「なんでそんなに怒ってんの」
「怒ってない」
「めっちゃ怒ってんじゃん」
「……うるさい!あっちいって!」
「行かないよ。なまえがなんで怒ってんのか知りたいから」

 同棲中の恋人、木兎光太郎は真っ直ぐすぎて時々面倒くさいと思うことがある。女心の複雑さというものをまるで理解していないし、自分が正しいと思ったことは絶対に曲げない男だ。高校のときからずっとそう。それで良く喧嘩をした。喧嘩といっても、私が一方的に怒っているのが殆どだ。木兎は余程のことがない限り、私に怒ったりなんかしない。

 木兎は私が「怒っている」というが、それは本当に違う。ただ不機嫌なだけだ。理由もめちゃくちゃしょーもないこと。だから言いたくない。それだけなのに、絶対逃がさないとばかりに行手を阻んでくる。手首を掴んでベッドに座らされ、木兎はベッドの下に膝をついて、私の顔を下から覗き込んでいた。

「言ってよ、なまえ」
「……いやだ」
「一生のお願い」

 一生のお願いは昨日も使っただろう、と言ってやりたかったが、木兎があまりに情けない顔をしているので、ぐっと言葉を押し込めた。私はこの顔にめちゃくちゃ弱い。どう言えば木兎が納得するかを考えて、今日一日あったことを思い返した。




 今日の午後一時。市内の某体育館にて、木兎が所属するチーム、ムスビイブラックジャッカルのファン感謝祭イベントが行われた。文字通りファンと触れ合う機会の多いイベントで、もともとサービス精神旺盛な木兎は当然ファンからの人気も高く、それに加えて熱烈なのがとくに多い印象だった。失礼な話だが、宮くんみたいにミーハーっぽいファンの子が多いだけなら、そこまでは気にならなかったと思う。
 しかし、木兎のファンは明らかに"ガチ"っぽいのが何人かいる。そういう視線や態度に過敏な私は、ファン感というイベント自体がめちゃくちゃ嫌いだった。嫌いだったら行かなければ良いだけの話なのだが、木兎は私が試合やイベントに顔を出さなきゃすぐに拗ねる。昨日もその件で相当言い合った。結局、「一生のお願い」を施行した木兎に最後は私が折れてしまったのだけれど、今回はやはり行かないのが正解だったと思う。

 バレーを愛するひと。チームを応援してくれるファン。みんなが楽しいはずのイベントなのに、私だけが嫉妬に塗れて可笑しくなりそうだった。全然、何も、一秒たりとも楽しくない。木兎がかっこいいプレーをするたび、会場を沸かせるようなことを言うたび、ファンの黄色い歓声に苛立ってしまう。もちろん口には出さなかったけど、一緒に行った友人は私のヒリついた空気を感じ取っていただろう。折角のイベントなのに、彼女には本当に申し訳無いことをしたと思う。
 別に、木兎自身にムカついてるわけじゃない。人気があるのは良いことだし、木兎は何か下心があってそういうことをする人間じゃない。ちゃんとわかっている癖に、どうしようもないのに、勝手に嫉妬して不機嫌になっている自分への嫌悪感でいっぱいなのだ。

 だからこそ、今はほっといて欲しい。ただそれだけのことだ。

「……やっぱりいいたくない。ほっといて」
「だからほっとけねーって言ってんの」
「っ、あのね! 私は今ちょーぜつめんどくさい女なの! だからほっとくのがいちばんいいの!」
「なまえのこと面倒くさいなんて思うはずないじゃん」

 言われた瞬間。心の中でぶわ、と何かが満ちていく感覚があった。木兎が、当たり前みたいな顔でそんなことを言ってきたので、私はぐ、と言葉に詰まる。
 ……やだやだなんなのこの男。めっちゃ恥ずかしいこと言う。女心わかんない癖に女をときめかせる天才じゃん。そのたった一言で、一気に感情が昂っていく。

「……っ、なんかはらたつ!もーやだ!」

 投げやりに叫んだ途端。ぼろ、と涙が溢れた。木兎がぎょっとした顔で、肩をがしりと掴んでくる。めちゃくちゃ痛い。

「えっ、ごめん!泣くな!」
「もーほんとやだ、木兎のバカちん!」
「バカちん?!俺がか?!」
「そんな、優しく、しないでっ」

 わけのわからない感情だ。木兎のことを愛おしく思う気持ちが爆発して、抑えられなくて、なんかムカついてる。
 突然泣き出した私にも、木兎は決してめんどくさがらずに付き合ってくれる。むしろ心配でしょうがないみたいな顔をして、ぽんぽんと頭を撫でてくる。根っからの末っ子の体質の癖に、私の前ではこんなにも凄まじい彼氏力を発揮してくるのだ。ときめきと苛立ちで頭が狂う。
 頭突きする勢いで木兎の胸に頭を寄せても、そんな衝撃にはビクともせず、優しく抱きしめてくれた。木兎のTシャツに黒い染みが広がっていく。背中をぽんぽんとあやされるたびに、ひっくひっくとしゃくり上げてしまう。優しくしないでと言った癖に、優しくされたら安心してもっと泣いてしまう。

