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いつも遅刻ギリギリ、というか遅刻常習犯でベランダから担任教師に怒鳴られたりしているエースだから、こんな時間に外にいるということがもういつ振りかもわからない。母親の驚いた、でもやけに嬉しそうな顔が妙に居心地悪く、朝食をかきこんで早々に家を出てきてしまった。
自転車置き場に適当に愛車をぶちこんで(朝早いからか、いつもは絶対に空いていない絶好のポジションが空いていた)、毎朝律儀に朝練を繰り返す野球部の素振りのカウントを聞きながら、体育館に向かう。
近付くにつれて、体育館に入らずともサボのいうことが正しかったことを知る。
ダン、ダン、と規則的に聞こえるドリブルの音。
体育館の床のワックスに高く鳴る、シューズの靴底の摩擦音。
床を強く踏み切る、ジャンプシュートのリズム。
体育館前の渡り廊下に、無造作に転がったカラフルなスニーカー。
ルフィのものだ。
(……サボに言われたからって、なんだっておれは)
釈然としないまま、それでも体育館の扉を開く。反射で、お願いします、とコートに向かって一つ頭を下げて、足を踏み入れる。
結局、エースもハンドボーラーで、ボールの音が身体に染み付いていて、それはもう本能に近いものなのだと、彼自身がそう割り切れるのは、もう少し先の話であったけれど。
「…―――、」
た、た、たん、と定石のステップ。
朝の光の中で、ルフィがふわりと宙を翔ぶ。
だれもいない体育館。眩しい白い光の中を、彼は完全に支配してそこにいた。
空中で構えた小柄な身体。無駄のない動きで滑らかに連動する関節。筋肉。しなやかな腕から放たれる、黄色いボール。枠の中に、吸い込まれて、消える。
美しい、と思った。
血が騒ぐ。あの美しいシュートまでのパスワークを、自分の手で紡ぎたい。あのしなやかな手から生まれる鮮やかなラストパス。それを受けて、思いっきりシュートを打ち込みたい。
ハンドがしたい。ハンドボールがしたい。血の一滴一滴が、叫んでいた。
「…――れ?エース?」
「……!」
は、と知らず詰めていた息を吐き出した。
「……―――びっくりしたー。サボはたまーに来てたけど、まさかエースがこんな朝早く来るなんてなー!」
ぱし、ぱしん、と一定のリズムが響く。
何がそんなに嬉しいのか、にかりと笑ったルフィが投げてよこしたボールを受け取ってしまったことで、エースは初めてルフィとキャッチボールをしていた。
練習の基本であるパスキャッチだが、エースにとってはサボ以外と組むのは久しぶりだった。
無言のまま、ボールを繋ぐ。
言葉はない。だが、言葉よりも確かに、ボールはルフィとエースを繋いだ。
きれいに回転のかけられたボールは、エースの手の中にするりと回って素直に収まる。胸の辺りのキャッチゾーンに、まっすぐに吸い込まれるように届く。
余計なブレも、力みもない、すとんときれいなスロー。
そのまま、エースはいつもよりも手のひらに丁度よく収まるような気のするボールを構え、ルフィに返す。腰の捻り。肩関節の回転。肘のしなり。手首の返し。それらの一連の動作が、ぴたりと一筋に収まっている。そんな澄んだ感覚を覚えた。
「……おれやっぱ、エースのプレーすげー好きだなあ」
「…は、何、急に」
「エースのハンドは、きれーだ。きれーで、シンプルで、そんで強い。おれ、エースのハンド観てこの学校入ろうと思ったんだ」
「…、」
「エースとハンドしたくて、この学校に来たんだ。」
ぱし、と胸の真ん中に届くボール。
そのまま、ルフィの声が聞きたくて、手の中に留める。
ボールが返ってこないことを確かめたルフィが、構えを解いてまっすぐに立つ。
「…だから、エースがつまんなそうにハンドしてるの、悲しい。すげー悲しい。」
「……お前に、何が」
「エースハンド好きだろ。大好きだろ。おれにはわかる。」
「ハンドしよう、エース。おれが繋ぐから。絶対エースのとこまで、おれがボール繋ぐから。」
