※原作沿いです。ご注意ください。




その身に緋色の炎を纏い
焔の衣を身に纏い

汝れは往く
汝れは往く

炎を纏いて汝れは往く






ひかりの海。

エースが海に向かって両手を広げる。
風を受けて黒髪が騒ぐ。
その背中を見る時、ルフィは訳のわからない熱いものが心臓から喉から網膜から、全てを焼くように駆け昇っていくのを耐える。

痛いくらいに、エースの背中は美しい。

「…―――いくのか、エース」

つめたい透明な空。まだうっすらと星の残骸を残している。
海は朝の白い光に覆われて、それを背負ってエースがゆっくりと振り返る。

「……まだ寝てろって」
「その間に行っちまうつもりだろ。そうはさせねーからな」
「そんな薄情なことしねェっての」
「どーだか」

17歳のエースと迎える、おそらく最初で最後の朝だと、14歳のルフィはどこかでわかっていた。
身体には確かにエースと繋がっていた記憶がある。エースが付けた痕もある。エースの声も、エースの体温も、エースが触れるその感触すら忘れたくなくて、一晩中泣いてその背中に爪を立てた。
朝まで寝ずにエースに触れてエースの声を聴いていようと思ったのに、泣き疲れて少しうつらうつらと眠ってしまった。それでも夜が明けるまでずっと触れていてくれた、エースの大きな手のひらの感触をルフィの髪や皮膚やその下の血液は覚えていて、それらはエースが離れた瞬間にこうして鋭いほどの覚醒を突きつけるのだ。

だけど、それも朝日が昇るまで。
太陽が昇って新しい今日が始まったら、笑って兄の背中に手を振るのだ。だから、

「…――仕方ねェ奴だな。」
「……、」

もう子供の柔らかさを捨てた兄の胸。兄はもう子供ではない。一人の強く猛き男だ。男は旅に出るものだ。この腕の中はこんなにもあたたかくやさしいけれど、ああでももう、ルフィひとりのものではないのだ。

ぎゅう、と力いっぱい抱きしめる腕。
昔から意地っ張りで素直じゃなくて、それでいて芯のあたたかい兄がはじめてこの腕で抱きしめてくれたのはいつだったろう。
そうだ、サボがいなくなった夜が辛くて、泣いて泣いて眼が溶けそうなくらい泣いて、それでも嗚咽を聞かせたらまたあの硬い拳が飛んでくると思って、ぼろきれ同然のシーツにくるまって泣いたあの夜だ。

シーツの向こうから、兄の控えめな足音を聞いた。
起こしてしまった、怒られる。そう思って体を強張らせた。
すぐそばに膝をついた気配に、小さく小石みたいに縮めた体を、エースはシーツごとくるむように抱きしめてくれた。

何も言わず、ただただそうして抱きしめてくれた。
硬く縮めた体がエースの体温に溶けだしたみたいに、ルフィがついに声を挙げて泣いても、エースは何も言わないで抱きしめてくれていた。
その時のエースのにおい。あれをきっと、家族のにおいと言うのだとルフィは思う。

それからのエースは、ルフィがいくら聞き分けのないことを言っても拳骨に訴えることはそうそうなくなったし、なんだかスカスカして眠れない夜はエースの布団や腕の中にもぐりこむことを許してくれたし、仕方ねェな、と困ったように笑って頭を撫でてくれることも多くなった。

15歳になった日。エースは黙ってキスをした。

山賊達がエースの誕生日を祝って酒を酌み交わす、そのあたたかい灯りを木の枝にふたり並んで腰掛けて眺めた。その時の何気ない会話。まるでその延長線上みたいに、エースはつとルフィの頭を大きな手のひらで引き寄せてキスをした。

なにがきっかけだったのかはわからない。でも遅かれ早かれそうなっていただろうとルフィは思う。

だってエースと過ごした時は、その時のちっぽけなルフィの人生のほぼ半分に近かった。同じ朝を迎え同じ山を駆け同じ夢を見た。ルフィの狭い世界の半分はもうほとんどエースで埋まっているようなものだった。いずれ近いうち、エースのいなかった世界を忘れる時がくる。いつか必ずそうなるのなら、そうなると気づいたその瞬間に手を伸ばすべきだとルフィは思った。

