What's happening?

 今から帰る。と連絡があったのは、二時間ほど前のことだ。突然の吉報に驚きはしたものの、緩む頬が抑えられない。お鍋の蓋がカタカタと音を立て始めたころ、IHコンロのボタンをピッと押す。鍋つかみをはめた手で蓋を開けると、ふんわり立ち昇る湯気と共に、食欲をそそる香りが鼻腔を擽った。よし、と一つ頷き、次の工程へと鼻歌交じりに取り掛かる。誰かのためにする料理は、こんなにも楽しい。

 夫に会えるのは実に三ヶ月ぶりのことだ。定時退社が当たり前である私の職場とは異なり、彼の仕事は休みも不規則で、夜通し作業をするなんて日も少なくはないらしい。何日も続けて徹夜をすることもあると聞いたときは、眩暈がしそうだった。そんな彼と三年間交際し、昨年六月に籍を入れた。ここは夫の名義で借りている家だが、家主は殆ど帰ってこない。彼の帰りを一人待ち続けるための家。たまの休みを、二人で過ごす家。
 籍を入れようと言ってくれたこと、一緒に住もうと言ってくれたこと、それだけで十分に幸せだった。寂しくないと言えば、それは嘘になるけれど。

 食事の支度を終えると、時刻は午後九時を回っていた。腹の虫が音を上げているのを、ソファーに横になることで紛らわせる。彼の帰りを待ち続けるこの時間は、決して苦ではない。どんなに遅くなったって、会える時間が短くたって「帰ってくる」と言った日は、必ず来てくれる。彼はそういうひとだ。一度言ったことは決して曲げない。そういう頑固なところも、彼を好きになった要因の一つだ。
 おもむろにテレビを付け、見たこともないドラマをぼんやりと眺める。これはどうやら、不倫がテーマらしい。巷ではこんなのが流行っているのか。奥さんが夫の居ぬ間に隣人夫婦の夫としけこんでいる。とてつもなく嫌な気分になるドラマだった。こうして健気に夫の帰りを待っている妻もいるというのに。何だか馬鹿にされた気分になり、すぐにチャンネルを変えた。
 



 それから三十分ほど経ったころだろうか。玄関先からごそごそと物音が聞こえてきた。落ちかけていた意識は、鍵が開けられた瞬間を逃してしまったらしい。慌てて飛び起きて、スリッパをバタバタと鳴らしながら玄関先へと向かう。こちらに背を向け、靴を脱ぐ後背が見えた途端、衝動的にその背に飛びついた。

「零くん、おかえりなさい!」

 白のオックスフォードシャツに顔を埋め、甘えるように頬ずりをした。爽やかな香りと彼の体温が心地よく、猫のように目を細めた。指を折り曲げ、大きな背にしがみつく。

「……ああ、ただいま」

 伸びてきた手に腕ごと身体を絡め取られ、抱きしめられた。まるで感動的な出会いを果たした男女の如く玄関先で抱擁し合う姿は、側から見れば少し滑稽かもしれない。それでも、少し涙が滲むほど、幸せな時間だった。蕩けそうな甘い声で名前を呼ばれ、優しく腰を抱かれて、すっかり彼の虜になる。だから、その違和感に気づくのが遅れてしまった。

「……おい、おかえりを言う相手が違うだろう」

 不機嫌さを凝縮し、すごみさえ感じる低音が玄関先で響いた。その矢先、身体を暖かく包み込んでいた体温が勢いよく離れ、思わず前につんのめる。鼻先がごちん、と硬いなにかに当たった。眼前に広がる白いシャツと、深緑のネクタイ。いつものグレースーツを身に纏う、夫がそこに立って居た。じんじんと痛む鼻先を手でおさえ、瞬きを繰り返す。  
 ……ああ。もしかして私は、あのまま眠ってしまったのかもしれない。これはきっと夢の中だ。頭の中を整理したくて、目をごしごしと擦る。しかし、何度見てもその光景は変わらない。ぐら、と目眩がして、意識を持ってかれそうになった。珍しく焦ったような彼の顔が見える。そして次にくるであろう衝撃に、反射的に目を閉じた。

