外海屋を切り盛りしているのはこの奥方と、そしてサボ。彼はこの店の中でも数少ない、ルフィをなんのてらいもなくと「弟」と呼び、ルフィを安心させてくれる存在だった。

「『白ひげ』はどうだった?無理な注文つけるなって怒られなかったか?」
「――しし、うん、大丈夫だったぞ。向こう7日には絶対間に合わせてくれるって。」
「うはー、助かった!!母上、やっぱりルフィに頼んで正解だっただろ?」

あなたが行っても同じだったでしょうよ、と冷たく返し、奥方は座敷の方へ入っていった。
まったくひねくれてんだから、と少し唇を尖らせてサボはそう言ったが、ルフィにしてみればこの展開は上々だ。あの程度の嫌味ならば屁でも無い。

「……エースは?元気だったか」

ごくごく小声で、内緒話をするようにサボが言った。

「……うん、変わりなかった。サボがお礼はずむって言ったら、喜んでた。あの長屋、屋根雨漏りすんだって。」
「――ぶはは!あいつも所帯じみてんなあ!」

声は抑えながら、それでも抑えきれない笑いに腹を抱えながら、サボとルフィは笑った。
ルフィが土間に立ったままなのに気づいて、サボは涙を拭いながらああごめんごめん、と言って台所に声をかけた。

「ナミちゃん!ルフィにお湯持って来てくれ!……足洗ったら上がっておいで。飯にしよう。」
「――うん!」

はーい、と奥の方で応えたナミが桶を抱えて出てくるのとすれ違い、サボは奥へ入っていった。
ああもうあんたまたこんなに砂埃付けて、どこをどう歩いたらこうなんのよ、と遠慮ない物言いのナミの小言はいつものこと。うん、うん、と適当に耳の穴をするりと通して、ルフィはサボの背中を見た。

兄と呼ぶにはあまりに優しい、兄の背中を目で追いながら、ルフィはぎゅ、と拳を握りしめた。
もうひとりの大きな背中を、思い出していた。

―――あんちゃん。
その呟きは声には出せず、ルフィの心の臓のあたりに泡のように浮き、消えた。



そして、明かりの消えた「白ひげ」の土間。咲いた唐紅の傘もそのままに、エースは上り框に腰掛けて、手のひらに藍色の手ぬぐいを握り締めていた。

―――ルフィ。
エースがそう呟いたその声も、迫りくる夜の闇に溶けて、消えた。

エースが作る紅傘。ルフィが手にした曼珠沙華。その燃える様な紅だけが、ふたりの胸の奥にいつまでも残った。













誰そ彼ぞ 恋し恋しや 彼岸花
たそがれぞ こいしこいしや ひがんばな

20130202 Joe H.