なぜなら彼らふたりに与えられた時間は減って行くばかりだからだ。
この世に生まれたその瞬間から。

磨り減っていくのなら、もう一刻も早くエースのキスを覚えたかったし、もっと近くでエースの黒い瞳を覗き込んでみたかったし、自分の体温をその腕に刻んで欲しかった。
ましてやエースと共に過ごせる時間はリミットが見えている。それもすぐそこに。

だったらもう一瞬だって後悔したくない。
ルフィはエースのキスに全力で応え、恋だとか愛だとかその感情に名前をつける前にエースを自分の中に受け入れた。

痛くて訳がわからなくてさすがのルフィでも恥ずかしいと思うわけで、そのうちそれすらエースの手でめちゃくちゃにかき乱されて何もわからなくなった。
だけど、エースが低く呻いて自分の中に吐き出して、そのまま脱力して覆い被さってきたのを受け止めた時、ルフィは、ああおれはこのひとが好きだと思った。
熱い背中に手のひらを這わせて、ああこのひとが大事だと心底思った。

このやわらかくてちょっとどろっとしててあったかい、この感情を愛だとか恋だとかそう呼ぶのだと、このときルフィは初めて気が付いたのだった。

だからそれはごくごく自然なことだった。
エース、すげー好きだ。そう口に出したのは本当に何気ない当然のことだったのだ。

「…――は?」
「…へ?」

だから彼にはわからなかった。言った途端、がば、と上半身を起こして、目をまん丸くして見下ろす兄が、何をそんなに驚いているのか。

「…え、おま、…――え…?」
「なんだよ」
「……お前、おれのこと好きなの?」
「――は、ァ?」

聞けばエースは、頭の弱くてネジの4、5本は外れているだろう弟のことだから、多少イレギュラーなセックスであることに気がついてはいてもどうせその程度で、雰囲気とかその場の流れとか、そういうものに流されたのだろうと思っていたという。
あとはルフィがエースのことをとんでもなく大好きだということはわかっていたし、エースならまあいいかとかその程度なんだろうと、要するに弟はエースに流されただけで足を開いたのだと思っていたのだという。

これに頭に血を昇らせた自分を、誰も責める権利はないとルフィは今でも思っている。

「――え、え!?お前、え!?」
「くたばれバカエース!!なんだよそれ!おれがどうでもいいやつにホイホイこんなことさせると思ってたのかよ!じゃあエースも『そのバのフンイキ』ってやつか!おれは『ツゴーのいい相手』ってやつか!よくわかった!!」
「ちょ、バカルフィ待て!そんなカッコでどこ、」
「あーそうかよごめんなおれがバカだった!!勝手に嬉しいとか思っててゴメンな!!忘れろよ!」
「ああバカもう、泣くな!!」

裸のまま逃げ出そうとしたルフィを、エースはそれはもう慌てた様子で引き留めた。
いわく「まだまだガキんちょだった」ルフィは、駄々っ子のように身体や腕を捻ってその手のひらを逃れようとした。それでもエースはもうどうやっても敵わないような強い力でルフィを布団の上に引っ張り戻して、もう逃げる気も起こらないくらいに、あったかく強く抱きしめた。

ごめん。ルフィ。ごめん。

そうやってずっとずっと、ルフィの眼に滲んだ涙もぎゅう、と押し殺してしまうくらいに、思いっきり抱きしめてくれていた。

「…―――お前が、おれのこと大事に思ってくれてんのはわかってた。でも、お前が、スキ、とか、そういうのまだよくわかってなくても。これから、少しでもおれと同じ気持ちになってもらえたら、って、それでいいと、思ったんだ。」
「……。」

もう耐えられそうになかったと、エースは言った。
刻一刻と彼らが二人で生きてゆける時間はすり減ってゆく。目に見えるように。それがひどくおそろしかったとエースは言った。

たとえルフィの感情が、ルフィのこころが追いついていなくても、そうせざるを得ないところまで来ていたのだと、そう言った。

「…―――ごめん。おれ、言葉の遣い方、下手くそだから。…なんか、好き、とかそういうのとも、ちょっと違うような気がして」
「……。」
「なんか、そういうのが、ちょっとでも伝わればいいと思って」
「……。」
「ごめん。おれ、どうでもいい奴にしてるみたいな抱き方してたか。ただヤりたいだけみたいな、お前にそう思わせるようなこと、してたか。」

