『だからさ、おれつかまっちゃったみてぇ』

こたつに向かい合って入っていたサボとエースは、それぞれ自分の携帯の液晶に落としていた視線を上げて、一瞬お互いを見合わせた。なぜ「一瞬」かというと、弟の発言がいきなりかつ要領を得ず更に脈絡がないのはいつものことだったので、ふたりとも次の瞬間にはそのまま無視してそれぞれの興味関心を続行させたからだ。

『聞けよ』
『うんうん聞いてるよルフィ』
『腹減ったなら早く帰ってこい。今日から揚げだぞ』
『よっしゃーからあげ!ってちげぇよ!聞けよ!食うけど!!』

さて、ここまでの会話は全て携帯電話のグループメール機能での会話である。
3兄弟の発言がそれぞれ時系列ごとに表示され、まるで会話そのものが手に取るようにわかるその機能を、ルフィはことさらに気に入っていた。
電話じゃ3人一緒にって難しいだろ。一緒にいるのが一番だけど、これなら一緒にいるみたいじゃん。

『で?誰につかまったって?またお前スモーカーの授業で寝たのかよ』
『それかヒナちゃんだろ。お前今日現文のプリント家に置いてったもんな』
『ちげえって。いやそうなんだけどちげーの!捕まっちったのおれ!しらねー奴らに!』

やっぱりな、と片割れと交わすつもりで浮かべたふたりの苦笑は、その瞬間凍りついた。

『…ルフィ。お前今どこにいる』
『んーと、端町の廃ビル?どこだ?弟は預かったって言え、だって』

ここまで読んだところで、エースは画面から目を離せないまま口を開いた。
おそらく片割れも同じ心境だろう。お互いがいなかったら玄関を飛び出しているところを、なんとかもう一人の気配で留めている。
客観視。ふたりにとって、それは片割れを通して己を見ることを意味していた。
意識してそうでもしなければ、この状況に冷静さを持ち合わせることなどできそうになかった。

「……サボ。」
「県道沿いの元ゲーセンだ。」
「行くぞ」

取るものもとりあえず、車のキーと携帯だけを引っ掴んで飛び出した。
ハンドルを握るエースの横で、サボが手短にメールを打った。
「待ってろ」、と。

******

「…――なーお前らヤバいって。ほどけよー。絶対おれにやられといたほうがマシだから」
「何言ってんだこのガキ」
「状況わかってねえみてえだな」

あえて携帯を指先で打てる程度に。
あとは身動きもままならないまま、ルフィはがっしりと頑丈な柱にくくりつけられていた。底冷えするコンクリートの床が尻を冷やし、かれこれ数十分は座り込んだままの腰にじわじわと疲労感を溜めた。

「なあ、おれお前らの心配してんだって。ほんとにヤバいって。下手したら殺されるかも」
「ナメんじゃねークソガキ!」

ダン、と激しく音を立てて、相手方の一人がルフィの顔のすぐ横に蹴りを入れた。

「てめェの兄貴共がタダモンじゃねェことはわかってんだよ!見ろこの傷!」
「…。」
「20人がかりでボコってもまだ足りねェくらいだ。楽しみにしてろよ。あのスカしたツラメチャクチャにしてやる」

至近距離でぶつけられるその悪意にもルフィは眉ひとつ動かさず、それどころか、やれやれとため息すらついて見せた。
その不遜ともとれる態度に、相手方のボルテージが1つ上がる。

「……てめぇ…痛い目見ねえとわから」
「やめとけ」

カツン、と響いた靴音に、20人の呼吸がざわめいた。

「…タダでさえ大事な弟拉致られて頭に来てるんだ。せっかくのから揚げも冷めちゃったし」
「これ以上そいつに指一本でも触れてみろ。」

廃ビルの外を車が通る。ハイビームのヘッドライトがシルエットを映し出す、二人分の影。通り過ぎてゆくライトの中で、一瞬その瞳が鋭く光を反射したのを、確かに見た。

「……生まれてきたこと後悔させてやる。」

あーあ、とルフィが天を仰ぐ。
そのあどけない表情に隠しきれない喜びが滲んでいるのに気付くのは、兄達だけでよかった。

******

「……10分かかったぞ。鈍ったなエース」
「ざけんじゃねェぞサボてめェ!!啖呵切った後お前拳の一つでも使ったかよ!さっさとルフィ助けに行っておいしいとこ持っていきやがって!」
「啖呵切ったのはエースだし。ルフィ大丈夫?」
「おー、ありがとー!サボ王子サマみてーだったぞ」
「まじ?やった」
「……。」

ルフィの手を取ってゆっくり立ち上がらせると、サボはその肩や二の腕をやわらかく掴むようにして弟の安否を確かめた。
やってらんねェ、と吐き捨てたエースは、視線を断ち切って背中を向け、累々と転がった意識のない身体を足先で払うようにして出口に向かって進む。まだ心配そうにルフィを捕まえるサボをやんわりと押し返し、ルフィはその大きな背中に向かって口を開いた。

言わなければならないことがあった。来てくれてありがとう。助けてくれてありがとう。エース、かっこよかった。
だがその言葉が声になることはなかった。
目の端でそれを捉えたルフィは、悲鳴に近い声を挙げた。

「―――エース!!」

鮮血が舞った。


「…―――ッ!!サボ!!ルフィを!!」
「!!」

何が起こったか脳が判断する前に、サボの脊髄は全ての筋に命令を下した。大事な弟の身体を抱え、床に伏せる。二人の影があった場所を、冷たい光の筋が掠った。金属のぬめるような輝き。
刃物だ。

