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あまりに聞きなれたメロディが、繁華街の巨大スクリーンから流れて落ちる。
「あー、ルフィだ!かわいい〜」
「…あれ!?ライブDVDの予約いつからだっけ!?」
「え、昨日だよ!やばいよもう初回限定盤品薄だって」
「まじかよ!!」
そんな道行くカップルの会話をぼーっと聞き流しながら、おれは大画面に映る天使の笑顔を眺めて立っていた。ちなみに件のDVDは予約開始数時間前からパソコンの前でスタンバってたおかげで無事予約済み。ご心配なく。
なんだかこうして見てると違う世界の生き物の様だ。
全身に光を浴びて、眩しいほどの笑顔で、心臓を貫くようにのびやかな歌声で、軽やかにしなやかにまるで羽でも生えてるみたいにステージの上を縦横無尽に走り回って踊って。
思いっきり振り向いた瞬間に飛び散る汗とか、ふとした瞬間に見せる驚くほど真剣な眼差しとか、そういうものひとつひとつがもうとてつもなく遠く、不可触で、神聖なほどに、きれいだ。
そう、不可触でいっそ神聖。そのはずだったのに。
「…―――もー、猫背!!」
「!!」
背中に走る衝撃に飛び上がって振り返った先。
すらりと細身の身体によく似合う垢抜けた服装。サラサラの黒髪。
今日は黒縁のレトロな眼鏡の奥にある艶やかな瞳は、それでも隠しきれないほどに印象的だ。
抱きついているんだか体当たりなんだか、よくわからない勢いでおれの背中に飛び込んできたのは、さっきまであの大型スクリーンの中で歌っていたはずの、おれの天使様。
「…―――!!ル、…!!」
思わずおのれの口をおのれで塞ぐ。
こんな繁華街のど真ん中でこの子の名前を絶叫でもしようものなら!
変装しているつもりなのだろう眼鏡ですら、妙に似合って余計に目を引くような気がする。
おれだけだろうか。いやそんなわけない。ちょっと古風に見えるアンバランスな眼鏡の下で、してやったりとばかりに無邪気に笑うこの子に目を奪われない奴がいたら、おれは眼科どころか目ん玉取り出して丸洗いすることをおすすめする。あれ何の話だっけ。
「眼科の話じゃなくて!!ちょ、ルフィなんでここに!車降りる前に電話するって約束、」
「ガンカ?エースまた視力落ちたのか?ダメだぞまたパソコンばっかり見てたんだろ!」
「いやパソコン見てたっていうかルフィを、…いやいやいやそうじゃなくてですね」
「あーあのな、もちろん約束は覚えてたしナミにもそう言われてたんだけど、車からエース立ってんの見えてさ!んで、マチワワセ?なんかおれその方が好きだから!きちった!しし!」
瞬間、おれの左胸に封印された魔物、…もとい、心臓が飛び跳ねて騒ぐ。
「え、どーしたエース!?目じゃなくて心臓わりいのか!?」
「…いや、ちょっと、うん、大丈夫です、慣れてるから」
「?」
こと、と首を傾げたその姿にまた左胸がカーニバルなところへ、氷水を浴びせるような声が背後から聞こえた。
「…―――アレ、…ねえあの子ルフィに似てない?」
「えー?どの子?」
「ホラあの眼鏡の」
瞬間ルフィの細い手首を引っ掴んで、競歩レベルの速さでその場を去る。
お忍びだというのに、やたら街中だとか人通りの多い有名なファストフード店だとか、そういうところに行ってみたがるルフィのおかげで、こういった逃げ足に関してのおれのスキルは磨かれていく一方だ。
使命感に燃えて前を見据えてガンガン進んでいたおれは、だからそれに気が付かなかった。
後ろを引きずられるようにして歩くルフィが、少しだけ寂しそうに瞼を伏せたことに。
******
「…どーしたのよーう麦ちゃん。元気ないわねい」
「……んー…。そう見える…?」
「もうオーラからしてブルーよう。お仕事忙しいみたいだし、心配よう」
「…しし。ボンちゃんやさしいな。あんがとな」
おれはレジカウンターに頬杖をついたまま、顔だけボンちゃんに向けて礼を言った。
まだ不満そうなボンちゃんのため息には気づいてたけど、気づかないふりでまた中から途切れ途切れに悲鳴のような怒声が聞こえてくる試着室の方を見る。
ほっといたらまともな私服なんか買わないエースを見かねて、ボンちゃんはデートの合間にエースを連れてくるようにって言った。エースは心底嫌そうだったけど、店のおっさん(こういうと『オネェさまとお呼び!』っておっさんたちは怒る)たちはエースに好き勝手するのを楽しみにしてるみたいだったし、途中経過はともかく結果的にはドンピシャに似合うものを見繕ってくれるっていうことがエースにもわかったようで、それからは渋々ながら黙って一緒に来てくれる。
こうしてエースの私服は少しずつ増えて、髪もちゃんと切るようになって、エースは少しずつ変わっていった。
時々すれちがう女の子たちが目の端でエースを追いかけること。
大学やバイト先の友達から、飲み会や「ゴーコン」とやらのお呼びがかかることが増えたこと。
だけど、それでも変わらないふとした瞬間の猫背。
「仕事」してるときのおれの待ち受け画像。
となりを歩いていても、ちゅうぶらりんの手。
ボンちゃんは優しい。スタジオとロケ地以外の仕事場を知らないおれが、カウンターに座って役にも立たない店番ごっこをするのを許してくれる。
話してみろなんて言わないで、おれのこころとことばの準備ができるまで待っていてくれる。
「……手も、繋いだことないんだ。おれたち」
