※ハイパーキムラさん「農家のススメ」シリーズに敬意と愛と感謝を込めて!
ルフィの朝は早い。
まだ薄暗いうちに起きだして、白い息を吐き吐き霜を踏み、野菜を採りその朝露を払う。
ピークを過ぎる前に作物を収穫し、出荷の準備を整え雑草を刈り、要らぬ葉を摘み土を足し畑を整備し。日の出ているうちにやらねばならないことはたくさんある。
おれはひとつ壁を隔てた部屋で、ルフィの起きだす気配を夢うつつに追う。
ルフィの朝は、早い。
「…ん―――…」
「スペード。朝だぞ」
「んん―――…」
おれの朝はそれよりは少し遅い。これでも世間一般の三十路男に比べれば十分早いが、身支度を整え、3人分の朝食を用意し、それから寝ぼけ眼の息子を抱きながらその身支度を整えて。これだけのプランをこなせば、朝の時間なんぞ容易に過ぎる。
そんな貴重な、朝の時間のはずなのに。
ルフィ、飯だぞ。
畑にいる弟に向かってかけようとしたそんないつものセリフは、喉の奥で堰き止められた。
季節が変わり日の出の時間はめっぽう遅くなった。
ついでにこの古い家は東側にそびえる山のせいで余計に日の出が遅い。
待ちかねたようにのぞいた太陽。谷を裂く白い朝日。いつものニット帽。マフラー代わりに首に巻いた農協のタオル。いつもの赤いダウンジャケット。土のついた軍手で抱えたカゴに、朝露に濡れたままごろごろと放り込まれた大根。凍る息。峰の向こうの山頂が、白く染まっている。
出勤前。貴重な、朝の時間のはずなのに。
(……――――あーあ、なんだってまあ、)
朝日を浴びる弟の横顔は、こんなにもきれいなのか。
「……――父ちゃん。みそしるごぼごぼしてる」
「―――!!やべえっ」
寒さも忘れ完全に見惚れていたおれを不思議そうに見上げる、足元の息子。その声に引き戻されて、おれは縁側に出てきたそもそもの理由を思い出した。
ルフィメシできたぞ!!
息子を抱え上げてそう声を張り上げれば、意識をこちらに引き戻してルフィが顔を向けた。
おー、と片手を挙げて笑ったその顔にまた何かを持って行かれそうになるのを、煮立ってしまった味噌汁の香りで打ち消す。
座布団の上でうずくまる飼い猫が、不満そうに鼻から息を吹いた。
******
「スペード寝た?」
「おう。3分持たねェで寝ちまった。あーいうとこはお前そっくりだな」
「ちげーだろエースだろ」
「馬鹿言うな。おれは30秒持たねえよ」
「ししっ」
そーだ昔っからおれがまだしゃべってんのにエースすぐ寝るからなあ。
そう言ってルフィはけらけらと声をあげて笑った。
そんなルフィにつられて笑いながら、おれはルフィの隣に潜り込む。
めっきり冷えてきたここ数日。こたつを出して、夜のお供はビールから湯呑のお茶に変わった。はなこはこたつから出てこない。種族を超えた仁義なき戦いは、寒さのためか若干の落ち着きを見せているが、こたつの中も油断はならない。靴下は必須。それも引っ掻かれて穴が開いても惜しくないやつ。
だがしかし最近はおれもヤツとの距離感を覚えてきた。コイツはルフィの前ではほとんどキバを剥かない。剥いたとしても控えめに、ルフィに怒られない程度に。全く、とんだ猫被りだ。猫だけど。
「お、さんきゅ」
「ん」
急須から、少し危なっかしい手つきでルフィがお茶を入れて差し出してくれる。玄米茶の香ばしい香りがほわりと暖かい空気にわだかまる。会話は必要最低限。それで伝わるからだ。今日もお疲れさん。お前もな。そういうこと。
「寒かったな今日」
「な。裏山雪被ってたぞ。見た?」
「見た見た。こりゃすぐに積もるな」
「なー。はやく収穫終わらせねーと」
「あとどんくらい?」
「大根あと2列分と、白菜の縛りがちょっとだけと、あとはシート。あ、雪降る前に庭の木の枝もやんねーと」
「あーそうだなー。週末はおれも手伝うから、無理すんなよ」
「…ん。ありがと」
