君の心に巣食う悪魔になりたい


 高い天井と飾り気のない純白の寝具。一瞬、自分はどこにいるのだろうと焦った。
 ふわふわと揺蕩う意識の中で少しずつ、昨晩の出来事が流れていった。はっきりと思い出すことが出来て、恥ずかしくなって、どんどん血の気が引いていく。

 私は何を言った。私は何をした。一体ここで、何時間過ごしていた。余韻が抜け切った頭で冷静に考えて、絶望した。だだっ広いキングサイズのベッドの上で、一人座り込んでいた。下半身に、独特の倦怠感がある。着た覚えもないのに、バスローブを身に纏っている。
 ……彼の姿は見えないが、これは夢なんかじゃない。ベッド横にあるナイトテーブルに、綺麗に畳まれた服と、自分の鞄があった。下着は一番上に見えるように乗せられていて、とても恥ずかしかった。あんなセックスまでしたくせに、下着を見られるのは嫌なんだ。そうやって笑う彼の表情が脳裏に映って、また情けない気持ちになる。世話焼きなところも変わってない。彼と恋人だった時のことが、昨日のことのように思い起こされた。思い出すと辛くなるだけなのに。頭が勝手に、彼の顔を思い描いてしまう。
 気怠い腰を持ち上げて手を伸ばし、鞄の持ち手を引きずるようにベッドの上に寄せた。サイドポケットに入れたままのスマートフォンを取り出して、ラインの通知を確認する。

 まあ大方、予想通り。昨日途中で別れた友人は良いとして、彼氏からの連絡が数件きていた。着信も入っている。心配性な人だから、今すぐ連絡しないと、家や友人に連絡がいくかもしれない。それだけはどうしても避けたかった。充電が残り数パーセントしかないことに気がついて、余計に慌てた。
 不在着信の画面から彼氏の名前をタップしようとして、ふと、手が止まった。綺麗に整えられた身体とベッドシーツに、つい、惑わされそうになっていた。

 昨夜ここで昔の恋人と、淫らなことをした。酔っていたなんて言い訳は通用しないくらい、記憶は鮮明に残っている。浮気をした。恋人を裏切った。人として、やってはならないことをした。そんな場所で、こんな気持ちで、恋人に電話なんて、余りにも残酷だ。
 時刻は朝九時を回ったところだ。一般的に考えて、チェックアウトまでは恐らくあと一時間弱ある。身支度を済ませて、できるだけ早く、ここからでよう。こんな非日常的空間にいては、冷静な判断などできるはずがない。

 一夜の過ち。一夜の夢だ。明日からはまた、いつもの日常に戻れる。降谷零にとって私は、都合の良い相手だったに過ぎない。たまたま仕事帰りに、昔の恋人を見つけた。こんなに広い部屋で一人休むのが寂しかったのだろう。寒い日の夜だ。人肌だって、恋しくもなる。
 私もそうだ。キラキラと煌めく夜の中に融ける、青灰の優しい瞳に、夢心地に浸された。彼の体温に溶かされて、荒んだ心を癒したかった。きっと、それだけの関係で終わるはず。

「連絡、しなくていいのか」

 ガチャ、と扉の閉まる音がした。開けられた時は、音に全く気がつかなかった。

「お前がシャワー浴びてる時も、セックスしてるときも、朝起きた時も鳴ってた」

 顔を見れなかった。手のひらでスマートフォンを握り締めて、抑揚なく発せられる言葉の棘を、背中で受け止める。

 背後で柔らかな絨毯を踏みしめる音。ぎし、とベッドのスプリングがきしむ。すぐ後ろで気配がして、心臓が馬鹿みたいにうるさく脈打っていた。

「俺は別に気にしない」

 後ろから腰に腕を回されて、首筋に吐息が触れる。スマートフォンを握っていた右手の上に、彼の手が重ねられた。あやすように、一定の速度で手の甲を撫でている。落ち着かせるつもりでやっているのなら、逆効果だ。
 やっと夢から醒めたと思ったら、また引きずりこまれていく。このまま何も言わず、ホテルに一人置いてけぼりにするような最低な男なら、そのほうがずっと良かったかもしれない。これ以上を求めては、戻れないほどに溺れてしまう。