ごめん。
どうしてもお前が良かった。お前がどうしても欲しかったんだ。
そういって、エースはルフィの肩に指の痕をつけるくらいに強く縋りついた。
涙は、止まっていた。

「…―――かった」
「…?ルフィ、」
「きもちよかった。さっき。……死にそうなくらい。」

「エース、やさしかった。大事にしてくれてたって、わかる。…だから、」

エースが遊び半分じゃないってことくらい、ルフィだってわかっていた。
だってそれならあんな風に、まるで飴細工かなんかを抱くみたいに優しく触れてくれる訳がない。誰にでもそういうことをしているなどと言われたらそりゃあぶん殴ってやる所だが、エースがそんな器用な人間ではないということくらい、ルフィが一番良くわかっていた。

だから辛かった。それすらルフィの勘違いなのかと思ったから。
あの幸せな時間を、ささやかな、でも絶対的な信頼ですらも、覆されてしまうのかと思ったから。

それらをカタチにして伝えられなかったルフィの言葉にならない言葉を、それでもエースは汲み取って心臓のところに収めて、そして抱きしめてくれた。
おれたちは兄弟そろって言葉の遣い方が下手くそだ。まるで動物のようだと、ルフィは思った。

だからこそ、寄り添って、体温で肌で想いを伝え、たまに噛みついて、爪を立てて。

そうしてふたり、生きてきたのだ。
いつだって、そうだった。

そして、エースは17歳になった。
大きな背中はより広く、強く、少しだけ、遠くなった。

「…―――先に行くぞ、ルフィ。」
「……うん。」
「追いかけて来い。おれのとこまで追って来い。…そうしていつか、あの海の向こうで会おう。」
「…うん。」
「おれは待たない。だからお前が来い。……お前なら、きっとやれる」
「……っ、うん」

頬を風に揺れるエースの髪がくすぐる。
少し高い、いつものエースの体温。
強く力の籠った肩。
一日一日を追うごとに広くなっていったような、背中。

焦がれて焦がれて焦がれたこの背中。
今だけ、大切な麦わら帽子はあの小屋に置いてきた。
確かにルフィが海に出る最初の目的としたのは、シャンクスにあの帽子を返すことだったけれど、その道のりには確かにエースがいるはずだ。エースの背中を追って行くのだ。

エースが確かに、指針だった。

ひかりの海。小舟が風を切って進む。ルフィはどこまでもどこまでも手を振る。
エースが海に向かって両手を広げる。
風を受けて黒髪が騒ぐ。
空は青く、海は蒼く。
エースが笑う。

その背中は、




「……お前が、誰に勝てるって?」
「わっ」

3年ぶりに会ったエースは、ルフィの知っているエースから、一回りも二回りも大きく強く見えた。

「とにかくまァ会えてよかった。おれァちょっとヤボ用でこの辺の海まで来てたんでな、お前に一目会っとこうと思ってよ」

その背中にはルフィの知らない刺青。
「いい兄貴」の顔をして、エースは笑った。ルフィが、何もかも夢だったんじゃないかと思ってしまうくらいに。

「できの悪い弟を持つと……兄貴は心配なんだ」
「おめェらもコイツにゃ手ェ焼くだろうが、よろしく頼むよ」

ルフィの知らない背中。
ルフィの知らない大人みたいな口調。
ルフィの知らない、20歳のエース。
手も触れない、1メートルの距離。

(――エースは忘れちまったんだろうか。)

広い世界のいろんなものを見て、いろんな人と出会って忘れてしまったんだろうか。
あのちっぽけだった世界の、それでも絶対だった色んなものを、エースは忘れてしまったんだろうか。
それならそれで仕方がない。もう兄は兄の海を走りだしたのだ。彼の海で出会った、ルフィの知らない人達と共に。