 しかしそれは、いつまでたっても訪れなかった。背後にいる誰かに、身体をしっかりと支えられていた。 

「だから言ったでしょう? あなた方は後で来るべきだと」

 ベルガモットの淡い香りが、鼻腔を華やかに彩った。初めて嗅ぐ匂い。蕩けそうなくらい甘くて魅惑的だ。その瞬間、意識を呼び戻される。正体を確かめたいのに、振り返ることが出来ない。すぐそばで響いた声は、やはり私のよく知るそれで、ますます訳がわからなかった。ばくばくと、心臓が忙しなく動いている。縋るように、グレースーツの彼を見上げた。その目は私の後ろにいる人物を睨むように、薄く細められていた。

「早く離れろ、バーボン」
「辛辣ですね、零。僕がいなければ、彼女は痛い思いをしていましたよ?」

 頭を優しく撫でられて、反射的に首を傾ける。そこにいるのも、やっぱり「夫」だった。無表情で固まるほか、なす術がない。背後に一人、目の前に二人。大好きな顔が三つもある。取り敢えず、皆一様に顔がいいのはわかった。私の名を呼ぶ声も、全部大好きな彼の音だ。大好きが三つもそこにある。これは非常に喜ばし状況だろう。

喜ばしい状況、だろうか?

「零くん、わたし、ばくはつしそう」
「大丈夫だ、お前にもわかるように説明する」



***




「なるほど、分裂しちゃったんだ」
「お前は本当に素直で助かる」

 リビングのソファーに腰をかけた私の前に立つ、三人の男。左から安室さん、零くん、バーボンさんの並びだ。零くんが教えてくれたのは「仕事で三つの顔を使い分けていて、尚且つ、今回それが何らかの拍子に分裂してしまった」ということだった。たったそれだけの説明で納得してしまうのかと言われても、そうせざるを得ないから、仕方がない。仮に、あれこれと理論を交えて説明されたところで、今の私には理解出来ないだろう。そもそも、理解の範疇を超えた現象だ。

「顔は零くんなのに、皆まったく違うひとみたいだね」
「性格も全く違うからね」

 一際糖度の高い声で話すのは、蕩けるような甘い抱擁をしてくれた安室さんだ。お伽話に出てくる王子様のように、柔和な笑みを浮かべている。零くんのベビーフェイスが遺憾なく発揮されているその姿に、すっかり魅了されていた。優しく名を呼ばれるだけで、ほいほいと後をついていってしまうような、小悪魔的な魅力を持つ可愛い人。
 ぽわん、と頬を染めて彼のことを見つめていると「おい」地獄の底から這い出てきたような低い声が、私を咎めた。零くんは先程から物凄く機嫌が悪くて、ずっと刺々しいオーラを放っている。正直言ってめちゃくちゃ怖いし、ロクに目も合わせられない。折角会えたのに、今日は怒られてばかりいる。しょんぼりした気持ちで目線を下げ、膝の上で丸めた手を見つめていると、その手を包み込むように、誰かの手が触れてきた。

「可哀想に、貴女は悪くないですよ」
「バーボン、気軽に触るな」
「零は嫉妬してるだけですから」

 優艶な笑みを携える彼は、バーボンという男らしい。私の大好きなお酒の名前。愛称のようなものと夫は言っていたけれど、彼の雰囲気にとても良く馴染んでいた。香り高くリッチな甘みを含み、ゆったりとした長い余韻に浸らせてくれる、ノブ・クリークのような深みのある男。安室さんとはまた種類の異なる、中性的な魅力があった。彼が放つ凄まじい色気に翻弄されそうになったところで、零くんの手がそれを払いのけた。

「旦那の前で堂々と浮気か」
「ち、ちがう! 零くんこんな顔もするんだって……ドキドキしてたの」
「……まあいい。とにかく、三人でいると目立って仕方がない。少しずつ時間をあけて、ここから出るぞ」
「え、帰っちゃうの?」

 予想外の展開に、不満の声が漏れた。眉を顰めて零くんに詰め寄る。話を聞けば、まだ仕事が残っているため、すぐに戻らないといけないらしい。「あとの二人は」と聞くと、零くんは怒ったように目を細めて、私の両頬を指で摘まみ上げた。

