(紅・上)



昼下がりの江戸の河原は、曼珠沙華で淡く紅にけぶっていた。
大川にかかる橋の上で足を止めてそれを眺めていたルフィは、縞絣の小袖の襟元を風が通り過ぎて行ったことをきっかけに、再びゆるゆると歩を進めた。

歩くルフィの歩みに合わせ、雪駄の尻金がチャリン、チャリンと小気味よく音を立てる。
橋を渡りきる直前、向こうから来た棒手振りの魚売りが馴染みの顔だったので、精が出るなあ、と声をかけた。

「お、こりゃあ!毎度、ルフィの旦那!今日店に入れさせてもらった真アジも上モノですぜ」
「うわ、ほんとか!そりゃ夕飯が楽しみだ!ありがとな!」
「外海屋さんには贔屓にしてもらってんだから、これぐれェお安いもんでさぁ」

毎度、とまた軽く頭を下げ、河岸の方へ軽快に走り去ったその背中を見送って、ルフィは再び歩き出した。働く者の笑顔ほど気持ちの良いものはないと思った。
頭に思い浮かべている笑顔が、先ほどの魚売りのものではないことには気づかずに。

大橋を渡り、火除けの広場を抜け、河原道を少し歩いた後木造りの長屋が立ち並ぶ新町へ入る。ルフィの住む町に比べると、ずいぶん生活感のある、しかしそれでいてあたたかく賑やかな下町の風景が続いていく。ここは、通いの店勤めや棒手振りの小さな商人、そして自らの手で食い扶持を稼ぐ職人たちの暮らす町だった。

対し、ルフィの暮らす東町は、大きな店が軒を連ねて立ち並ぶ商人の町だった。その中でもルフィの住まう「外海屋」は、江戸の町が開いたその頃からあったという、いわゆる老舗の呉服屋であった。

「あー!『わか』だ!」
「『そとみやさんの若』だ!」
「ルフィ!」

路上でコマを回して遊んでいた子供が顔をあげた。ルフィの顔を見ては次々にわらわらと駆け寄る。
ようおめーら、変わりねーな、と声をかけて頬についた泥を親指の腹で拭ってやる。
ひひ、と照れ隠しに笑って見せた幼子の小さな頭を一つ撫でて、ルフィも笑った。

「ルフィ、今日は何して遊ぶ!?」
「あーごめんなお前ら。今日は店の用事で来たんだよ」

えー、ちょっとならいいだろ、という不満の声に再び笑って応えようとしたところで、真横の豆腐屋の戸が開いた音がした。

「…あらま、まあ若じゃないの!あらまちょっと、少し見ないうちにまたいい男になって!」
「しし!そんなこといってくれんのおかみさんくらいだって」
「どうだかねえ!ごめんなさいね若、うちの子が引き留めちゃって」
「違わい!ルフィが今来たとこだったんだ!」
「ま、このバカ息子!ちゃんと『外海屋さんの若様』って呼びなって言ってんのに」

拳骨が降る前に頭を抱えて散った子供のうしろ姿を笑って見送りながら、いいよおかみさん、おれ名前の方が好きだから、と声をかけた。
すみませんねえ、と笑い混じりに答えるのには手のひらをはたはたと振って返して、じゃーな、と軽く言って背を向ける。

町を抜けていくその間に、軒先から顔を覗かせた人々が次々に軽く声をかけてゆく。
おや若、ひさしぶりだねえ。
若、お店の遣いかい。
若、帰りに寄っておいきよ。もらいものの菓子があるんだよ。

その一つ一つに声をかけて、ルフィは長屋の街並みを抜けて行った。
チャリン、チャリンと雪駄が鳴る。ルフィはこの町が好きだった。決して豊かではない。だがそれゆえに気取らず、あるがままに、ただし自分の手と生業に誇りを持って生きている、この町の人々が好きだった。この町に流れる、豊かな時間が好きだった。

チャリン、とひとつ音を立てて、ルフィの足が一軒の軒先で止まった。
中から、しゅ、しゅ、と規則正しい微かな摩擦音が聞こえていた。尻金の音を鳴らさぬように、ゆっくりと開いたままの戸から板場の中を覗き込んだ。
その代わりのように、ルフィの心臓がすこしだけ高い音で鳴ったようだった。

(……いた。)

燃える様な唐紅の和傘が、土間の中でいくつも花開いていた。
柿渋染めの衣に身を包み、藍色の手拭いで少し癖のある髪を覆い、ひとりの職人が傘に油紙を張っていた。
彼の名前を、エースといった。

(………きれいだな)

手折れそうな細い骨を丁寧に筆でなぞり、糊を乗せる。ぴしりと張った紙を、丁寧な手つきで骨に寸分違わず貼り、軽く指でなぞったあとに乾いた刷毛で馴染ませる。
しゅ、しゅ、と規則正しい音が軽やかに土間に響く。

そばかすを乗せた、すきりと涼やかな横顔。淀みない手さばき。音に合わせて揺れる高い肩。
切れ長の眼は、まっすぐに手元を見つめて揺るがない。

まるでエースの周りを除いて時間が止まったかのように、ルフィはそこに立ち尽くした。
しゅ、しゅ、とエースが奏でる音だけが、ルフィの心の臓のあたりにすとんと流れて落ちた。

