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蝉が盛大に鳴いている。それに負けじとするかのように、新幹線のホームにアナウンスが響き渡る。今そこに停まっている、西へ向かう新幹線の発車時刻を知らせるアナウンス。ホームの屋根とビルの隙間からのぞく空が青い。
『おいエース聞いてっかー』
「あ?おお、聞いてるけどアナウンスが被っちまって」
『あーまあいいけどよ業務連絡だから。お前んとこの家電、ジョズが運んでったぜ。ルフィの兄貴んとこに着くのは明日の午後になるって。』
「おお、さんきゅ」
『まだちょいちょい部屋にも残ってたけど、これはいいんだろ?』
「ああ、あとで自分で運ぶわ。わりーな」
『仕事ですから。……で、ルフィは?泣いてねーか?』
「んー…。空元気、っぽいけど、まだ大丈夫そうかな。そろそろあぶねーとは思うけど」
ちら、と横目で眺めやると、ホームで向かい合って話しているサボとルフィの姿が目に入る。
サボ一人がいつものあのボストンバッグを持って、ルフィはほぼ手ぶら。その両手が、所在なげにサボの手を取って無造作に揺らしている。引き留めたい、その気持ちが無意識に出ているようだった。
『…ま、そんなときのためのお前だろうからな。頑張れよ、ダンナサマ』
「お前絶対それルフィの前で言うなよ。照れたり怒ったりで大変なんだから」
それも可愛いんだけど、とは言わない。もったいねえからな。
『あ、そーだオヤジが今度引っ越し祝いに行くっつってた。多分マルコとかおれたちみんなで押しかけるから、お前ルフィの都合聞いとけよ』
「えっ何それ!!いいよ別に、祝ってもらうほどの引っ越しじゃ」
『おっ前なー、わっかんねーかなー!結婚祝いみてーなもんだっつの、式も何もねえんだからそれくらいやらせろ!あ、ルフィの友達呼ぶってのもアリじゃね!』
「けっこ…!おま、何勝手に、」
『あ?何?違うの?指輪渡しといて?プロポーズしといて?同棲しといて?最低エース!もてあそんだのね!!』
「ぐ……、…ち、がい、ません、けど…!」
『ハイそーゆーことでー!オヤジもうその気だから!よろしく!あっお祝いなんかほしいもんあったら言えよ!イエスノー枕とかでも』
「間に合ってんだよ自分の心配しろボケ!!」
思いっきり怒鳴りつけてバチンと携帯を閉じる。
オヤジが祝ってくれる、とか、こっぱずかしいサッチの冷やかしの言葉の数々が柄にもなく顔の熱を上げて、余計に腹立たしい。
「あ、エース、サッチなんだっ…、? なんだ?なに怒ってんだエース?」
「……なんでもねーよ。サボ、家電明日の午後にはあっちに着くって。」
「おうさんきゅ」
「…ルフィ、後で詳しく話すけど、オヤジとか、うちの奴らが引っ越し祝いに来るって」
「えっマジで!白ひげのオッサンもくんの!?やった超楽しみ!!いついつ!?」
「お前の都合聞いとけって、サッチが」
「わかったナミに試合の日程とか聞かなきゃ!」
「……またからかわれてんのか?ごしゅーしょーさま」
「るっせー」
サボは小憎たらしくニヤニヤ笑いでこちらを見るし、サッチはサッチで相変わらず癪な野郎だし、まあそれでも無邪気に喜ぶルフィの顔を見てたら、大抵のことはどうでもよくなる。
と、その時。間もなく発車します、というアナウンスがホームに響いた。一瞬で、ルフィの顔が強張る。静かに時計を見上げたサボが、小さく息をついた。
「…じゃあ、そろそろ行くわ。」
「………ん」
「エース」
ボストンバッグを下に置いたサボが、片腕をおれに向かって伸ばす。そのごくごく珍しい目的を悟ったおれは、それに逆らわずに一歩前に出た。
ほぼ同じ高さにある肩を抱いて、力を込める。激励の意味を込めて。
「…こいつ、頼むな。」
「……おう。」
「ほんと、手のかかる弟だけど。…おれの、大事な弟だ。よろしく頼む。」
「……。」