「………えーと…、あの企画の時からだから」
「6か月。半年」
「…あらまァ…。まあ、予想してたっちゃしてたけど」
ここまでとは、と口には出さなくても続いた言葉はわかる。それ以上何も言えなくなっちまったボンちゃんには申し訳ないとは思いながら、おれはもうひとつため息をついた。
エースからしてくれたキスは、はじめての時のあの一度だけ。
せがめばキスもしてくれる。自分から抱きつけば控えめに抱きしめ返してくれる。
ただし、おれがねだった時だけ。しかもエースの部屋でだけ。
たとえ誰もいない夜道であっても、映画館の一番後ろの席でも、エースは絶対に触ってくれない。さっきみたいに、逃げるようにおれの手首を掴んだり、肩を抱いたりはするけれど、手を繋いで歩いたことなんか一度もない。おれの手は、エースの大きな手のひらの感触を忘れてしまった。
決定打は、初めてエースの部屋に泊まった時。
全然触ってくれないエースに焦れて、自分からキスをしかけたおれを、エースは疲れてるだろ、とやんわり離してしまった。
確かに長いロケの後だったから、ひどく眠かったのもあってその日はエースの隣で眠ってしまった。それでもエースのにおいがするベッドでエースの体温を感じて眠るだけで、すごくすごく幸せだった。壁に自分のポスターが貼ってあるのだってゴアイキョウだった。
だけど、朝起きたらエースはひとり床のカーペットで寝ていた。おれはしばらく、ぼーっとからっぽのベッドとその背中を見ていた。そのときに、何かがほろりと崩れる音を聞いた気がした。
最初は、おれのことを守るためにそうしてくれてるんだと思ってた。
マネージャーのナミや、事務所や番組のスタッフが散々気を付けてくれていることは知っていたし、その人たちに迷惑かけるようなことがあっちゃいけないっていうのは薄々わかっている。おれもこの業界は長い。
ナミにはあのデートの後アッサリ何があったのか洗いざらい吐かされてしまったので、もしかしたらおれの知らないところでクギを刺されるようなことがあったのかもしれない。エースはおれを守ってくれてる。おれのためにこの30センチの距離をあけてくれている。そう思っていた。
いや、そう思い込もうとがんばってた。でも、
「……もう、むりかも」
「…え?」
気づいてしまった。
「好きだ、って言ってくれたのは、信じてんだ。エース、嘘つかねえし、すげえ大事にしてもらってるってのも、わかる。…だけど、」
それは、今の「おれ」に対しても同じなのだろうか。
「あの時は、ほんの一日だけだったし。おれ、おれは、そのあともエースのこと大好きだけど、でも、エースは『仕事』してるときのおれと、なんでもないフツーのおれと、どっちも見てるから」
「…だから、気付いちったんじゃねえかな。おれ、おれが、ほんとはあんなきらきらの奴じゃねぇって。ただの、やわらかくもきれいでもなんともねえ、ただの男なんだって。」
「……気、遣って、おれを傷つけないようにって、付き合ってくれてるんじゃ、ねえのかな」
そのままずるずると顔を伏せてしまったおれを、ボンちゃんが心配そうに呼ぶ。
カウンターに突っ伏したまま丸めた背中を、優しくボンちゃんのおっきな手が何度もさする。
泣きはしない。こんなんでも、おれだってプロだ。
ここしばらくずっと考えていたことだった。今日のことを考えたら不覚にも瞼が腫れてしまったが、それだって眼鏡で隠せる。ほら、笑顔は得意だ。
「…大丈夫だ、ボンちゃん。駄目ならだめで、それはしょうがねえ」
「麦ちゃん」
「今日、言う。もしかしたら、エース連れてくんの最後になるかもしれねえけど、そしたら、ごめん。」
何かいいかけたボンちゃんを遮って、店の奥のカーテンが開いた。
芝居がかったオッサンたちの効果音と共に現れたエースは、やっぱり悔しいくらいかっこよくて、困ったように頭を掻いた彼に、おれは薄っぺらの笑顔で笑いかけた。
いつものことなのに、最後かも知れないと思うと、今日はそれが、死ぬほど痛かった。
******
ルフィの様子がおかしい。
いつもならいろんなものに興味津々で、目をキラキラさせて楽しそうにくるくる動き回るのに、今日は早々に、帰ろう、とおれのシャツの裾を引っ張った。
具合でも悪いのだろうか。
ライブDVDの発売、雑誌の特集。来週には新しいCMの撮影が始まると言っていた。最近またとみに忙しいのはわかっていたのに。
「…ルフィ、ナミさんに電話するか」
「んーん、平気。エースの部屋がいい。さみーからはやくいこ」
そう言って、すたすたと先を歩いて行ってしまう。
明日の仕事は夜からだから、今日は泊まると前々から言っていたけれど。
先を行く細身の背中に、疲れだけではない鈍色の何かを感じて、おれは訳も分からず不安感のようなものを覚えた。
そして気付いて、すう、と腹の中が冷えた。
今日一日、一度もルフィの笑い声を聞いていなかった。
それからはほとんど無言。人混みを避けて各駅停車の電車に乗り、おれのアパートへ。一度気づいてしまえば、会話ににこりと応じるその笑顔は、あのファインダー越しみたいな少し遠い笑顔。
いつもはじゃれるように絡みついてくれるその細い腕も、今日は30センチの距離を保ったまま。
怒っているとか、機嫌が悪いとか、そういうことではない。
ただ、そう、ビジネスライクな空気。距離を置かれている。疲れているだけなのだろうか。本当に?
