(2/3)
ああ、ちがう世界のいきものだ、と思った。
(…――ルフィ、)
爆発する大歓声。沸騰寸前の人の熱。夜空に溢れんばかりの音の奔流、光の渦。
それらの全ての中心に、ルフィはいた。
(ルフィ、)
激しく瞬いては色を変えるスポットライト。
観客席の無数のペンライトが、ルフィの歌声に合わせて生き物のようにうねる。
この空間に存在するすべてを一身に浴びて、ルフィはひかりの渦を自由に奔放に泳ぎ続けた。
スクリーンに映し出されるルフィ。飛び散る汗の一粒一粒がスペクトルを生み、きらめく。
息を弾ませて、汗に髪を濡らして、それでもルフィは、笑っていた。
光の中で生きる為に生まれてきた。そういう存在なのだと世界に知らしめるように。
火傷しそうな会場の熱に揉まれながら、おれはその光の渦に逆らうことをやめた。
この日のために磨きに磨きをかけた振り付けも、いつのまにかただただルフィの生み出す圧倒的な波に翻弄され身を委ねるだけの動きに変わった。
ルフィに届くように示し合わせたコールも、ただただルフィの声に合わせ歌を追い、心臓に熱く熱く溜まる抑えきれない感情を発散させるためだけの歓声に変わった。
ステージの端から端へ。バンドメンバーの間から間へ。そこは、ルフィを中心に超然と確立した、完璧なまでの世界だった。
違う世界の生き物だ。おれの手の届かないところへ飛んでいく存在だ。そう思った。
感動と情熱と興奮の嵐の中で、そんな諦めにも似た、いっそ清々しい感嘆を覚えた。
そしてその一方で、おれは今までにないある感情を抱いていることにも気が付いた。
例えばここからルフィがどこか遠くの高いところへ飛び立って行ってしまったとして。
そうなったときにおれは、今ならきっと笑ってその背中を見送ってやれると思った。声を嗄らして、全身全霊をかけて、その背中を送ってやれると思った。
そして、どこにいたって何をしていたって、絶対的にルフィを励まし応援し、そして必要とあらば守り支えてやれると思った。
ああこれは愛だ、と思った。これが愛か、と思った。
ただただ好きだと、少しでも近くにありたいと望む、その次元を通り越した。
無益だろうが、役者不足だろうがなんだろうが、ルフィが望んでくれる限り、おれはどこまでも彼に尽くし愛し見守ろうと思った。だっておれにはルフィしかいない。唯一無二だ。どうしようもなく。それを痛いくらいに思い知った。
有り得なくても、自意識過剰でも妄想でもなんでも。
ああおれは、きっとこの子のために生まれてきたんだ、なんて、そんな馬鹿げたことすら思うのだ。
『……―――みんな、ありがとな』
音楽がやみ、余韻を味わう会場に、マイクに拡張されたルフィの声が響き渡る。言葉を続けようとして、だが荒い息にかき消されてそれが続かない。
肩を揺らし、ごめん、とマイクを外し苦笑して見せたルフィに、観客席から賞賛の拍手と歓声が沸き起こる。ルフィ、がんばれ、とすぐ横で女の子の声が悲鳴に近い声音で叫ぶ。その声に涙が滲んでいることを、この場にいる誰が咎めるだろう。
『…しし、ごめんな。ありがとう。だいじょぶだぞ!』
深呼吸をひとつ。流れ落ちる汗もそのままに、ルフィはまっすぐに立ち、観客を見つめた。
『…ほんとに、今日はありがとう。今日この会場のみんなとライブできて、おれほんとに楽しい。最高に最高だけど、次の曲で、終わりだ。』
社交辞令じゃない、本気で心底終焉を惜しむ声に、ルフィが嬉しそうに笑った。
一旦マイクを外し、それをひとしきり真正
面から浴びて受け止めて、そして波が引いたころ、ルフィはありがとう、と静かに言って続けた。
『……――最後まで、全力で歌うな。約束する。…そのかわりっつーのもなんだけど、おれ、ひとつワガママ言ってもいいかな?』
即座に、会場から拍手と歓声が沸き起こる。誰もが皆、ルフィの全てに賞賛の気持ちを抱いているのがわかった。オーディエンスの感情はひとつ。この最高の時間を与えてくれたルフィへの、感謝。
たったひとつの願い事で、ほんの少しでもその笑顔に報いることができるなら。
『……ありがとー!』
ぺこ、と弾むように頭を一つ下げて、顔を上げ、ルフィが笑った。
一瞬だけ、鼓動を抑えるように手のひらを心臓に当て、すう、と息を吸い、マイクを口元に持ち上げる。
そんなわけはないのに、気のせいだとわかっているはずなのに、なぜかルフィが、観客の中の細かな一粒にしか過ぎないはずの、おれをまっすぐとらえて笑った気がした。
『…―――あんな、おれのすっげー大事な人が、明日誕生日なんだ。1月1日。』
呼吸が、止まった。
『すんげー大事な人。大好きな人。だから次の曲は、その人のために、歌わせてもらえねぇかな』
ま、だめって言われてもおれやりてえようにやるけどよ、と言って、ルフィはからからと豪快に笑った。
ここにいる人間はそんなルフィを愛していた。沸き起こる大歓声と、ところどころにあたたかく漂う、苦笑交じりのしょうがねえな、という空気。冗談交じりのえー、という非難めいた声。大事な人ってだれだよ、という本気の悲鳴。
全て、ルフィを愛するものたちの声。
だが溢れんばかりのそれらも、おれの止まった時間を取り戻しはしなかった。
『……―――みんな、ありがとう。大好きだぞ!最後まで、聴いてくれな』