「……零は、彼女とか、いないの」

 今更なにを、と思われるだろうか。それでも、聞かずにはいれなかった。

「まあ、いた時期もあったよ」

 水を差すような質問にも、とくに調子を変えることなく答えてくれた。少し捻ったような言い回しが、なんだか彼らしいと思った。その答えに少なからず安堵する自分がいて、私ってつくづく惨めな女だなと、己を恥じた。身じろぎをするたび、ふわふわと揺れる髪が首筋にあたって、こそばゆかった。

 あの時に戻ったみたいだな、なんて、声を甘くして彼が囁く。この状況で幸せに浸るなんて、ありえなかった。彼のひとつひとつに、心を抉られていく。この男は、私をどうしたいのだろう。

「お前が、寂しそうな顔してたから」

 彼の優しさは残酷だ。ぎりぎりと首を絞められているように、呼吸が苦しくなる。背中に伝わる呼吸も、手に溶けていく体温も、決して永遠ではないと知っている。泣きたくなるほどに、切ない気持ちが蘇る。

「愛してあげたかった」

 なんて都合の良い言葉だと、振り払うことが出来れば簡単だった。吐息交じりの低い声が耳裏で震えて、肌がぞくりと粟立った。昨晩の熱を思い出して、身体が疼いてしまった。些細な感情の動きすら悟られていて、彼が後ろで笑う。 

 仮に、今の彼氏と上手くいっていたなら、まだ違っただろうか。そもそもこの手を取ることだって、なかったのかもしれない。
 事の全てはタイミングだ。自分の行為を正当化するつもりはさらさらない。この後、彼氏と喧嘩をして問い詰められれば、すべてを白状するつもりだった。
 嘘は消せない、罪は消えない。

「私のこと、軽蔑しないの」
「なんで」
「……浮気、なんて」
「俺が誘った。責められる立場じゃない」

 客観的に見れば、彼の言うことは正しいのだろう。それでも、私は自分のことを責めたかった。私がもっと理性的であれば、こんなことにはならなかった。彼氏がいると一言断れば、零も無理強いはしなかっただろう。
 降谷零は、私にとってヒーローなのだ。決して汚してはならない人。彼が何を思って私を抱いたのかなんて、重要なことではない。昨日の夜も、私が辛そうにしていたから声をかけてくれた。見つめられて、秘めていた熱に、気づかれてしまった。私が降谷零への感情を捨てきれていないことも、その体温を求めてしまったことも、あの一瞬で全て見透かされた。

「わたしのこと、怒ってよ」
「必要ないだろ」
「……ていうか、なんでまだいるの」
「あのな、俺はそこまで酷い男じゃない」

 心地よいテノールが、私のことを甘やかしてくる。今すぐ振り向いて、抱き着いて、泣いて縋りたい。でも、そんなことをすれば、私はもっと自分を許せなくなる。こんな女、優しくされる資格なんてない。

「家まで送る」
「……そんな、いいよ」
「そんな顔してるのに、一人で帰らせるわけないだろ」

 腰に回っていた腕が解けて、強く肩を引かれた。目と目が合って、青灰の瞳が弧を描く。顎を掬われて、そっと唇を塞がれた。流れるように優雅な口づけだった。抵抗、という二文字は頭に浮かばなかった。 
 キスが大好きだった。互いの体温を感じられて、呼吸が合わさって、二人だけの世界に浸ることが出来るから。セックスが大好きだった。愛と欲望をぶつけ合って、醜い部分も丸ごとすべて食い尽くされて、愛するひとのものになれる気がするから。

「時間、まだあるな」

 マットレスが背に触れた。ベッドに押し倒されて、手首を縫い付けられて、再び呼吸を奪われる。温もりのある手のひらが、剥き出しの太ももを優しく撫でる。下着を着けていないから、バスローブを捲られたら、私の痴態はすぐに曝け出されてしまう。

「濡れてる」
 終わらない夢に足を掴まれて、そこから動けなくなっていた。
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