ふにゃ、とふやけるみたいにしてルフィが笑った。
30過ぎてる弟に抱くにしてはずいぶん甘い感情が、心臓のあたりにじわじわ滲む。
自分がこの家に帰ってくる前。弟はこれらをひとりでこなしていた。この大きな家にひとりで暮らし、あの大きな畑をおれより一回り小さい、あのきれいな手で守り慈しみ育ててきた。
数年前には、高いところの枝を無理して補強しようとして脚立から落ちたこともあったと聞いた。
寒さにさらされた手はひび割れ、血を流した。
ひとりじゃ絶対に、自分のことになんか気のまわらない弟。棚に置いてあるハンドクリームは、おれが買ってやったものだった。
「……。」
「…、エース?」
こたつから脚を抜いた途端、暖かいはずの部屋の空気でも少しだけひんやりと感じる。
急に立ち上がったおれを不思議そうに見上げるルフィには答えずに、その背中に回った。
脚で弟の身体を挟むようにこたつに潜り込み、厚手の半纏に包まれた身体に腕を回す。腕の内側で、一瞬だけ強張った身体が、体温に弛んだように力を抜いた。
ごくごく最近許された、「抱きしめる」という行為。その距離感に慣れるのは、お互いもう少し先らしい。
「……どーしたんだエース。」
「理由がなきゃだめですか」
「…しし、だめじゃねェ」
あったけぇ、と小さく小さく呟いたルフィは、おれの腕の下に拘束されていた腕を引っこ抜き、その手でおれの手のひらを自分の腹に当てるように配置し直した。
しっかり鍛えられているにもかかわらず、相も変わらずすんなりと細い腹。そこにされるがまま腕を巻きつけ力を込めると、とす、とルフィが後ろに体重を預け、おれの胸に寄りかかる。
口許に当たる黒髪から、息子の髪と同じ匂いがする。ただルフィのそれが少しだけ甘い様に感じるのは、きっと息子に抱くそれとは若干色や形が違う、「愛しい」という気持ちのせいだと思う。
そう、愛しい。
弟に抱くこの感情がそういう名前だと、おれが気づいたのはごくごく最近のことだった。
頭の中で繰り返してみれば、こんなにも自然な響きなのに。
「……ん」
「……、…キスはちょっと慣れたな…?」
「うるっせ、」
照れて熱を上げた語尾を攫うように、もう一度キス。
少しだけ強引に押し付けて舌先で狭間を撫でれば、言葉の割にはごくごく素直に薄くくちびるが開かれた。角度を少しだけ深く傾ける。するりと舌を差し込む。ぴく、と身体ごと強張らせて逃げようとする小さな舌をつかまえて、頬に片手を添えてさらに隙間を押し潰す。
こわがるな。ためらうな。その思いを込めて、腹に残した手のひらであたたかい肌を抱き寄せる。
ちゅる、と微かに舌が鳴ったのをきっかけに、ルフィの肩から力が抜けた。
三十路男の臆病風。痛いくらいにわかるその躊躇いを、だがよほど芯の強い弟がそれを自ら脱ぎ捨てたのを確かめて、おれは抱き寄せる腕に力をこめた。
キス。そうだ、これはキスというものだ。おれはルフィとキスしてる。
今更みたいにその実感がじわじわこみ上げてきて、どうにもならない衝動が腹の底から湧き上がる。
忘れていた。いやもしかしたら人生初めてなのかもしれない。
熱い熱い焼けるほどの「愛しい」を、おれは小さな唇に押し込んだ。
「……は、…っ、えーす、…っん」
「……。」
「…んぅ、えー、す!…ひげいてえ、って、ん、……もー!」
「しょーがねーだろ我慢しろ。愛の鞭だ」
「しし、ばっかみて、…っ」
じゃれるような抵抗も力ずくで抑え込んで、もう一度。粘膜を絡ませて、上あごを舐め上げて、たまに甘噛みして。くぐもった甘い鼻声が、音というよりはお互いに触れあった肌から振動として伝わる。おれの腕の中で無理やり上半身を捻って、ルフィがおれの首にその細い両腕を絡ませた。
その仕草で、簡単におれの中のただ一匹の男としての感情が煽られる。
(……ッかわい…、何だコイツ!)