ルフィは、感情を波立てることもなく、努めて淡々とそう思った。
この船の上では、彼は「弟」ではなく「船長」だったからだ。

だが、

「――――さて、」
「…?」

すと、と軽い音を立てて、初めてエースは甲板へ降りた。

「申し訳ねェんだけどよお前ら、久しぶりに兄弟水入らずで話してェんだ。少しの間コイツ貸してくんねェか」
「…!、エース」

さらりとそう言って、エースはごくごく自然にルフィの肩を抱いた。

「だから中に入れって言ったのに」
「まぁそうはいってもお兄さんも立場ってもんがあるんでしょ?」
「確かになぁ、その肩書じゃあなあ」
「悪いな、おれもすぐ行くからよ。」

まあそういうことならごゆっくり、とか何とか言って仲間たちはぱらぱらと散っていく。
船室に入るものもあれば、見張り台の方へ向かうものもある。
未だにルフィの肩に手のひらを置いたままのエースが、にこやかな笑みを浮かべてそれを見送っているのであろうことはルフィにもなんとなくわかったが、どうしても顔を上げてそれを見ることができず、ルフィはどうしていいかわからないまま仲間たちの背中を目で追った。

「じゃあねルフィ。ゆっくりしてもらいなさいよ、久しぶりなんだし」
「…おう!」

最後にそう言って横を通り過ぎて行ったナミにはなんとか笑顔を返したが、そのときルフィはエースの顔をまともに見られないその理由に気が付き、心底うろたえた。
すぐ横を通り過ぎて行ったナミの、ルフィより数センチ低いところにある細い肩。それをなんとなしに見ていて気づいたのだ。

エースの肩は、こんなに高いところにあっただろうか。
エースの顔は、こんなに遠いところにあっただろうか。
エースの手は、こんなに大きかっただろうか。

横に並んで浮き彫りになる、3年という歳月。それを改めて思いだし、ルフィの心臓は今更の様に跳ねた。

「…―――、」
「、?どうかした?ナミさん」
「………ううん、なんでもない」

ルフィのあんな顔初めて見た。
ナミがぽつりとそういったのを、怪訝な顔をしたビビだけが聞いていた。

「……ッ、…!」
「…、……ルフィ…、…ルフィ…!」

ナミの背中が階段の下へ消えた途端、肩を抱いていたエースの腕がそのままルフィを船室の壁に押し付けた。突然の暴挙に竦んだ背中の痛みを自覚する間もなく、頭上の帽子がはぎ取られ、呼吸の自由すら奪われる。

自分の帽子は背中に回しただけのくせに、ルフィの大切な帽子は足元に無造作に転がして。

「…ん、ン、…っ」
「ルフィ」

あまりに突然で、何が起こったかルフィにはよくわからなかった。
帽子とともに、兄はその肩書も、「いい兄貴」という評価すらも脱ぎ捨ててしまったかのようだった。
唇を割り、エースは容赦なく舌を押し込みルフィのそれを絡め取った。
後頭部を大きな手のひらに鷲掴みにされている。
身体を締め付ける腕の力は、逃がさないとでも言うかのように強い。

そんなに必死になって捕まえなくたっていいのに。
兄の名を呼ぶ間もなくキスに翻弄されながら、半ば朦朧とする意識の端でルフィは思った。

だって腰が砕けそうなくらいに、エースのキスは甘かった。逃げるなんて、もうできそうにない。

「…ッは!……は、あ、…ッえー、す、…!っは」
「…、……あ―――あ……キスしちまった…。ここまで我慢したってのに、参ったねえ…。」
「…エース…!…ッん、…はぁ、」
「お前が悪いんだぞ、ルフィ。お前があんな顔で笑うから」

会いたかった。
ルフィの唇に唇を触れたまま、エースはささやくようにそう言った。
記憶よりも少しだけ低いその声に、今まで気配すらなかったはずの涙が滲む。「船長」としてのルフィは、麦わらと一緒にエースの大きな手がはぎ取ってしまったらしい。

悔しくて心臓が震えてどうしようもなくて、ルフィは日に焼けた広い肩に顔を埋め、悔し紛れに背中に爪を立てた。

「……――ばかやろ…!おれの、せりふだ…!!」

そうして兄の腕の中で目を閉じてしまうと知らない背中はもう見えず、手のひらで縋りついた体温は、変わらずあたたかいのだった。