サボの手の力が強い。コイツがルフィのことを思う、その思いの強さそのものだと思った。
「……大事にする。約束する。…お前も、体に気をつけろよ。ルフィがいなきゃ、大抵お前も自分に無関心なとこあるからな」
「はは、言えてる。」
気合を入れるように、腕を回したサボの肩を強く叩き、おれは離れた。目を見合わせた先のサボは、小さく、いつもの不敵な笑みを浮かべていた。旅に出る、大海原へ冒険に出る、そういう人間の眼をしていた。
「……ルフィ、おいで。」
そうしてサボが、やわらかい「兄」の顔で振り向いた先のルフィは、ついに耐えきれなかった涙を零してその腕の中に飛び込んだ。
ぎゅう、と音がしそうなくらい、サボはその両腕でルフィを抱きしめた。強く、強く、その感触を腕に刻み込むかのように。
引きつったような声をかすかに漏らして、ルフィがしがみつく。
切ないその声に、心臓が引き絞られるようだった。
「…またすぐ会えるよ。な?だから泣くな。お前が泣いてたら、兄ちゃん安心して行けねえから。」
「…う〜〜…」
ルフィ。ルフィ。だいじょうぶ。またすぐ帰ってくるからな。そうだ、向こうのうまい店探しておくな。お前がいつ遊びにきてもいいように。な、だから泣くな、ルフィ。
サボの腕の中で、語りかけるその声にうん、うん、と律儀に頷き返す。
泣くなと、大丈夫だと強く抱きしめて諭すサボの眼が、潤んでいた。
もう何も言わず、サボとルフィはお互いを抱きしめた。お互いの体温だけを、ただただ追って。
そして、乗車を促すベルが、非情に鳴り響いた。
身体を離したサボは、潤んだ瞳も隠さずにルフィをまっすぐに見つめると、いつもの穏やかな顔で微笑んだ。下唇を噛んだルフィが、兄を安心させようと震える唇で笑う。その眼尻に溜まったままの涙に、サボがくしゃりと顔を歪めて、彼にしては幼い表情で笑う。
「…行ってきます、ルフィ。」
そうしてボストンバッグを手に取って、サボは新幹線に乗り込んだ。
それを待っていたかのように、ドアが容赦なく閉まる。思わず一歩踏み出しかけたルフィの肩を抱いて、走り出したそれを見送った。
車窓の向こうで、サボは笑っていた。
一度も、手を振らなかった。バイバイとも、さよならとも、一言も言わずに、彼は行った。
いってらっしゃい、サボ。
小さくそう呟いて、耐えに耐えた嗚咽を漏らし始めたルフィを抱いて、おれはいつまでも、その線路を見送った。
******
「――――だぁからゴメンって!しょうがねえじゃん急な仕事なんだから!」
「今までそんなのなかったじゃんか!大丈夫だってエースも言ってたのに!おれ今日超楽しみにしてたのに!!」
「…あ〜〜〜〜もうちょっとホント時間ヤバイから後でな!」
大慌てで飛び出した玄関先で、スニーカーをつっかける。踵を整えるその合間にふと後ろを振り返ると、盛大に頬を膨らませたルフィが斜め下の床を睨んで突っ立っている。
Tシャツの裾を、何かを耐えるように強く強く握りしめて。
なかなか合わせられなかった久しぶりの休み。それをルフィが楽しみにしてくれていたのはおれだってわかっているが、最近入社した新入りのミスで配達ラインが止まってしまっている、とあのマルコの強張った声を聞かされちゃあ、どうしようもない。
だけど、
「―――ごめん、ルフィ。ホントにごめん。埋め合わせは絶対するから。すぐ終わらせて、絶対早く帰ってくるから。」
「……。」
手を伸ばして、ルフィの腕を引くと、意外にすんなりと腕の中に収まってくれた。
全力の「ゴメン」を込めて力いっぱい抱きしめて、最後にすべすべの頬っぺたにキスをして、おれは玄関を飛び出した。
エレベーターに乗り込んで、1階のボタンを連打。
大好きな笑顔が見られなかったこと。「いってらっしゃい」の明るい声が聞けなかったこと。それがどうしようもなく切ないというか、胃の辺りに重く暗くもやもやとのしかかるけど、今はどうしようもなかった。