おいおい何だよお前ほんとにおれが好きなのかよ、なんて、本人に聞かせたら絶対にまたぶん殴られることまで考えている。
要するに嬉しいのだ。可愛い。無防備に全身を預けて、一生懸命キスに応えてくれる腕の中のコイツを抱いてしまいたい。実はずっとタイミングを探っている。
でもつい、ほんとについこないだまで「兄弟」でしかなかったおれにこいつがどこまで許してくれるのか。キスもハグも嬉しそうに受け入れてくれるけど、それ以上のことをこの無添加オーガニック天然記念物がどこまで理解しているのか。ていうかスペードそこに寝てるし。いやいやでもいくらカワイイっつってもコイツも30過ぎな訳だしなんか今日すげえ甘えてくれてるし気持ちよさそうだしもしかしたら。
悶々と熱を帯びていく思考に任せて、手のひらを少し背中の窪みから腰の方へ下げた、その時。
ふと唇を離したルフィが、少しだけ硬い視線を巡らせた。
「…―――、」
「……え、ルフ」
ちっちゃい「ィ」まで発音する前に、結構な勢いで顔を押しのけられて上半身ごと倒れこむ。
そのおれには目もくれず、華麗な身のこなしで愛しの弟様はおれの腕の中からするりといとも簡単に抜け出した。さっきまでの甘い空気は何処へ行った。無情だ。ていうか何で、
「スペード、どした」
「〜〜〜〜っ」
「!」
ルフィが飛び込んだふすまの隙間からのぞく、暗い寝間。やさしいやわらかいルフィの問いかける声に応えたのは、息子の微かな、ほんの微かな引きつるような声だった。
崩れた上体を慌てて起き上がらせると、腕にスペードを抱いたルフィがふすまの向こうから姿を現した。
あたたかな毛布のかたまり。そこから突き出した細い頼りない腕が、ルフィの首に力いっぱいしがみつく。ルフィがその手のひらで何度も何度もさする小さな背中は、微かに震えていた。
「こわい夢見たのか。だいじょぶだぞ。ほら、父ちゃんもいるぞ。」
「……ぅ〜〜〜〜…!」
安心したのか、ますますしゃくりあげるスペードをあやし、ルフィはゆるやかなリズムでその体を揺らした。だいじょうぶ。だいじょうぶだぞ。まるで体温そのものが滲んだようなやさしい声で、慈愛そのもののようなやわらかい笑顔で、ただひたすらに繰り返す。
なぜ気付いたのか驚いた。それもあった。だがその実、おれはその笑顔に見惚れていたのかもしれない。
ふと目の合った瞬間、少しだけ眉尻を下げて笑ったその顔に、おれは心臓を握りつぶされるような痛みを覚えた。
「……もう大丈夫だから。な?泣くなースペードー。ほれ、お月さんに笑われんぞ」
そういってゆらゆらと抱えた小さな体を揺らしながら、ルフィは障子を開け、縁側へ出て行った。
すう、と途端に流れ込んできた冷たい外気に、おれは立ち上がってその背中を追った。傍らに放り出したままの、昼寝用の小振りの毛布を掴んで。
「ほら、スペード。お月さんがみてんぞ。星もいっぱいお前のことみてんぞ。」
きれいだなあ。だいじょうぶだぞスペード。こわいことなんかなんにもねーぞ。
歌うように、子守唄のように、月明かりを浴びてルフィが言う。
寒さに無防備にさらされたその肩を、立ち上がりざま掴み上げた毛布を広げて包み込む。
気付いて見上げたルフィが、ふわ、と笑った。
