社会人になってからというもの、季節の巡りが一層早く感じるのは何故なのだろう。憂鬱な月曜日がやってきたかと思えば、あっという間に華の金曜日がやってくる。そんな日々を過ごしてきて約七年。私もいよいよ節目の年だ。

 なみなみと注がれていく黄金色の液体をぼんやりと眺めながら、あと一ヶ月もすれば年越しか、なんてふと思う。外に飲みに出てきたのは久しぶりだというのに、同じ会社の同期ふたりは以前と変わらずのハイペースでビールをぐびぐびあおっている。あっという間に空になったピッチャーを置き、威勢の良い声を上げ、二人はジョッキグラスを鳴り合わせる。いったい何度目の乾杯だろうか。

「あー何度飲んでもビール最高」
「あー……ハイ。そーだねー」
「の、割に!なまえさっきから全然進んでないし。これもう泡ないじゃん」
「今日はほどほどにするってさっきも言ったでしょ。このあと彼氏と約束あるし。てかまーた私のグラスに注いでるし」
「もう!久々の飲みなのに!彼氏に負けた!」
「なまえちゃんは今の彼氏様にぞっこんだからねー。しかも年下のイケメンなんでしょ?アンタそんなんどーやって捕まえたの」
「だーかーらー、高校んときの部活の後輩だってば。てかこの話さっきもしたじゃん」
「そだっけ?」

 すっとぼけたことを言う友人の脇腹を肘で小突く。同じ話を何度も繰り返すのは、酔っ払いの特徴のひとつである。
 ジョッキを持ったまま溜め息をつく私の手を、前に座る友人がするりと絡めとる。右手の薬指に光るソレを、なにやらご機嫌そうに眺めている。

「これこの前の誕生日にもらったんでしょ? もうそれ確定急所じゃん」
「確定急所ってなに」
「アンタを一発で仕留めてやるっていう隠喩」
「いやなにそれ怖」
「だからつまり未来の旦那様ってわけでしょ。いいなーあたしも指輪欲しいーイケメンに仕留められたーい」
「……いや、さすがにそこまで考えてないと思うけど」

 右手の薬指で眩い光を放つそれは、もうすっかり肌に馴染んでいる。初めて会社に付けていったとき、これでもかというほど視線を浴びた代物だ。別にギラギラのダイヤがくっついているわけでもあるまいし、何がそんなに気になるのだろうと思っていると「あのみょうじさんにいよいよ特定の男が出来たってすごいウワサだよ」と同僚が教えてくれた。特定の男ってなんだ。まるで私が遊び歩いてたみたいじゃん。そう言ったら「いやそうじゃん」と真顔で返された。さすがに弁解させて頂くと、別に遊び歩いていたわけではなく、今まで彼氏にしたい男がそばに居なかっただけだ。

「あんたのこと狙ってた営業課の男いたじゃん。その指輪見てめっちゃ愚痴ってたらしいよ」
「え?なにそれ。意味わかんない」
「めっちゃアピールしてたでしょ。口説かれたりしなかったの?」
「したけど。でも正直ウザかった。あの子年下のくせに態度めっちゃデカいんだもん。営業は事務職の女の子基本舐めてるし」
「うわー言うねー。さすがなまえ様」
「てか興味ない男に口説かれたって嬉しくなくない? それに私はもう鉄朗くん一筋なので。愚痴られたって知らん」
「わーでた鉄朗くん!」
「まあなまえのいう通り確かに営業課の人たちってアレだよね。あたしこないだもさー」

 その話を機に、二人の話題が会社の愚痴へと切り替わる。適当に相槌を打ちながらも、私の頭の中は今しがた話題に上った鉄朗くんのことでいっぱいだった。彼女たちに比べてお酒にそこまで強くない私の身体は、アルコールを入れた時に起こる特有の倦怠感に見舞われている。こういう時は、誰かに甘えたくて仕方がない。すっかり温くなったビールにちびちびと口を付けながら、手元のスマートフォンに触れる。画面がパッと明るくなると、ちょうど今から十分前にラインの通知が来ていた。

「……あ、マジか」
「ん?なに」
「鉄朗くん早上がりになったって。いま何してるか聞かれてる」
「っ呼べ!!!!いまここに!!!」
「ちょ、うるさ!……いや、でもさすがにそれは」
「いいじゃん!1時間だけ!わたしイケメン彼氏拝みたい!」
「二人ともなんでそんなに必死なの……」