さてどうやってご機嫌を取ろうかと、ただでさえ憂鬱な出勤にひとつ難題が加わった。
掃き掃除をしてくれているいつもの警備さんに、おはようございます行ってきます、と慌ただしく声をかけて、エントランスを飛び出した。駐車場でヘルメットを被り、バイクに跨った、その時だった。
「………エ――――ス――――――――!!!!」
「!!?」
大音響で、ルフィの声がこだました。
「エース!ごめんな――――!!」
部屋の前の廊下から身を乗り出して、ルフィが全力で叫んでいた。
ご近所さん全体に聞こえるようなよく通る声で、おれが一番聞きたかった言葉をくれる。
「いってらっしゃい!!気を付けてな――――!!!」
途端に、じわじわじわ、と心臓の辺りがあったかく滲み出した。
自然に、あんなに難しかった笑顔が滲み出す。思わず声を上げて、おれは笑った。
「―――ルフィ!!」
「……?」
「今日の晩飯!!何がいいー!?」
ぱち、と遠目からでもよくわかる大きな目が瞬いた。かと思うと、おれのあったかい気持ちがうつったかのように、じわじわ、とルフィもその小さな顔に大きな笑みを浮かべていく。
夏のむせ返るような青空。そこに燦々と照る太陽。それに負けないくらいの、ルフィの笑顔。
「―――カレー!!肉いっぱい!!」
今度こそ思いっきり声をあげて、おれは笑った。
「わかった!―――行ってきます!!」
手を振って、今度こそバイクを走らせる。
いってらっしゃーい、と、ルフィの声が背中を押す。
ほうき片手に警備さんが大笑いしているのはわかっていたし、ちょうどこの時間幼稚園に行くユータとママさんが、ルフィんち今日カレーだって、と話しているのもなんとなく予想がついた。ユータのママさんは最近おなかが大きく目立つようになってきた。ユータは、もうすぐ兄ちゃんになる。
あのアパートで散々迷惑をかけた真下の部屋のおっちゃんは、独身43歳の春、めでたく結婚しついでに会社も辞めて、嫁さんの実家である沖縄でサトウキビ畑の跡を継ぐという。人生何が起こるかわかんねえもんだ。おっちゃん一家に幸多かれ!
「はよっす!」
「おーエース!わりーな!!」
「いいよ!それよかライン止まってんのどこ?」
急いでいつもの制服に袖を通す。
半そでシャツに黒ハーパン、名札靴下スニーカー、バッグにいつもの小道具を詰めて。
指輪は、チェーンに通して胸元に。一瞬だけ指先で触れて、その感触を確かめる。頭の中で、ルフィの名前を呼んでみる。それだけで、おれはどこまでも強くなれる。
「―――よし、行くか!」
「すまねえな、頼んだよいエース」
「おう!」
慌ただしい事務所を抜けて車のキーを取り、職員通路を駆け抜ける。
配達経路を確認して、いつものワゴンにエンジンをかける。
夏のむせ返るような青空。そこに燦々と照る太陽。蝉の声。真っ白な入道雲。
夏が来た。ルフィに恋した夏が来た。
ルフィと恋した、夏が来た。
さて、今日はどんな出会いがあるだろう。どんな笑顔と出会うだろう。
うちに帰れば世界一の笑顔が待っていて、宇宙一の「おかえり」が聞ける。
帰ったら真っ先に抱きしめて、「ただいま」のキスをして、それから、カレーを作る。
こんな日常が愛しくて、空は青くて、太陽は倒れるくらいに眩しくて、この荷物を待っている人がいて、そして、おれを待ってくれてるルフィがいて。
だからおれは今日も、このベルを鳴らす。
「こんにちは!白ひげ宅配便です!」
エバーラスティング
ピンポン
きっと彼らは今日も、
この世界のどこかで荷物を運び、
フットサルをし、
喧嘩をし、
仲直りをし、
キスをして、
お互いを愛して、
そうして、生きてゆくのだと
あり得たかもしれない、もうひとつの、ふたりの物語。
本当に、本当に、ありがとうございました。
20120820 Joe H.
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