ありがと、と口の動きだけで言ったそれにおれも笑って応えて、毛布がずり落ちないようにルフィの肩を抱いた。空いた片手で、ルフィの肩に顔を埋めたままの息子の髪を撫でる。
気付けなくてごめんな、スペード。父ちゃんもまだまだだ。
「父ちゃん来たぞスペード。もう大丈夫だ。怖い奴らとは父ちゃんが戦うからな。」
「オイお前は」
「おれたちはその間に逃げるんだ。なースペード」
「なんて事を」
笑いながら言う。こんなこと言ったって、こいつも息子も絶対一緒に戦ってくれるのだ。おれは知ってる。
にあ、と小さく足元から聞こえた声に、ルフィが下を覗き込む。
その視線を追うように目線を下げれば、殊勝な顔つきの飼い猫がルフィの足元にまとわりつき、その顔を見上げているところだった。
それを見てまたルフィが笑う。はなこも来たぞスペード。これでもう大丈夫だ。はなこつえーからな。
ゆっくりと静かに、一定のリズムで子供の背中をやさしくたたく手のひら。溺れるようにその首筋にしがみついていた小さな手は、ぬくもりを求めて抱きつくそれに変わりつつあった。
悲痛な泣き声は、クセがついてしまっただけの小さなしゃくりあげる声に。
震える細い黒髪は、ルフィの声に小さく何度も何度も応える頷きに。
細い肩に埋めてしまっていた小さな顔が、息苦しくなったのかくるりとこちらを向いた。
ぱち、と合った目線に、息子が照れくさそうに笑う。鼻水を垂らした小さな鼻。赤くなってしまった涙の滲む眼尻。小さなころの弟にそっくりな顔で、息子は笑った。
その赤くなってしまった目元を指先で撫でて、おれも笑ってささやいた。
寝ろ、スペード。父ちゃんもルフィも、ここにいるからな。
小さく素直に頷いた息子は、安心しきった顔で瞼をとろりと閉じ、ルフィの腕の中で身じろいだ。
とん、とん、とやさしく弾むルフィの手のひらはそのまま。すう、と少し大きく呼吸をした息子がくたりと身体の力を抜いたのを確認して、ルフィが顔を上げた。月明かりに照らされてやさしく滲むその笑顔におれも微笑って応えて、その肩を抱き寄せた。
夜の空気がしんと凍みる。澄んだ空気は星までの距離を縮ませる。白い息がほわりと空にわだかまる。明日は雪が降るかも知れない。夕食はあたたかい鍋にしよう。息子が幸せな気持ちのまま眠れるように、肉は少し多めにして。
こと、と肩にルフィの頭が寄り掛かる。幸せの重みを肩に感じて、おれは空を見上げた。
ルフィの足元でうずくまるはなこが、また不満そうに鼻から息を吹いた。
その鼻息も白く凍るから、おれはルフィの肩を促して縁側に背を向けた。腕の中のスペードを起こさないようにゆっくり歩きながら、足元にまとわりつくはなこに笑いかけるルフィ。自分の守るべきものたちの背中を見つめながら、おれは後ろ手に障子を閉める。
たん、と閉じた暖色の障子戸を、月明かりが照らしていた。
そんな愛しい、とある一日の話。
縁側トロイメライ
お言葉に甘えて書いてしまいました…。
ファンの方に刺されることを覚悟で書きました。いや私もファンだけど。
キムラさん、快い承諾をありがとうございました!
大好きな大好きな大好きな「農家」の世界に片足突っ込めて、とても幸せです。
20121209 Joe H.
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