 二人はギラギラと目を輝かせていた。めちゃくちゃ期待されている。まあ、元からあと二時間くらいはこの二人に付き合う予定だったので、さっさと彼氏の所に行くのも確かに気が引ける。彼ならきっと、元々決めていた待ち合わせの時間まで二人と居てくれて構わないと言うだろうけど、私だってどうせ会えるなら早く会いたい。
 だからまあ、ここは二人の提案に乗ることにした。「この店。いま友達といるけど来る?」と位置情報を送る。それを見せると、二人がえらいえらいと頭を撫でくり回してきた。酔っ払いヤバい。彼がオーケーするかは微妙なところだが、まあ──彼ならおそらく。「いいの?二十分くらいで着くと思う」……断らないだろうな、と思った瞬間に通知が来た。迷う間もなく返事をくれたっぽい。

「鉄朗くん来るってさ」
「ヤバ最高。そのフットワークの軽さがもうイケメン」
「え、やば、待って!あたし化粧直してくる!」
「は?!わたしもいく!」

 揃って小さなバックを小脇に抱えた彼女たちは、慌てて席を外した。いや、正直私が一番直したいけど。まあ、今日は特別な日なのでいつもより化粧も髪もバッチリ丁寧にやってきたし、多分二人よりもなんとかなる。手鏡で口紅を塗り直して、ぷしゅ、と顔にミストだけ吹いておく。
 テーブルの上の空皿を纏め、とりあえずグラスに残ったビールを飲み干す。手を上げて高い声で近くの店員を呼び、もう一人来ることになりそうだと告げる。今より騒がしくなったらごめんなさい、と先に謝っておくと、若い男の子の店員は「その分ジャンジャン飲んでくださいねー」と景気良く笑った。可愛くてチップでもくれてやりたくなったが、お生憎様、ここはそういうお店ではない。



***





「噂の香織さんと美波さん」
「「噂の鉄朗くん」」

 初めまして〜と和やかなムードで互いに挨拶をかわす三人を横目に、私は鉄朗くんから預かったジャケットをハンガーに掛けていた。さっきの店員くんが気を利かせて半個室の座敷にテーブルを移してくれたので、また一から仕切り直しという感じである。「鉄朗くんはビール?」「あ、そっすね。皆さんはもう結構飲んだんですか?」「ぜんぜん!まだ始まったばかりだったし!」「それじゃあとりあえずみんなビールで乾杯しよ〜!」「あ、んじゃ俺店員さん呼びますね」なんて会話が聞こえてくる。つい三十分ほど前にピッチャーでガンガンビールを飲んでいた人たちとは思えないセリフだ。テンションだだ上がりの姦しい二人にも、鉄朗くんは全く怯むことなくむしろ一瞬でこの空間に溶け込んでいる。さすがというか、なんというか。

「……ごめんね鉄朗くん。二人がどうしても呼んでほしいって」
「いやいや。むしろ俺も二人にはお会いしておきたかったし」
「やーん嬉しい。なまえのことならなんでも聞いて? この子入社当時から色んな伝説あるから」
「は? ちょっと香織!」
「へぇーそれすげぇ気になる」
「でもそのかわり、二人の馴れ初め聞きたいな」
「あー。高校んときのなまえさんも色んな伝説ありますよ」
「っ、鉄朗くん!」

 始まって早々、からかいムード全開だ。この場合、三人の共通の話題が「私」という存在しかないのが一番の問題である。ただ、友人二人の興味は絶対、鉄朗くん自身に向くと思っていた。だから油断していた。まさか本人を前にしてひよったのだろうか。心なしか声のトーンも抑えられているし、運ばれてきたビールジョッキも両手で持ったりしてちまちまと飲んでいる。まるでさっきとは別人のようだ。人の彼氏相手にも猫を被るとは、まあ、ブレない二人である。

「部活の先輩と後輩なんだよね?めっちゃ青春って感じ〜羨ましい〜」
「俺、高校の時バレーやってて。なまえさんがマネージャーで。まあなまえさんは所謂"マドンナ"ってヤツでね。俺はその時からかな〜り頑張ってたんですけど、実は一回フラれてたり」
「は?!それ初耳!」
「なまえどゆこと?!」
「実はそれ俺も聞きたいんすよね。あの時何でフラれたのか」

 三人の視線が一気に私に集まった。いきなりそんな話題からスタートするなんて、虐めっこに囲まれた気分だ。何で友人の前で、彼氏を昔振った理由を話さなきゃならないのか。私は思いっきり眉を顰めて、横でニヤニヤしながら頬杖をつく鉄朗くんの背をべしん、と軽く一発叩く。たったそれだけで「いちゃつくな〜!」と前の二人から野次が飛んできた。……私はもう既に、鉄朗くんをこの場に呼んでしまったことを後悔し始めている。

