「……楽しそうだな。よかったな、いい奴らに会えて。特にあのオレンジの女の子。」
「…ナミか?ナミは確かにいい奴だけど、何で?」
「ログポース付けてた。あの子だろ?お前んとこの航海士。航海術とか、お前てんでダメそうだからな。東西南北もいまだに怪しいだろ」
「それくらいはわかるぞ!おてんとさん出てる方が南だろ!」
「このアホ。お前それ本気で言ってんのか」
ばし、と昔のように遠慮なく頭をはたいて、やれやれ、とエースはため息をついた。
だがそのままくしゃりと顔を崩して笑うと、しょうがねえ奴、とこれまた昔のように、ルフィの髪をかき乱した。
いわゆる「世間一般の」兄弟ではありえない距離で唇を触れ合わせ、お互いの身体に腕を巻きつけているというのに、そうしたふとした瞬間が絶対的に「兄弟」で、ルフィは嬉しいようなくすぐったいような切ないような、不思議な感情を持て余した。
「……エースも。楽しくやってんだな。」
「―――ああ。恵まれてる。きっと、自分で思ってる以上に。」
「…そっか、よかった。そんなら、いい。」
そう言って微笑み、目を伏せたルフィに、エースは少しだけ息を止めたようだった。
17歳のルフィに、自分の知らない表情を見たのはエースも同じだった。
3年の月日は、まるで宝石の原石を時間をかけて磨き上げてゆくように、お互いの知らない断面を、研磨した輝く一面を、少しずつ増やしていったようだった。
「…ルフィ、やっぱり、おれと一緒に」
「駄目だ」
とん、と心臓が鼓動するようなやわらかさで、ルフィはエースの肩に顔を埋め直した。
きち、と背中に軽く爪を立てる。ルフィにはそんなつもりはなかったが、これがあるだろ、と弟に諭されているような気がしたのはエースだった。
「……駄目だ。エース。わかってるだろ。」
心臓に直接言い含めるように、胸元で言う。
ぎゅ、とエースの腕の力が強くなったのは、ルフィの気のせいではなかった。
「…あーあ。やっぱりあの時お前も連れてきゃよかったんかな」
「――しし、なんだエース、後悔してんのか?」
「………してねェよ。お前だってそうだろ」
「ん。してねえ。…それに、これがあったら絶対また会えるんだろ?」
「ああ。失くすなよ。絶対だからな。」
「うん。わかった。」
いずれその役割を知るエースの命の紙は、ルフィのポケットの中で息をひそめていた。
エースには、今はまだその意味を知らせるつもりはなかった。
自分の担う使命が、危険を伴うものであることは重々承知していた。この紙の、道標としての役割以外の意味を知らせたら、もし自分に何かあったとき、弟に無用な心配をさせるかもしれない。それは弟に迷いを与えるかもしれないし、何より兄としての自分のプライドが許さない。
それでもルフィと自分を確実に繋ぐ標識が欲しいから、こうして何気ないもののようにして渡したのだった。
兄の胸の内は、ルフィが思うほど穏やかではない。
弟は、それを知らない。
もう言葉もなく、ふたりは互いに寄り添うだけだった。
まるでゆりかごのように、やさしく波に揺れる船。ルフィの髪を、エースの髪を撫でて海風が通り過ぎる。
ただただお互いの肌を、鼓動を感じて、ふたりは波の音を聞いた。
「……、」
「……エース…?」
その時。ふとエースが顔を上げて、風に混じる何かに感覚を研ぎ澄ませた。
エースの腕の中からそれを見上げたルフィは、兄が風に紛れて流れてきた火薬のにおいを捉えたのだとは知らなかった。だが、兄の横顔に彼の今背負うものの一端を見た気がした。
まっすぐに、遠くを見つめる切れ長の鋭い眼。
昔はそれをタネにからかったことのあるそばかすすら、もはや男の野性味を増す一材料だった。