 こんなどうしようもない女に、木兎みたいなひとは勿体ない。でも、誰にも渡したくなんかない。

「よーしよし。泣くな。まじで何があったん!」
「…………木兎が!可愛い子に!言い寄られてた」
「ん? え、それっていつの話」
「今日じゃん!ファン感で!握手会のときにいつも見る子!」
「んー?んー……うーん………うん?」

 まるで心当たりがありません。
 まさにそんな顔をしていた。口をツンと尖らせて上を向いて、必死に考え込んでいる。そんな木兎のアホ面を眺めていたら、涙も一気に引っ込んでしまった。

「……ほんとにわかんないの」
「うーん、女の子いっぱいだったし!……あ、でもなまえがどこ座ってるかはすぐわかった!さすが俺!!」

 ガハハと明るく笑う木兎に、たちまち毒気を抜かれていく。──本当に、こんな些細なことでいちいち頭を悩ませていることが馬鹿らしく思えてきて、はぁ、と大きくため息をつく。
もう、良い。この話は終わりにしよう。そう思って木兎から離れようとしたら、あっ!と何か閃いたように木兎の目が数回瞬いた。

「……てかさ!それって嫉妬?なまえファンの子に嫉妬しちゃったの?」

 ぴき、と頭の中で音が鳴った。
 今更何を気づいてるんだ、この男は。そこはもうスルーして良いところなのに、折角終わろうとしたのに、またタイミング悪く掘り返してくる。
 木兎が二ンマリと口元を弛ませた。良くないことを言い出そうとするお口の形だ。

「なにそれ!めっちゃかわいーじゃん」
「………うるっさい!木兎のバカ!私がいるくせにモテるな!」
「うん! 俺にはなまえっつーちょーぜつ可愛い彼女がいるからさ。モテても全然嬉しくないよ」
「それは絶対嘘」
「え?! 急に真顔になんのやめて!」

 女の子からの黄色い歓声にあれだけ心を躍らせていた男がいうセリフではない。木兎は高校の頃からずっとそうだ。可愛い子がいたらテンションが上がる。声援がなかったらテンションが下がる。マネージャーも部員も木兎の扱いにはめちゃくちゃ苦労していたと聞く。
 今にして思えば、私は当時からずっと面白くなかったんだ。木兎光太郎という男を独り占め出来ないことが。木兎光太郎の彼女という立ち位置に居ながらも、延々と付き纏う不安感を木兎本人に拭ってもらえなかったことが。私一人では、木兎の心を動かすことなんて、出来はしないことが。

 それでも、私が木兎の一番になりたい。一番じゃなきゃ嫌だ。木兎を好きになった日から、今でさえ、ずっとそうなりたいと願い続けている。

「……ねえ、光太郎」

 離れようとした身体を再び擦り寄せて、太い首に両腕を絡めた。元より、男に媚びるなんて柄じゃない。木兎を名前で呼ぶことだってめったにしない。だって今更恥ずかしいから。
 それでも、高校生の時よりはずっと、自分の心に素直になれている。

「私のことが一番好きだって言って」

 素直な言葉をいう時、いつも顔は見れなかった。逃げるように木兎の胸に顔を埋めて、次の行動は全部彼に託す。どく、どくと心臓の音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じていく。
 待つことしかできない、狡い女だ。それでも、どうしても木兎からの言葉が欲しい。木兎はそれに応えてくれると知っているから、どうしたって甘えてしまう。やっぱり、木兎以上に、私の方が百倍面倒臭い。

 木兎がふ、と息を漏らしたのがわかった。笑ったんだ。それから耳のすぐそばで、やさしい声が響く。

「なまえのことが世界で一番好き。他の女の子なんて目に入らないくらい、めちゃくちゃに愛してる」

 裏表なんか一切ない笑みで、百点以上の言葉を紡ぐ。心臓が焼き切れそうになるほど熱くなって、ここからまた一段深く、木兎光太郎という男に溺れていく。
 もうずっとずっと前から、誰よりも強い輝きを放つひとだ。彼に魅了される人間は少なくない。そんなひとを、私如きが独り占めしようなんて烏滸がましい。

 でも、そうやって不貞腐れるたび、木兎は私を抱きしめてくれた。たった一つしかないその身体で、全身全霊をかけて私を愛していると伝えてくれた。その瞬間だけは、別に自惚れたっていいだろう。

「なまえ。ほかになんかして欲しいことある?」
「…………ちゅーしたい」
「じゃあちゅーしたあと、エッチしてもいい?」
「……うん」

 言ったそばからキスをして、二人で後ろのベッドに雪崩れ込む。お遊びみたいなキスから始まって、深く貪り合うそれに変わってゆく。
元気の塊みたいな木兎が、ベッドの上ではこんなにも優しく愛を囁くことなんて、きっと誰も想像しないんだろう。

 それはこの先私だけが知っていることで、他の誰も、知らなくて良いことだ。


あなたのキスで怪物は眠る

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