「……、」
「絶対。最高のパス、おれが繋ぐから。」
手の中のボールが、生き物のようにうごめいた気がした。
どくん、と鼓動を打ったような。躍動を求めて身じろいだような、そんな気がした。
「来いよ、エース!」
た、と唐突にルフィがゴールに向かって走り出す。手のひらを、ボールを求めてエースに向かって差し出す。
突き動かされたように、その進む先に、ボールを放る。
追って、走り出す。
まるでディフェンダーがそこにいるかのように、ルフィが身を翻してフェイントをかける。
居もしないディフェンスが見える。ルフィのフェイントに魅かれるように、壁が波打つ。揺れる。揺らぎが見える。エースは、ただそこに飛び込むだけでいい。だってそこには、
「――――エース!!」
ノールックでルフィが空中に放ったパス。エースがそこにいることを信じて放つ一投。
フロアを思いっきり蹴って翔んだエースの手のひらに、それが収まる。宙に浮いたまま、シュートフォームを取る。地面に降りてしまう前に。無重力を感じている、この瞬間に、
―――――閃光を。
ダァン、と音を立てて、ボールがゴール裏の緩衝マットに食い込んだ。
キーパーも手の出ない、流しの隅ギリギリのゴールゾーン。食い込んだボールは、やっと重力を思い出したかのように転がり落ちる。
地上に戻ったエースは、このたったひとつの動作で異常なくらいに脈を打つ心臓をもてあまし、背後のルフィを振り返った。
白い光の中でまっすぐにすらりと立ったルフィは、エースの眼を受け止めて、笑った。
全身の細胞が、血が、騒ぐ。
ハンドがしたい。ハンドがしたい。こいつと。ルフィと。
空中でパスを繋ぎ、そのままシュートを放つ、あらゆる技術と阿吽の呼吸が揃って初めて可能となる、奇跡のワンプレー。
人はそれを、「スカイプレー」と呼ぶ。
******
「…―――だから!何でおめーはあと一歩待てねえんだよ!!」
「打てる時に打たないともったいねえだろパッシブ取られるし!」
「あんなんですぐパッシブどーこーっつータイミングじゃねえだろうが!もう一本パスまわしゃあ確実に一点入んだぞわかってんのか!!」
「そんなんわかんねえじゃんエースがシュート外すかもしんねえし!ケッカロン?だろ!」
「外さねえよナメんなクソガキ意味よく分かってねえ単語使うんじゃねえ!どこで覚えたそんな無駄な単語!!」
あーあーまたやってるよ、と気だるげにそう呟いたのは誰だったか。事実としてはウソップだったわけだが、それはその場にいるほぼ全員の心境を代弁するものだった。
ゲラゲラ大口を開けたまま定位置のパイプ椅子にふんぞり返って笑う顧問を横目で一つ眺めやり、新部長、もといサボはため息をついて肩を竦めた。
「カントク、あいつらはいいんで次のメニュー入りましょう。ホラ爆笑してないで」
「ぶっは、サボ、ちょ、お前早く言ってやれってお前ら同レベルだぞって!イキナリ仲良すぎじゃねヤベーちょーウケる」
「オッサン、無理して現代語使わなくていいんで。ああ、もういいやポジションシュート入っちゃっていいですかセンセ」
「…ああ、そうしてくれ」
「ナミちゃんカゴちょうだい!ビビちゃんマーカーディフェンスラインにお願い!」
「「はーい!」」
「ゾロ、キーパー入れるか?」
「おう」
「サンジ、ポストからボール出し頼む。ランダムでパス出すからブロックの位置確認して」
「了解」
「チョッパー、ウソップ、両サイドそれぞれ入ってくれ!左サイドからスタートな、声出せよ!!オラいつまでやってんだエースルフィいい加減にしろポジションつけ!!」
すまん、と頼りになる部長にひとつ神妙に謂れもない謝罪をして、偏頭痛持ちの顧問はまたこめかみを揉んだ。
「―――おっけーナイスファイ!次でラスト1セット!」
こだまするように返事が響く。
ほんの一瞬で意識を切り替えられるその集中力は大したもので、サボは自ら放ったボールをゴール内のゾロから受け取りながら、相も変わらず皮肉なほどの美しいフォームでシュートを放つ二人を眺めやった。