「いいから。お前は自分の心配だけしていろ」
「い、いひゃいれす」

 そうは言っても。夫といちゃいちゃしまくる予定だった私の心は、穏やかではない。二人分のご飯も無駄になってしまう。こんな夜更けに一人で寂しくご飯なんて絶対に嫌だと駄々をこねた。「せめてご飯だけでも食べていってよ」と迫る私に、零くんも流石に悪いと思ったのか、渋々ではあるが頷いてくれた。

「じゃあ、僕が残るからあとの二人は……」

 その声を遮るように、背広のポケットからバイブ音が鳴り響いた。一瞬で、この場の空気が凍りつく。零くんはもはや不機嫌さを隠そうともせず、大きな舌打ちをしてから電話を取った。流石にタイミングが悪すぎて、電話口の相手には同情する。恐らく、催促かなにかの電話だろう。「わかった、すぐに行く」早々に通話を切り上げた零くんの目は、めちゃくちゃに据わっていた。もうこれ以上ないというほど忌々しそうな顔をして、私以外の二人へと声をかけた。

「非常に不服だが、どちらかはここに残れ。但し……言いたいことはわかるな?」
「「勿論」」

 安室さんとバーボンさんは二人揃って、それはにこやかに頷いた。一人置いてけぼり感のある私は、咄嗟に零くんの袖を引っ張る。「どういうこと?」と首を傾げると、彼は私の腕を引っ掴み、再び玄関先へと歩いていった。
リビングに残された二人の様子が気になって、ふいに顔をそちらへ向ける。しかし、すぐに零くんの指に頤を挟まれて、無理やり目線を合わせられた。とても悔しそうで、切なげな顔をしている。心臓をぎゅうと押し潰されそうな心地がした。行きたくない、と目が物語っている。引き止めたい気持ちは山々だが、お仕事ならば、仕方がない。宥めるように目を和らげて、少し乱れてしまっているネクタイと、背広の襟元を整えた。

「寂しいけど、頑張ってね。いってらっしゃい、旦那さま」
「余所見したらお仕置きだからな、奥さん」

 あからさまに嫉妬の炎を燃やす零くんが愛おしくて、思わずくすくすと笑みがこぼれた。去り際の戯れを期待して、強いるように両肩へと腕をかける。わざとらしく上目遣いで顔を窺えば、腰を抱き寄せられ、弄るようなキスを贈られた。熱も、呼吸も、全て奪い取るそれは、とても優しいものとは言えない。息もできなくなるほど深く舌を捻じ込まれ、粘膜を撫で上げ、時折唇を甘噛みされる。えっちで濃厚なそれは「行ってきます」のキスの割に、激しすぎる戯れだった。

「……っ、れ、くん」
「ん、……ほら、もっと」

 くちゅ、くちゅりと漏れる淫らな音が、高い天井に良く響く。二人にも聞こえているのではないかという背徳感が、身体の熱を更に上げていた。私をこんなにしておいて、自分は仕事にいくなんて、旦那様は本当に意地悪だ。飲みきれない唾液が口の端から伝い、首筋へと落ちていく感覚に身震いする。その跡をなぞるように零くんの指先が触れて、名残惜しそうに、唇が離れていった。

「そんなに物欲しそうな顔で見ないで」
「っん、だって」
「戻ったら、死ぬほど愛してあげる」

 前髪をくしゃりと柔く掴まれて、額に触れるだけのキスを落とされる。そんなことを言われたら、私の頭はもっとぐずぐずに蕩けてしまうことを、零くんは知らないのだろうか。激しいキスの余韻でうっとりと惚ける頭を撫でられて、腰からそっと手を離される。あまりにも愛おしくて、寂しくて、涙がでそうになるのを必死で堪えて、背を見送った。「行ってきます」と告げた零くんは扉を開け、こちらを振り返らずに出て行ってしまう。去り際のお前の顔を見たら決心が鈍る、そう言っていた。

「賭けは僕の勝ちですね」
「仕方がない。じゃあ僕はセーフハウスに戻ります」

 募る想いを馳せていた私は、すぐ後ろで二人がそんな会話をしていたことなんて、気にも留めていなかった。零くんが居なくなったこの部屋で、彼等が何を企てていたのかなんて、知る由もなかったのだ。

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