油紙を張り終えるたびに、くるりくるりと少しずつ傘が回転する。そうして一組みの骨組みごとに紙が張られ、傘の姿が徐々に整っていく。
最後の紙を貼り終えたエースが、その見栄えをたしかめてやっと、ずっと止めていたかのように深く深く息を吐いた。

それが合図だったか、ルフィも知らず止めていた息をついた。
思わず揺れた肩に合わせ、雪駄がチャリンと鳴く。
エースがそれに気づいてくるりとこちらを向いた。かと思えば、みるみるうちにその切れ長の眼が大きく見開かれた。

「……、…! 若…!!」

慌てて立ち上がった決して軽くはない男の躯体に、上り框の板ががたたと音を立てた。
まろぶように土間の下駄をつっかけて、かつかつと音を立ててエースが走り寄る。

「若、面目ねェ…!おれ気付かねェで、…長いことここに…?!」
「…! あ、いや今来たとこ!エースの紙張り見てたから、全然」
「……すまねェことを」

そのまま頭を下げようとするエースの肩を慌てて押しとどめる。やめてくれそんなの、と半ば本気で懇願して、その顔を見上げる。

「……久しぶりだ。エースの仕事してるとこ見るの。…近頃は、あんまり出させてもらえなかったから」
「…、若、」

ルフィの言葉に、エースは少しだけ切なそうな顔をした。
それを拭い去りたくて、ルフィはエースの袖を掴む手に少しだけ力を込め、彼の顔を見て笑った。
ひさしぶりだな、エース。会えてよかった。

そのルフィの言葉に、す、と少しだけ息を呑んだエースは、どこか困ったように優しく笑い、そして、もったいねェ、と言った。


******


「……静かだな、今日。親方とか、みんなは?」
「…ああ、じきに戻りやす。本所の方で寄合があるとかで、オヤジとマルコが出張っちまってて。でかい仕事も終わったところだったんで、ほかの奴らは昼で引き揚げて。」
「エースは店番か?」
「そんなところです。この通り、ちょいちょい仕事も残ってやしたんで。…住み込みの奴らは上におりやす。…サッチとか、呼びやしょうか」
「…いや、みんな休みなんだろ。悪いし、いいよ。」

番茶を出すなり腰を上げかけたエースをとどめたくて、少し急いたようにルフィは答えた。
手のひらにあたたかい茶碗を包み込む。雪駄は脱がないまま上り框に腰掛けて、ルフィは傍に膝をついたエースを見上げた。
先ほどまで彼の髪を覆っていた手ぬぐいは見当たらない。腰元の帯に差してあった。
目元にかかる前髪が、記憶より少し長い。

「……ちっと、伸びたか?」

つと手を伸ばして前髪に触れると、エースは少しだけ身体を強張らせた。だが、そのまま逃げる素振りを見せずルフィの好きにさせてくれるのを確かめると、ルフィは少しだけ指を絡めてその黒髪を梳いた。

「……若が、顔を見せてくれねェからでさ」
「はは、そっか。ひと月くらいは来てなかったかな」
「ひと月半です」
「わ、そんなになるか」

そうですよ、と笑うと、エースはふと何かに気づいたようにルフィの手首をやわらかく捉えた。
素肌の感触にふるりと震えたルフィの様子には気づかぬまま、エースはまじまじとルフィの手を眺めた。

「―――若。また染物を?」
「――げ、なんでわかった!?」
「わかりますよ。爪に藍が残ってます。職人の真似事なんて、って言われるからこっそりだって、ご自分でいつも言ってるのに」

外海屋では、安く仕入れた古着を住み込みの染め職人に染め直させ、店頭に出したりもしている。
色あせた小袖や羽織が美しく蘇るその過程が好きで、ルフィはこっそり職人に手ほどきを受けている。自分では中々この仕事が向いていると思うし、職人たちも若は目がいい、色が一番綺麗に出る時分を知っている、と言ってくれる。

だが、今はあの世の人になったとはいえ、仮にも外海屋の主人の子が、と一部にはいい顔をされないのも、また事実だった。

「うわー、気を付けて洗ったつもりだったんだけどなあ…!」
「若の『気を付ける』はアテにならねェ」
「む!なんだよ!」

はは、と声を立てて笑うと、お待ちを、と声をかけてエースは奥に引っ込んだ。
かと思うと、手についた糊を落とすための小さな桶に新しく湯を張り、小脇に抱えて戻って来る。そして再びルフィの傍に膝をついた。

「お手を」
「……?」

言われるがままに手を差し出すと、エースはルフィの手を赤子の湯あみをするかのように柔らかく湯に浸し、

「…、」

そのまま、やさしく静かに湯の中でルフィの手を洗い始めた。
湯の中で、エースの大きな骨ばった手が自分の頼りない手を包み撫でてゆくのを、ルフィはどうにも泣きたいような気持で見ていた。

職人の手だった。
かんなのマメ。小刀の切り傷。擦れて厚く硬くなった爪。骨を組み竹の節を削り、分厚くなった皮膚。
大きな手だった。強い手だった。美しく、気高い手だった。

指の間を、手のひらを、爪の間をやさしく過ぎ去ってゆくその手の感触を皮膚に刻み込みながら、ルフィは唇を噛みしめた。