エースとルフィ。突出した能力を持つ二人が、だがここのところそれだけではないような気配を見せる。
感情のぶつかり合いも、以前のような刺々しいものではなく、プレーヤー同士のコミュニケーションの一部に変わりつつあった。チームとして、仲間として、その地下に少しずつ根を張るそれを信頼と呼ぶのだと、まだ本人たちも気づいていない。
「――エース、あれ試してみよう!」
「…ん、ああ、うまくいくかわかんねえぞ」
「いいよ、タイミングはこれから調整すりゃいいじゃん」
だな、と答えたエースは左サイドのウソップに何か話し掛けに行った。パスのタイミングを伝えに行ったのだろう、その物腰は依然に比べて穏やかだ。エース本人は気にも留めていないが、ウソップが視線を逸らさずに答えられるようになったのも、ごくごく最近のことだった。
そして、彼とルフィが見事に呼吸の合ったプレーを見せるようになったのも。
ルフィがシュートに入るその一瞬前に、視線もくれずに背後のエースにパスを出す。シュートフォームを取ったルフィの手元には、既にボールはない。
完全にタイミングをルフィに合わせたキーパーは、囮となったルフィの後ろから現れたエースのジャンプシュートに対応できない。
(…――あいつら、いつのまに、)
完璧な連続攻撃。二人がいとも簡単にやってのけるそれは、相手がそこにいることを1ミリも信じて疑わない信頼があって初めて成り立つものだ。伊達に年月をハンドボールに懸けてきた訳ではない。サボにはそれがわかる。
部員、マネージャー、他部の生徒。二人のプレーを見ている全員の視線が、釘付けになっているのが分かる。何せ自分がそうなのだ。
閃光のようにゴールに吸い込まれた軌跡を満足げに見つめたエースの顔を見て、サボは胸が熱くなった。
エース。お前ハンド楽しいか。
数日前にシャンクスが投げかけた意味深な質問を、サボはもう一度彼に投げてみたかった。
「……、ルフィどうした」
着地してすぐさま振り返ったエースが、ほんの少しだけ表情を固くして呼びかけた。
それにつられて振り返った先のルフィは、特に変わった様子もない。けろりとした顔で、エースナイシュ、と手のひらを向けて差し出した。
「…おう、お前のナイスパスだけどよ。…どしたお前、どっか痛めたか」
ぱし、と手のひら同士を軽く触れ合わせて、そのままルフィを支えるように二の腕の辺りを掴む。それにほんの少しだけ寄りかかって、ルフィが片足を浮かせた。
「ん?んー、さっきの踏み切りで足のウラのマメつぶれちったかも。でもだいじょぶだぞ、いつものことだし、」
「バカ、いてえだろ。それかばってでけえ怪我したら承知しねェかんな。――サボわりィ、次休憩だろ?」
唐突にこちらに向かって声を張り上げたエースに、サボはは、と我に返った。
「…あ、おう!5分休憩!」
「サンキュ!――ほれ、つかまれ。ビビ、メディくれ!」
「ハイ!」
「えー、いいよガマンできなくねーし」
「いいから言うこと聞け」
そういって半ば無理矢理にルフィに肩を貸し、その腰を片腕で抱え込んでエースは歩き出した。
その背中を見送って、サボはぽつりと呟いた。
「―――あいつ、何で気づいたんだ?」
その問いに進んで答える者は、いない。
******
「…、いってェ、」
「……げっ、なんだこれお前!足の裏ボロッボロじゃねえか!!こんなんでやってたのかよ!!」
シューズとソックスを脱がせて現れたあまりに痛々しいそれに、エースは思わず怒声に近い声を上げた。
「…しょーがねーよ、そのうち固くなるから今は我慢するしか、」
「にしてもなんかやり様があんだろが!おれでもこんなひどくなかったぞ!家に帰ってもなにもケアしてねえだろお前!」
「う、だって、帰ったら起きてらんねえし…」
「だったらせめて部活中だけでもなんかしろこのバカ!なんで黙ってたんだよ!」
わけのわからない苛立ちに声を荒げて、エースは消毒液を手に取った。マメを潰し、皮が剥げて血をにじませる広範囲の部分に容赦なく撒き散らし、ガーゼで拭う。ルフィの悲鳴は聞かないことにした。