兄は、男の顔をしていた。
「…―――潮時か」
「……え?っん、」
唐突に、エースはもう一度ルフィの唇を塞いだ。
ぎゅう、とひときわ強く身体を締め上げられて、思わず広い背中に縋りつく。
舌を根元からえぐり出そうとするかのように、エースは執拗にルフィの薄い舌を吸い、絡めた。
ちゅく、と水音が妙に生々しく大きく聞こえて、粘膜を擦りあげられる感覚に思わず声が漏れて、仲間の誰かに聞かれてしまうのではないかと思った。
それでも、もっと、もっとと兄のキスを求めてルフィは自ら唇を開いた。
叶うならこのまま抱いてほしかった。それが無理ならせめて、いつかもわからない、次に会えるその日まで、エースのキスを覚えていられるように。エースの体温を、心臓に食い込む甘い痛みを、覚えていられるように。
ルフィの全てを、エースが覚えていてくれるように。
最後にルフィの唇を音を立てて吸って、エースは離れた。
「……来いよ、ルフィ。おれのとこまで。」
「…、エース」
「続きはそんときだ。…キスじゃ済まねェからな。覚悟しとけ」
「―――っ、エー、ッわ!」
ルフィが思わず頬に血を昇らせたのを見て笑い、エースは足元に転がっていたルフィの麦わら帽子を手に取るとルフィの頭に少し乱暴に載せた。
そしてルフィが一瞬視界を失っている間に離れ、自分の背中から帽子を手に取り、目深に被る。
たた、と軽く反動をつけて、来た時と同じように軽々と甲板の手すりの上に立つ。
エースはひかりに染まる海を見た。風を全身に受け、ひかりを浴び、強く脚を踏みしめて、立った。
そして、まるで彼自身が大きく帆を張った船であるかのように、ゆっくりと両手を広げた。
「……――――、」
ルフィは兄の背中を見た。男の美しい背中を見た。その背中には、傷一つ付けられやしなかった。
ひとしきりそうして大きく息を吸ったあと、兄はゆっくりと振り返り、笑った。ひかりを背に、エースが笑った。
そして、次の瞬間、彼はそこから姿を消した。
もう行くのか、というルフィのいっそ悲鳴じみた声が外から聞こえた。
なにか答えているようだったが、それは引き留めるルフィに応じるものではないらしい。
「え、あの兄貴もう行くのかよ!」
「何だ、ほんとにすぐなんだな」
「ルフィ、泣かないといいけど」
「はは、そりゃ見物だナミさん」
見送りに出るために、仲間たちはまた甲板にわらわらと集まった。
水面と甲板のその上で、それぞれの船のその上で、兄と弟は、笑っていた。
もう二度とふたりが笑いあう姿を見ることはない。そのことを、仲間たちは知らなかった。
そして、ふたりも知らなかった。
それが、最後のキスだということを。
(…―――先に行くぞ、ルフィ。)
(……たとえばあの時、意地も誇りも夢も何もかもすべて捨てて『行くな』って言えたなら)
そうすることができたなら、彼らには違う未来があったのだろうかと、ナミは考えることがある。
そんなのはプライドが許さないとか、そんなのは男じゃないとか、男は二言目には意地とか誇りを盾にする。
だから嫌いなのよ、男なんて、とナミは思う。
どんなに無様でも、恰好がつかなくても、生きていてくれさえいたら、とナミは思う。
それは母にであり、故郷の姉や顔なじみの面々にであり、曲がりなりにも愛する仲間たちにであり、ルフィにであり、そして、エースに対して思うことだった。
サニー号の甲板で膝を抱え、ナミはルフィの背中を見ていた。
まだ日の出は少し遠く、空のグラデーションも未だ薄い。それでも確実に来る朝を、ルフィはサニーの船首近くに腰を据え、待っていた。