「……いや別に、その時はただ年下に興味なかっただけ」
「え、その時っていうか今もだよね? なまえ後輩くんたちに基本冷たいし」
「え、そうなんすか」
「うん。でも逆にそのクールなのが良いって子もいたりする」
「でもこの指輪が牽制してくれてるおかげで、この前も一人の後輩くんの恋が儚く散りました」
「………へぇ、そりゃ良かった」

 酔っている二人は何でも見境なくペラペラと喋るので、私はぎょっとした。聞いていてあまり気分の良い話ではないだろうに、鉄朗君はなぜか満足気に口元を緩めている。

「なまえさんって、やっぱモテるんすね」
「モテるというか、変なのに懐かれやすい?」
「なまえはしっかりしてる割に隙があるからね」
「「あ〜〜」」

 美波の言葉に、鉄朗くんと香織が声を揃えて頷く。
 あっという間に三人は意気投合して、私の話題で勝手に盛り上がっている。不愉快とまでは言わないが、割と気まずい。大して好きでもないビールがぐいぐいと進む。三人の会話に口を出せないのは、私自身が鉄朗くんの前であまりボロを出したくないからだ。何しろゾッコンなもので。

「だから早くなまえのこと仕留めてあげてね」
「ブッ!仕留めるって、なかなか物騒すね」
「確定急所だから。なまえは鉄朗くんにゾッコンだしヨユーヨユー」
「あー親友のお二人に言われたら心強い」
「あ、じゃあ指輪はやっぱりそのつもりで?」

 ……今、席を立っても良いだろうか。
 気になるけど、聞きたくない気もする。香織はしてやったりな顔でニマニマと私を見つめてくるし、美波は鼻息荒く鉄朗くんの言葉を待っている。私じゃ聞けないようなことも二人はずけずけと聞いちゃうし、鉄朗くんはいつもよりご機嫌に見えるし。心臓はドクドクと期待したように動くから、なんだか全部ちぐはぐだ。真上の照明に照らされて、指輪がキラキラと瞬いている。これを贈ってくれた意味、聞けるのかも。


「ま、年内には仕留めるつもりです」


 ──ゲホ!とうっかり咽せた。まさかそんなに具体的な答えが出てくるとは思わず、頭の中が一気にこんがらがる。年内に、仕留める、とは? まさにこれが確定急所というやつか。期待していた心臓が、一気に破裂した。ほんとに死ぬかと思った。身体中にぐんぐんと熱が上る。鉄朗くんから、思わぬサプライズをくらってしまった。本来、それをされるべき側の人から。

「あーあー大丈夫?服濡れてない?」
「っ、だいじょぶ、だけどっ」
「つーかなまえさんはちょっと飲み過ぎ。この後のこと忘れてないよな?」
「えー!なに!この後なに?!なにすんの?」
「……美波、うるさい」
「あー……俺、実はきょう誕生日なんすよね」

 鉄朗くんの言葉に、「えー!」と二人が揃って声を上げた。そういえば二人には言ってなかったな、と今更思い出す。とびきりのおめかしも、丁寧に施したお化粧も、すべて今日この日を祝うために準備したものだ。私の家には鉄朗くんへのプレゼントがスタンバイしている。明日は二人ともお休みなので、デートのプランもディナーの予約もバッチリしてある。

 そう。だから、私が鉄朗くんを驚かせたかったのに、先手を食らってしまった。右手の薬指にあるそれが、いつもよりずっとキラキラ輝いて見える。もしかしたら、私、泣きそうなのかもしれない。

「「おめ、」」
「あ!ちょっとストップ」

 しぃ、と指を立てて口元に寄せるジェスチャーをして、鉄朗くんは慌てたように二人に制止をかけた。

「……あ、すんません。なまえさんに一番に祝ってもらいたくて」

 二人には見えない位置で、ぎゅ、と腰に手が回る。びく! と肩を揺らしてしまったので、結局ふたりにはバレたかもしれない。女は鋭い生き物だ。香織も美波も、これ以上ないってくらいニヤけた顔をしている。私だってニヤけたい。でも、それ以上に、込み上げてくる想いが感情を強く揺さぶっていた。


「お二人は俺が無事になまえさんを仕留められたら、またそのセリフ言って下さい」


 きゃあ、と二人が揃って口元に手のひらを当てた。そしてとうとう、私は泣いてしまった。


11月17日

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