「い…ッ、っってェェエ!!」
「我慢しろバカ!こんなになるまで黙ってたお前が悪い!!」
荒々しい口調とは対照的な丁寧な手つきで、エースは患部に新しいガーゼを当て、テープで留めた。さらにその上からアンダーラップを折り重ねてクッションにして当て、テーピング用の幅の広いテープで締め付けすぎないように巻いていく。
「……気休めだけど、何にもしねえよりかはこれでマシになると思うから。」
手際よくテーピングを終え、接着を確かめるように上から軽く手のひらで揉むように押さえる。あまりに首尾よく施された処置に、ルフィは目を丸くしてエースを見上げた。
「…すげェ…。なんだ?エースなんでこんなうめえんだ?」
「…―――、おれも散々やったからだよ。お前ほど馬鹿でも無頓着でもなかったから、ここまでひどくしたことはねェけどな。」
「……そっか」
そっか、ともう一度嬉しげに呟いて、ルフィはくすぐったそうに笑った。
全然ほめてねえのにむしろ貶してんのになんでそんな嬉しそうなんだよ、とその円い額を軽く指先でぺし、と叩き、エースは立ち上がった。
「エース」
「…、」
「ありがと!」
思わず足を止めて見下ろした先のルフィは、満面の笑みを浮かべていた。
ルフィの笑顔を見るたびに湧き上がる、むず痒いようなもどかしいような不思議な感覚。少し前まではわけもわからず持て余していたその感情。
その名前を未だ知らないエースは、ただ、もうそれを不快だとは思わなかった。
ごくごく自然に伸ばした手で、ルフィの小さな頭を上から少し手荒に撫で、エースは背を向けた。
その大きな背中をルフィがずっと見つめていたことは、知らない。
******
「…―――っだー、あちー!!」
「溶ける!」
「腹減ったヤバイ餓死する餓死!!」
思い思いに声を上げて、我先にとコンビニに駆け込んだ部員達。
クーラーの効いた店内の涼しさに一息つく間もなく、「安くて量が多い」を基準に選んだ食料をそれぞれ手に取ってレジに我先にと向かう。
コラお姉さんに迷惑かけんじゃねえ、とサンジに小言を言われながら、それぞれが胃に食べ物を入れてやっと騒ぎが収まる。マネージャー二人はまっすぐ家に帰ったので、たむろしているのは7人。
初めは1年生だけだったこの光景にエースとサボが加わったのはごく最近のことだったが、もう誰もそれに違和感を感じることはなくなっていた。
だが、それもしばらく見納めかもしれない、とサボは思った。
明日は調整日。練習は軽く形の確認をするだけで早く上がることが決まっていた。その次の日からは、大会が始まる。
このチームになって初めての、そして人数ギリギリの崖っぷち状態で臨む、公式戦だった。
だが、
(…――みんな、いい顔してんじゃないの)
ひとり外のコンクリートに腰を降ろしていたサボは、人知れず息をついた。何のことはない。実は一番硬くなっていたのは自分かもしれなかった。ゆっくりと、知らず握りしめていた手のひらを開く。
「…ん。」
「…ん、おお、さんきゅ」
言葉少なにサボにアイスを差し出したエースは、そのまま隣に同じように座り込んだ。
二つに分けられるタイプの、コーヒー風味のアイス。エースとサボは、いつもこれを二人で分ける。どちらが金を払うかは、いつもなら練習最後のフリースロー3本勝負の結果次第なのだが、今日はめずらしくエースが何も言わずにレジに進んだ。
彼なりの労りのつもりらしい。お人好しめ、とサボはひとり苦笑した。
「……どうよエース、調子は」
「…悪くねえな。お前は?」
「おれも。なんか思ったより楽しみな自分がいるわ、試合。」
エースは何も言わなかったが、彼も同じ気持ちでいるとサボにはわかった。この新しいチームで。なにより、エースとルフィとが並んで立つ、その同じラインに立てるということ。早く試合がしたかった。早く彼らのプレーが観たかった。彼らとプレーをし、彼らの強さを誇りたかった。
これがおれたちのチームだ。そう見せつけてやりたかった。