シャワーを浴びながら、おれは嫌に早い鼓動を持て余していた。
ルフィの花開くような笑顔を見たときとは違う、妙に重く鈍い鼓動。不安を纏って心臓から胃から全てを重くするような。
ルフィは気付いてしまったのだろうか。おれの腹の中でぐるぐる渦巻く、汚い浅ましい感情に。
神聖で不可触。そのはずの、大切な大切なルフィを、自分のものにしてしまいたい。
初めて部屋に泊めたとき。無邪気に身体を預けてくるルフィを、必死の思いで引き離したこと。
同じ布団の中、隣で静かに寝息をたてる小さな唇に隠れるようにして触れたこと。
その直後、無意識にシャツの襟元に手をかけている自分に恐れ戦いてベッドを飛び出したこと。
それらの全ての根源にあるドロドロした汚い感情に、気付かれてしまったのか。
マイナス思考に慣れきった脳みそが最悪のシナリオを叩きだす。
例えば。例えばルフィにこの関係を終わりにしようと言われたとして。おれはそれを受け入れることができるだろうか。
ルフィの髪の感触を。細い手首の感触を。唇の柔らかさを、忘れることができるだろうか。
ぞっとして思わず頭から熱いお湯を被った。
そうなったらおれは一体どうなってしまうんだろう。いつの間にこんな贅沢な人間になっちまったんだろう。あのルフィが、あの手の届かない遥か遠くできらきら輝いていたはずのルフィがおれの部屋にいる。隣で笑ってくれる。それだけであり得ない奇跡だったはずなのに。
ただの草食オタクだったはずのおれは、いつの間にこんな浅ましい猛獣を内側に飼っていたのだろう。
ふわふわ浮いていたところから突然非情に突き落とされて、おれは呆然と自分の髪から落ちていく雫を見つめていた。
だからルフィから話がある、と切り出された時は、来たか、と思った。
思った、んだけど。
「…―――エース、おれのこと、すきか?」
「……へ?」
何かを削ぎ落としたような妙にすっきりとした顔で、淡々とルフィはそう問いかけた。
「…、えーと、ルフィ」
「答えろ。…正直に、答えてくれ、エース。」
お願いだ。
淡々とした声音に、かすかに懇願する響きが混ざった。おれはそれをきいて無駄な言葉を飲み込んだ。ごまかしは、効かない。
「……好きだ、ルフィ。誰よりも。ルフィのことが、好きだ。」
言葉にしたらますます浅ましい気がして、おれは思わず謝った。ごめん、と。
それを聞いたルフィが、なぜか微かに身を震わせた気がした。
「…『ごめん』、って、どういう意味だ…?」
「……そ、れは」
「―――やっぱり、だめだった?」
言葉に詰まったおれに被せるように、ルフィが言った。
え、と思わず顔を上げた先のルフィは、
「……おれの、セリフだよな。ごめん。エース優しいから、面と向かってなんて、言えないよな。」
眉尻を下げて、困ったように、泣き出しそうに、笑っていた。
「…無理させてゴメン、エース。がっかりさせて、気遣わせて、ごめん。…思ったとおりの、『ルフィ』でいられなくて、ごめん。」
ルフィは何を言っているんだろう。なんでこんなにかなしい顔で笑うんだろう。確かに出会う前と今とでは、ルフィに抱く感情は全く違う。こんなにいろんな表情があるなんて知らなかった。画面の中よりもっともっと、こんなにきらきら笑えるなんて知らなかった。
こんなに、めちゃくちゃにしたいと思うくらい、そんな自分を殴り飛ばしてやりたいくらい、好きで大事で相手の全部が欲しいって、こんな感情があるなんて、知らなかった。
だけど、
「ごめん、エース。さよならは、おれが言うよ。」
そんな、「慣れてる」みたいな顔で、
「今まで、楽しかった。大好きだった。」
過去形で、
「おれのわがままに付き合ってくれて、ありがとう。」
わがまま?付き合って、「くれて」?
「―――今まで、ほんとに、ありが」
たまらず、抱きしめた。
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