「ふ…ッざけやがって!!」

切られた左腕もそのままに、エースは硬い踵の靴底を当てるようにその脚を振るった。ナイフの柄を握る手に蹴りが直撃し、握力が緩んだそのスキを逃さず手首から掴み、そのまま背負い投げる。
鈍い音と低い呻き声。呪詛にも似たそれを叩き潰すように、拳に全体重をかけて相手の肋骨に落とす。
間髪入れず、意識を失った相手の右手のそれを蹴り飛ばした。

「ルフィ!サボ!」

エースは振り返った先で、サボの肘が相手の顎に入ったのを見た。その右手にも、やはり小振りの光るものがある。
それだけではない。最初の攻撃は第一波でしかなかったことを彼らは知った。

あまりに見通しの悪い暗い廃ビル。置き去りにされた廃材。その陰からじわりじわりと滲み寄る影。

サボがルフィの傍から離れていないのをすかさず目の端で確かめる。何人来たって同じだ。ルフィには指一本触れさせない。
ただ少し、切られた腕に滴る血がぬめる、それが邪魔だな、とエースは思った。ただそれだけ。

ぽたり、とコンクリートの床に血が落ちる。
―――その瞬間、ざわりと空気が波だった。

「…――ッ!!」

ぞわ、と全身の細胞が警告を発した。血が騒ぐ。
殺気。そう、これは殺気だ。エースの中の、動物としての本能が叫ぶ。危険だと。その中心には、

(…――ル、)

弟の、見たこともないような壮絶な眼差しがあった。



******



「……ルフィ、なあ、ルフィ頼むから」
「ルフィ…。お願いだから顔見せて…?」
「……。」

天岩戸は閉じられた。
兄二人を道連れに。

あのひと騒動から数時間。幸いエースの傷も浅く、縫うほどには至らなかった。サボもルフィをかばって倒れこんだ肩に打撲を負った程度で、むしろ相手方の生死の方が気になる。こんなことで弟の将来を潰されてはたまらない。

自分たちが直接手を下す分には、充分手加減をした。
心配なのは、弟が自ら手を下した一部だった。地獄絵図とはあのことを言うのだと、兄達はしみじみと思う。
かわいそうに、おれ達にやられておけばよかったものを。

「……ルフィ…。」
「…ルーフィ。ね、エースもおれも、もう大丈夫だから」
「……。」

応答なし。

家に戻り、兄二人の手当てを終えた後。胡坐をかいたエースの首に真正面からしがみついたルフィは、その腕でそのままエースの背後にいたサボの首までもを抱きこんだ。
物理的に逆らえない引力に引っ張られるまま、サボはエースの背中に貼りつくようにして腕を回した。仕方がないので、そのまま向こうの弟の背中をさする。エースの肩に顔を埋めた、そのルフィの肩にサボは顎を乗せた。
ぎゅう、と細い腕に籠った力は、弱まることはない。

幼さの抜けないあどけない顔。愛してやまない弟の笑顔が、見られない。

「……ルフィ、ごめん。油断した。怖い思いさせたな…。」
「ごめんなルフィ。もう絶対やられないから、兄ちゃん達。だから、」
「…―――ッ、ほん、とに、わかってんのかよ…!」

髪を撫で、背中をさすり、あやして甘やかして誤魔化そうとしていた兄二人の手が、止まる。
弟の声は、震えていた。

「……わかってんのかよ…!お前らに、何かあったら、おれ、おれ、またひとりになるんだぞ…!!」
「…、」

ぎゅう、と一際腕の力が強くなる。三人の身体が、体温がひとつに固まった。

「守ろうとすんな!助けになんかくんな!!おれのことなんかほっとけばいいだろ!!」
「馬鹿なこと言うな。無理だそんなの」
「無理でもなんでも!!」

もういやだ、とルフィの声が消えそうに揺らいだ。

「もういやだ。エースが、サボが、傷つくの見るのは、もう嫌だ…!!」

でも、だけど、それでも。

「―――嬉しいって、思ってる自分が一番嫌だ…!!」

エースとサボの心臓が、ぎりりと縮み上がって痛む。どこか甘いその痛みは、喜びであり、愛しさであり、一抹の懺悔だ。
エースは抱え込んだルフィの身体をさらに腕の内側に囲い込んだ。
サボは、そのエースごと3人の境界を押し潰すように腕に力を込める。

ふたりが肩を埋めた弟の肩は、太陽と、そして海の香りがした。

「……弱くてごめん…!迷惑ばっかり、心配ばっかりかけてごめん…!!」
「違う、ルフィ。今日のことだって元々はおれ達の、」
「どうだっていいそんなの!!」

ルフィの指が、ふたりの肌に食い込んだ。

「……いなくならないでくれたら、それでいい。」

それだけでいい。
助けに来てくれてありがとう、兄ちゃん。
大好き。大好き。大好きだぞ。

「…頼むから、ずっと、傍にいてくれ、な。」

兄二人は、肌で弟を感じる為に、少しずつみじろいで頬をその黒髪に寄せた。
少しも弛まないあたたかい拘束の中で、その髪や頬や小さな耳に唇を落とし、背を撫でた。

誰よりも強い弟が、もっと強くなるから、と決意を新たにするのも、ああどうかよしてくれと心底祈った。
世界でたった二人。エースとサボだけに与えられたこの極上の椅子を、この弟のために立ちはだかる権利と大義名分を、どうか奪わないでくれと、そう願った。



そしてまた、兄達の腕の中でルフィも願った。
「また」。「もう嫌だ」。
ルフィがそう言ったその意味を、兄達がどうか生涯知ることのないようにと。

「この」生涯で、二度と知ることのないようにと。

あたたかい、あまりにあたたかい二人分の体温の中で、ルフィは目を閉じた。
弟の涙の意味を、兄は知らない。








20121124 Joe H.

間に合ってなくてすみません