「ルフィは、大丈夫そうか。」
「――多分。あの調子じゃ、まだ色々故障抱えてそうだけど、あいつ何にも言わねえし。…明日ガッツリ休ませて、2日間粘ってもらうしかねえ。」
あいつがいなくても勝てる。以前の彼ならそう吐き捨てていただろう。あらゆるものを切り捨て、削ぎ落とし、ひとり孤高の背中で立っていた彼は、もういない。
「…っうお!」
「エースアイスだ!ひとくちくれ!」
「……ッ、お、前は!急にとびかかってくんな!」
「なーエース、途中まで一緒にかえろ!チャリ乗せてくれ」
「あ?自分のはどうしたんだよ」
「今日車!じいちゃんの軽トラに乗ってきた!」
「はあ?また荷台で寝ながら来たのかよ」
「しし、当たりー」
恥ずかしいやつ、と笑いながら、エースは背中にのしかかったルフィを好きなようにさせている。ルフィはルフィでエースの大きな背中がお気に入りで、体重を預けたまま我が物顔でエースのアイスに食らいつく。
お返しにルフィの手に収まったままの大きなコロッケパンに思いっきりかじりつき、一口でけえよ、というルフィの悲鳴を聞きながら、エースはまた笑った。
エースのからからと朗らかな笑い声に、サンジやウソップが口をぽかんと開けているのが見えた。
こいつらいつのまに、とここ数日間何度も思ったセリフを頭の中で呟いて、サボは二人を眺めた。
ボールはどうやら二人をこれ以上なく確かに繋いでくれたらしい。それも、誰一人として思いつかなかったくらい、強く。
だってどうみたってこれは、
「…―――さて、そろそろ帰るわ。こいつ送んなきゃなんねーし。ルフィ行くぞ」
「ん?途中まででいいぞエース?」
「おれはお前を徹底的に休ませるって決めたの。無理やりにでも試合にコンディション合わせさせっかんな」
「なんかコエー!」
「じゃーなサボ」
「あ、おお。また明日な」
「みんなじゃーなー、お疲れー!」
ルフィが荷台にまたがったのを確認すると、エースはガチャン、と音を立てて自転車のストッパーを外し、走り出した。ぐらりとゆれた車体に慌ててルフィがしがみつくのに、バカちゃんとつかまってろ、とぶっきらぼうに言うエースの声が、ゆっくり遠ざかって坂を下って行った。
暗闇に溶けていく白いシャツの背中を見送っていたサボは、じわじわこみ上げる気持ちに逆らわず、小さく笑った。
夏の夜に少しだけ冷えた風が吹き抜ける。
きっと、明日も晴れる。
「……エースー?」
「んー」
「今日、ありがとなー」
「あ?何!?」
「今日!テーピングしてくれて、ありがとー!」
長い長い下り坂。風を切って走る自転車。耳元で唸る空気がうるさくて、ルフィは声を張り上げた。
うるっせー、と声を上げて笑って、エースは背中の体温を意識で追った。
「エースー?」
「なんだよ!」
「あさって!勝とうな!!」
ぎゅ、と腹に回ったルフィの腕に、こころなしか力が入った。
「全部勝とうな!絶対絶対、勝とうな!」
「―――、」
「一試合でも、一分でも、一秒でも、長く!ハンド、しような!!」
エースは、背中をルフィの身体に近づけるように、ほんの少しだけ後ろに重心をかけた。カーブにさしかかる。坂道を下るスピードを緩めて、ほんの少し、後輪にだけブレーキをかける。
背中にぴたりとくっついたルフィが、肩甲骨の辺りに頬を寄せた。
とくん、と少し大きく鳴った鼓動。
聞こえるわけはない。こんなに風を切って走っているのだから。だから、少しくらいコイツに背中を貸してもいいはずだ。
誰にともなく、いや、自分自身に言い訳をして、エースは坂を下った。
なんだか無性に背中のルフィを腕の中に収めてみたくなったのは多分気のせいだし、自転車をかっ飛ばしている今そんなことができるわけもないから、だからエースはブレーキを握る指を外して、もっと大きく唸る風にすべてをごまかして、走った。
なんだか無性に叫び出したい。その衝動の根源の名前を、彼は知らなかった。
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