千手とうちはが手を取り合い、協定を結んだ。それは実質、彼等が忍界の覇権を握ったことに等しい。千手とうちは双方の手により、忍の世界は大きく変わってゆくのだろう。
 戦に敗れたうちはの頭領に手を差し伸べた、千手の若き当主。千手柱間という男を、多くの者たちが絶賛し、崇め奉る。人々は争いに疲れていた。恨みが恨みを、復讐が復讐を生む。そんな世界にはうんざりしていた。残された一族を守るため、まだ見ぬ子孫たちへの希望を繋げるため、忍一族の多くは争いの刃を折ることを選んだ。



 みょうじ家は、医療忍術に優れた者たちが揃う小さな一族だ。この時代、医療忍術を扱える忍はどこの戦場においても重宝される。その類稀なる力を買われ、みょうじ一族はうちはと同盟を結んでいた。
 なまえは一族の当主である兄を持ち、兄とともに戦場に置かれて、傷ついたうちはの忍の治療にあたっていた。
 兄はおおらかで心優しい男であった。己の一族のみならず、戦場において多くの命が散りゆく姿にいつも心を痛めていた。時にはうちはと敵対する一族の子どもの命を救い、裏切り者の烙印を押され、命を落としかけたこともある。なまえは何もかもを投げ出す勢いで、うちはの頭領に必死に許しを乞うた。自分の命に誓って今後はうちはの勝利のために尽くすと。地に額を擦り付けて、血が滲むほど唇を噛み締めて。みょうじ一族を戦の道具としか思っていない非情な男に対して、献身の限りを尽くした。それ程までに、なまえは兄のことを愛していた。なまえには、兄しかいなかった。


 しかし、そんななまえの想いを無にするような出来事が起きた。兄はうちはの忍に医療を施している最中、千手一族の者に刃を向けられた。消えゆくひとの命を助けることに、何の罪もないだろう。兄は必死に説いたが、結局その声は届かなかった。
 愛の千手一族と呼ばれる者たちを、兄は最後まで信じていたのだ。己が刃を向けさえしなければ、情に深い千手が自分の命をとることはないと。無論、うちはを見捨てることも出来なかった。また自分が問題を起こせば、今度はなまえの命も脅かされる。弱き一族は、強き一族の足下に埋もれ、踏み台にされるしか生きる道はない。所詮、千手やうちはが愛するのは同族のみ。無抵抗の兄を殺した、悪の一族。なまえは兄を殺した千手を、うちはを憎んだ。自分たちの一族を巻き込んで身勝手な争いを続けたくせに、敗れたうちはに手を差し伸べた千手の当主が、憎くてたまらない。どうして兄は死んだ。己を守る刃さえ持たなかった兄が、殺されなければならなかったのか。どうして兄には、手を差し伸べてくれなかったのか。




 なまえは時が来るのを待った。ずっとずっと待ち続けて、忍び耐えた。みょうじ一族の医療忍術は、これからの世に必要とされる価値があるものだ。兄に代わり一族の長となったなまえに声がかかるのは必至だった。残された一族も、千手に下ることを望んだ。なまえは腹の奥底で幾重にも重なったどす黒い憎悪に蓋をして、千手家当主の弟である扉間さえも欺いてみせた。なまえの思慮深さと医学に造詣が深いところを大層気に入ったようで、もともと兄以外に身寄りのなかったなまえは、千手の屋敷に医療忍術の指南番として迎えられた。
 千手一族には教養の深い者が大変に多く、他族の長であるなまえからの教えを何の抵抗もなく学び役立てた。ある日、指南書を作ってはどうかと扉間に提案されることがあり、なまえはその時、自分が迷いを抱え始めていることに気がついた。後の世に知識を残すこと、それには概ね賛成だ。教え子たちはみな勤勉で優秀な者ばかり。みょうじの名を以って指南書を残すことも、一族の名誉たることだ。
 作成にあたっては、当主である柱間も身以って協力をしたいという話もある。医学を学ぶ者にとっても、忍とっても、柱間の肉体は宝の山だ。印を結ばずとも超人的な回復力を持つという千手柱間。その身体を、徹底的に調べ上げることが出来る。なまえにとっては絶好のチャンスでもあった。
 しかし、あの男は存外鋭いところがある。なまえが暗い気持ちで柱間を見ていると、必ずその視線に気づくのだ。信頼を得るべく立ち回る一方で、深く関わりすぎて余計な情が生まれてしまうことを恐れている。なまえにとって柱間は、扉間以上に感情の読みにくい男だった。単純なようでいて、実に根深い。
 それに、柱間を見ていると、どうしようもなく心の奥が痛む。なまえが指南番の地位に立てたのは、柱間の口添えがあったからに他ならない。長年敵対していた一族に飼われていた女が、千手家のしかも当主の屋敷に身を置くなど、簡単なことでは済まされない。
 なまえは、自分が柱間の手厚い保護のもとで、ぬくぬくと生かされていることを知っていた。何不自由なく、誰より安全な場所で。兄を殺した、一族の中で。どうしてわたしは。



***




「お前がここにきて、もう二年になるか」

 虫の音さえ聞こえぬ静かな秋の宵。暗空を見上げる男の瞳に、銀色の月が宿る。乾いた空気が肌を撫で付けて、なまえは襟元をわずかに寄せる。粋な柄が描かれた盃を片手に、柱間は懐かしむように口を開いた。
 縁側で胡座をかき頬を緩ませる柱間とは対照的に、なまえは背を正したまま脚を崩さず、口元は固く引き結んだままである。差し出された盃には一切手を触れず、両の手は膝の上に重ねている。
 