ルフィがたびたび部屋を抜け出し、こうして朝日を待っていることに気が付いたのはごく最近のことだった。
今日こそその理由を問いただそうと、少し遅れてルフィの背中を追いかけた。
甲板へ続く船室のドアを開けて、ナミはそこから動けなくなった。
ルフィはただそこにいるだけだった。ただ、足がそれ以上近づくことを許さなかった。
うっすらと星が散らばる暁の空の下で、ルフィは海を見ていた。
太陽の昇るその方向を見て、風に髪を任せ、緋色の裾をひるがえし、ただルフィはそこにいた。
なんだか無性に泣けてきて、ナミはその場に膝を抱えて座り込んだ。
同じ部屋で寝起きするロビンを起こしてしまったことも、今だけは許してほしかった。
「……どうしたの、ナミ」
音もなく隣に腰を降ろし、やさしく髪をなでるロビンの手に、また新しい涙が零れる。それすらも、
「―――悔しいの」
「……なにが悔しいのかわかんないほど悔しいの。ルフィの強さも、あいつが泣かないことも、…あいつが、一番泣いて泣いて苦しんだ時にそばにいられなかったことも、…ッ、あのとき、エースを引き留めてあげられなかったことも!」
言葉にしたらもう何もかもがあふれ出て止まらない。
「悲しいの」
「ルフィがあんまりきれいで、悲しい…!」
もう隠しきれない身体の震えを、ロビンは自分の身体を寄り添うことで宥めようとしてくれていた。
そうね、と静かに言って、ロビンはナミの髪を撫でた。
「……わかってる。私なんかが何言ったって、何にも変わりやしなかったってことも。誰にも、どうしようもなかったんだって、エースが、ルフィが選んだ道だって、今更何言ったって無駄なんだってことも、わかってる」
でも、とナミはしゃくりあげた。
「………しらほしが、言ってたの。ロビン、知ってる?…ルフィの新技、『レッドホーク』っていうんだって。水の中なはずなのに、ルフィの手から炎が出て、そのまま拳を叩き込むんだって。」
(ああ、おれの兄ちゃんだ)
(いいんだ。行ったっておれがどやされるだけさ)
(…守りてェよなー…)
「――――まだ、好きなんだって、」
「…ッあいつ、まだこんなに好きなんだって……!!」
ついに崩れ落ちるように泣き出したナミを、ロビンはまた、そうね、と答えて腕に抱いた。
その声も、うっすら潤んでいるように聞こえたけれど、涙で視界を奪われたナミに、それを確かめる術はなかった。
「悔しいの…!あいつ、…この、2年間、どんだけひとりで泣いたのかって」
「どんだけ、エースを呼んで泣いたのかって思うと、」
「泣いて、朝目覚めて、ああもういないんだって絶望して、それを、何度繰り返して」
「その度に、どんだけ、足踏ん張って立ち上がって、ここまできたのかって思うと、」
「あいつが、こんなに愛してるのに!なんで、いなくなったりすんのよ、って…!!」
エースのことをそういう意味で愛していると、ルフィの口から聞いたわけではなかった。
だが、ナミはルフィのことを見ていた。ずっと見ていた。自分たちには見せたことのない、「船長」でも、「海賊麦わらのルフィ」でもなく、ただ「弟」として、誰かの腕の中にあることをあれほどまでに嬉しそうに受け入れる彼の顔を、ナミはエースの前で以外、見たことはなかった。
ルフィの慟哭を、ナミは知らない。
だからこそ、今のルフィの強さが痛々しかった。
彼の背の美しさが、痛かった。
その時、ルフィがゆっくりと、立ち上がった。
彼を包み撫でて過ぎ去った風が、ロビンの髪を揺らす。
「……ねえ、ナミ、見て」
「…?」
「太陽が、昇るわ…。」
水平線の彼方。海と空の境界をひかりが裂く。
星の残響を新しい朝が浚い、空が青みを増していく。
ひかりのみなもとで、ルフィは立った。