今日一番にキラキラの笑顔でルフィが言った。
間髪入れず、ルフィの高いジャンプに合わせて激しいビートとメロディアスな電子音が混ざり合って爆発する。歓声が地の底を突き上げる。最高級の興奮と感動が、冬の夜空に渦巻き満ちた。
それは、おれが一番好きだとルフィに言った曲だった。
もう言葉もなかった。
感動。感激。歓喜。そのどれらの言葉も、今のおれの感情を形容するには足りなかった。
歓声と音楽の融け合った空間の中で、おれは身動きもできずにその渦に身を委ね立ち尽くした。視線はただ、ステージでくるりくるりと動き回るルフィに。まるでルフィ自身が発光しているかのようだった。光そのものが、舞い踊り、飛び跳ね、歌っているかのようだった。
観客の熱に揉まれながら、それでもおれは、確かにルフィの視線を捉えた。
ルフィがおれをまっすぐに見つめる。ルフィが歌う。ルフィが笑う。
地の底から重低音が響く。それに合わせて心臓が震える。
生きている、と思った。その当たり前のことを、こんなにも幸せに思ったことはなかった。
「……―――5、4、3、2、1、0!…おめでと――――!!」
瞬間、照明が華やかに灯され、夜空に鮮やかな火花が散る。一瞬ののち、全身を震わせる爆発音。新しい年が始まった。おれの血に、脳に、またひとつ新しいレコードが刻まれる。あまりに鮮やかで、激しくて、優しくて、愛おしい記憶。
世界は、彩と光と音で溢れて、滲んだ。
******
「……ッはあ、…はっ、」
スタッフシャツやスーツを着た人々が忙しく行きかう通路を、全力で駆け抜ける。
途中で警備員に制止されそうになったところを、胸元の関係者パスを突き出して無言のまま押し通るようにして突き抜けた。少し前のおれには考えられなかった、図々しいくらい強気の行動。
息が尋常じゃなく切れているのは自覚していた。それでもどうでもよかった。一秒でも一瞬でも早く、ルフィのもとへ辿りつきたかった。
「…エースさん、こっち!」
「…――、ナミさん!」
目の端で意識を捕まえた鮮やかなオレンジ色。パンツスーツ姿の細身の姿に呼び止められ、通り過ぎそうになった角をたたらを踏んで曲がる。
その背後に見える、控室と大きく表示された紙が貼りつけられたドア。
血が沸騰しそうだった。
「中にいるわ。」
「すんません」
手短に会話を交わし、通り過ぎる。
ちょっとあんた、と背中から呼び止められたような気がしたが、いいのよ、と答える涼やかな声に全てを預けて通路を進んだ。
とにかく今は何も、おれを止める要素にはならなかった。
「……――エース…」
汗に濡れた艶やかな髪。とろんと弛んだ瞼。
ソファにぐったりと身体を預けて、ルフィが嬉しそうにふにゃりと笑った。
エース、とささやくようにルフィが呼ぶ。ゆるりと腕がおれに向かって伸ばされた。
その確かな引力に逆らわず、おれも手を伸ばした。
ソファから必死に起き上がろうとしていたその身体を掬い上げるように、腕の中に収めた。
くたりと力の抜けたやわらかい身体。汗に濡れた肌。熱い体温。未だ荒い息。
エース、と呼吸に紛れたような声でルフィが言う。
呼ぶわけでも、返事を求めるでもない。ただ、確かめるように。
「……――エース。おめでとう…。」
「…。」
「…おめでとう…。エースが、うまれてきてくれて、よかった…。」
「……、」
「……うまれてきてくれて、ありがと。おれ、の、こと、…、すきになってくれて、ありがとう。」
「……ッ」
「…――しし。なんか、いえよ…」
全ての力を出し切って脱力した身体。たどたどしい口調。立つこともままならないそのぐったりとした身体を、おれは配慮もできずに掻き抱いた。
「……てか、ごめ、エース…、おれ、汗だく、」
「…いい。いいよ。そんなの全然いい」
腕の中で身じろいだルフィをさらに内側に閉じ込めるように、おれは腕に力を込めた。
汗に濡れた髪に頬を押し付けて、細い肩を手のひらで掴んで、筋肉の硬さを感じる背中を引き寄せて。
汗のにおいと、整髪剤の香りと、微かな火薬のにおい。
いよいよぐったりと力を抜いて、ルフィはおれに全てを預けた。
全ての力を懸けて、こんなになるまで想ってくれてるルフィに、おれはどう応えていいかわからなかった。
「……ルフィ、ありがとう…。」
「…――ん」
「最高だった」
「ん」
「…最高に、最高だった。」
「…しし。うん。」
「ありがとう」
「ん」
「…ありがとう」
「…うん」
「ありがとう…!!」
うん、と噛み締めるように返事をして、ルフィがおれの首筋に頬を摺り寄せた。
力の入らないはずの手で、おれの背中を包み込むように抱きしめる。あたたかった。
「……エースー、泣くなよー」
「…泣いてねえ。まだ。」
「ししし。まだ…?」
「うん。まだ。」
そのままの会話の延長線上のように、ルフィが続けた。
「エース。あいしてるぞ」
は、と息を呑んだ。
「最後、な、歌いながら、思ったんだ。『あー、おれ、エースのことあいしてる』って」
「『愛してる』、って、こういうことかって」
「愛してる、エース。大好き、だぞ」
誕生日、おめでとう。
鼓膜を直接揺らすように耳元でささやかれたそのやさしい声を、おれは一生忘れないだろう。
⇒
|