「わたしに何か御用ですか、柱間殿」


 なまえは苛立ちを隠さなかった。柱間が何のために自分を呼びつけたのか、わからぬほど馬鹿ではない。研ぎ澄まされた刃のように冷えた視線を携えて、なまえは柱間の横顔を見た。


「相変わらず冷たい奴ぞ。俺はお前と酒を、」
「その酒に、毒を仕込んだのはわたしですが」


 柱間の声に被せて、なまえは吐き捨てるように言った。事もなく毒杯をあおる男の視線が、なまえの虚な瞳を射抜く。──ひと目その姿を見て、悟った。この男は、最初から何もかも、わかっていた。なまえの腹に膨れ上がったおぞましい憎悪も、その浅はかな企みも。初めから全てわかった上で、その懐に招き入れた。
 躊躇なく己の罪を自白したなまえに、柱間は少しの間押し黙った。毒杯を片手に、空に浮かぶ月を仰ぐ。その男の余裕が、なまえにはいっそ腹立たしかった。この男が本気を出せば、否、そんなもの出さなくとも、なまえの命などこの場ですぐに奪うことが出来るだろう。部屋の外に控えているであろう扉間も、気配を消したまま一向に動こうとしない。


 企てが破綻した要因は、なまえがこの男の真意を、はらわたを、最後まで見抜くことが出来なかったからだ。


「お前の兄のことを償いたいと、俺は今でも思っている」


 柱間がそれを口にした瞬間、燃えるような熱が心臓へ向かう。頭に白い閃光がはしる。床に置かれた盃を素足で踏み割り、柱間の胸倉を掴み上げた。飲み干した盃を庭へ投げた柱間が、そんな力では倒せぬとばかりに、冷静な瞳でなまえを見つめる。

「……よくも、っ……そんな、ことが」

 呼吸が荒れて、喉が痺れて、声すらまともに出すことが出来ない。割れた盃で傷ついた足裏の痛みも感じないほど、胸が苦しくてたまらない。この怒りは、激情は、哀しみは、どこに吐き出したら楽になれるのか。この二年間、なまえはそれを探し続けた。


 兄を殺した千手を恨んでいた。なまえは復讐のために生きることを誓った。兄のいなくなった世界の中で生にしがみつく理由が、それ以外には見つからなかったからだ。
 そんななまえに、柱間は居場所を与えようとした。この男の保護の元で生きていると実感するたびに、なまえは兄のことを思い出した。敵味方問わず、生きとし生けるもの全てに慈しみをもつ。そんな兄に、柱間はよく似た男だった。復讐相手に兄の面影を重ねるなど、あって良いものか。なまえはそんな己に絶望し、もがき苦しんでいた。
 復讐でしか流せない痛みを抱いて生きていくには、この場所は優しすぎる。


 毒杯を飲んで、自分も死ぬつもりだった。柱間の身体を知り尽くしたなまえが煎じた毒は、常人には触れただけでも命に関わるような代物であった。あの柱間であっても、殺すには申し分ないほどの。しかし、既にこの毒には抗体が作られていた。なまえが柱間のことを知り尽くした分、また、柱間もなまえのことを知っていた。何もかも知って、その腹の中を暴いて見せた。なまえがこの部屋に呼びつけられて、その酒瓶を手に盃をあおる柱間を目にした瞬間、もう、認めざるを得なかった。

「なまえ。俺を恨んだままで良い。だが、死ぬことは許さん」

 柱間が語りかけてくる全てが、なまえの激情をあおった。柱間がいくら言葉を尽くそうと、なまえの何も救われない。その懐の深さを見せつけられるたび、なまえは地獄を感じた。哀れで愚かな自分を、毒を盛られ殺されかけても尚、ぬるま湯へ導こうとする。それでも、柱間が生きている限り、なまえはこの苦しみを忘れることが出来ない。

「……どうして、あのとき……あなたが、いてくれたら」

 どうしたって報われない。なまえはついにその手を緩めてしまった。あの日、あの場所にもし柱間がいてくれたのなら、兄は死なずに済んだかもしれない。己を殺めようとする人間の心さえ暴いてみせて、傷んだ場所に触れて、癒そうとする。優れた医療忍術でも治すことが出来ない脆い心を、優しい手のひらで包み込んでくれる。そんなあなたが、いてくれたのなら。

「憎いの、あなたのことが、死ぬほど」

 柱間の襟元を掴み、硬い胸板に額を押し付けた。泣き濡れた顔を見られぬように情けなく縋り、憎い、憎いと呪詛の言葉を吐く。毒を帯びた柱間の身体は、ひどい熱をもっていた。恵まれた男の身体は、なまえの命の証である毒を、その身に取り込んでいく。

「俺が死ぬまで、その心が報われぬのなら」

 夜の空気に冷えた身体を、抱き寄せる手があった。耳元で触れる熱い吐息が、なまえの身体を蝕んでゆく。どくん、どくん、どくん。柱間の心臓の鼓動が、すぐそこにある。この命に、私は。

「俺の命が尽きるその日まで、俺のそばにいれば良い」


ならば溺れてしまえ

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