ひかりの海。未来の伝説の舟が風を切って進む。
ルフィが海に向かって両手を広げる。
風を受けて黒髪が騒ぐ。
空は青く、海は蒼く。
緋色の裾をひるがえし、血の色を、命そのものの色を纏い、ルフィが両手を広げる。
緋色の鳥は、朝日に向かう。
その背中は、あまりに美しい。
「ねえ、見て、ナミ―――」
ナミの涙の痕を、新しい朝日が照らし、光る。
「きれいね…。」
「…。」
「こうして朝日を迎えるたびに、新しい太陽を迎えるたびに、」
「……、」
「…いいえ、多分、彼が、呼吸をするたびに」
「きっと、彼は愛されているんだわ」
「ルフィの心臓が脈打つその度に、――『愛してる』、『愛してる』って、叫んでいるんだわ……」
エースが自らの命と引き換えに救った命。その命そのものを愛と言わずに何と言おう。
ルフィが生きる。ルフィが呼吸をし、ルフィの心臓が鼓動を打ち、血を巡らせ、極小の細胞が小さな生と死を日々繰り返すその度に、
愛している
愛していると。
「…――っ、…ずるいわよ……!!」
「……ふふ。そうね。ずるいわね…」
再び溢れ出した涙を隠そうともせず、ナミは絞り出すように吐き捨てた。
あんなにお互いを想っていながら、ついに互いに行くなと言えなかった兄弟を想って泣いた。
愛した人のすべてを背負い、凛と立つその背中に泣いた。
太陽があまりに眩しくて、泣いた。
見てろ、と思った。
ぼろぼろと涙を零し、唇を噛みしめながら、それでもナミはもういないその人に向かって啖呵を切った。
確かに今までのルフィの航路は、エースを指針とするものだった。
けれど、ルフィも、そしてナミも、もう2年前とは違う。そのための2年だった。
ルフィの望む方角へ。ルフィが臨むその先の海へ。
今度は、ナミがその指で指し示すのだ。
見てろ。あんたの分まで、どこまでだって連れてってやるから。
見てろ。どこまでだって着いて行って、一緒に生きてやるから。
そう、思った。
ゆっくりと風を受けていた腕を降ろし、ルフィは振り返った。
海風が、ルフィの緋色の裾を弄び翻す。黒髪を撫でて遊ぶ。
ひかりを背に、ルフィが笑った。
「…――――ナミ!次の島までどれくらいだ!?」
どこまでも、からりと誰かによく似た顔で笑う。
ロビンが嬉しそうに笑う。
ナミの涙なんか気にも留めないその眩しい笑顔に、ナミも笑った。
笑わば笑え、どうせ誰しもおんなじなのだ。
太陽になど、敵いやしない。
「…――急がなくても島は逃げないわよ!ちゃんと連れてってあげるから!…だから、ちゃんとそこにいてよ、船長!」
落ちねえよ、と少々的外れなことを言って、また、ルフィは笑った。
その身に緋色の衣を纏い
焔の衣を
血の衣を
命の衣を身に纏い
汝れは往く
汝れは往く
炎を纏いて汝れは往く
いのちを纏いて、汝れは往く
太陽讃歌
自分の思いにケジメをつけるために書きました。
受け容れる、というのとはまた違うけど
最期まで笑った彼はもういないという事実と
ルフィはそれでも笑い生きてゆくのだと
そして私はそんな彼らが大好きだと
それを噛み締め腹に収める為に書きました。
そして
もう遥か2か月前の話ですが(こんなんばっかか)、
サイト一周年と
10万回のご来訪に感謝いたししまして
読んでくださったすべての方に捧げます。
本当に、ここまでありがとうございました!
もしご希望の方がいらっしゃいましたら、
お持ち帰りはご自由にどうぞ。
転載の際は、「花村ジョー」の名前を明記して頂けますと幸いです。
ご連絡はお任せいたします。
それでは、ここまで読んでくださったあなたさまに愛をこめて!
20120913 Joe H.
|