君の心臓に咲いた百合


 煌びやかな笑い声と薄汚れた街灯の中を息を潜めて歩いていた。顔の下半分が隠れるくらいぐるぐるに巻いたマフラーから、白く濁った溜息がすり抜けていく。あともう少し夜が深まれば、雪でも落ちてきそうな寒さだった。
 前方にいる男女五人のグループは歩道の真ん中を闊歩し、すれ違う人の波にたびたび怪訝な表情を向けられている。今の今まで一緒にいたのだが、このまま他人のフリをしていようと思った。

 年が明けて早々、騒がしい夜だった。会社の同期たちの新年会と称して呼ばれた場は、結果、ただの合コンであった。友達の友達が来るから、なんて情報は、絶対に先に伝えておかなきゃいけないことだ。知っていたら絶対に来なかった。まあ、だから伝えられなかったのだろう。

 ──なまえ、彼氏と上手くいってないんでしょう?
 飲み会の最中、隣に座った同期の女の子にこっそり耳打ちされた。だから何だと言いたかった。別に新しい出会いなんて求めていない。悪気があるわけではないだろうが、彼女は少しお節介なところがあった。妙なところで気を遣ってしまう私にとって、合コンとは最も苦手とする行事だった。飲めと言われれば断れないし、場の雰囲気を壊すのが怖くて、二次会に行きたくないとさえ言えない始末。同期とはいえ、男の方は顔も知らない人たちである。そんな人たちと今年もよろしく、なんて新年のお祝い、まったくの無意味だ。

 まだ明日が休みということだけが有難い。空き腹にワインを流し込んだせいか、少し具合が悪い。余韻まで最悪だった。今日はもう家に帰って休みたい。

「……あ、また! ちょっと、なまえ連れてきて」
「ほんとだ。離れないように手でも握ろうかな」
「あは、狙ってるのバレバレ」
「だってめっちゃ好みだし」

 テンションの高い男女の声が明らかに私の方に向いていた。あの二人は絶対に飲みすぎだと思う。女の子の方はいつもならもう少し気が効くはずだし、道の真ん中を大声でふらふらと歩いたりするような子じゃない。男の方は良く知らないが、腐っても同じ会社に勤めている人だ。それくらいの教養が備わってないと、こちらが情けない気持ちになる。
 下を向いてぼんやりと歩いていたから、皆とどれくらい距離が開いているのかわからなかった。声がぎりぎり聞こえるくらいだから、そう遠くはないのかもしれない。できることならこのまま、人の波に消えてしまいたかった。帰ります、という一言を告げれば良いだけなのに、嫌なら嫌とはっきり言えない自分にも腹が立つ。

 私は彼らに、何かを期待しているのだろうか。人に幻滅されることが怖くて、臆病になっているのだろうか。悪い酔い方をしてしまったせいで、ネガティブなことばかり考えてしまう。


 ふと、足を止めてしまった。流れの速い人混みで、私こそ迷惑な人間だった。ぶつかっていく人たちが、すみません、と声をかけてくれたのに、私は何も返せなかった。

 何、あの子。と嫌味な声が聞こえた。こつ、こつ、と硬い革靴の音が、こちらに向かってきている。ガヤガヤとうるさい人混みの中にいるのに、その音だけは、はっきりと聞こえた。
 急にアルコールが回ってきたようで、頭がズキズキと痛む。吐くまではいかないが、異様に身体が冷えていて、手先の感覚が鈍くなっていた。今日はもともと体調が悪かったのか、それとも仕事終わりで疲れていたから、酔いが早くきてしまったのか。
 とにかく、今すぐどこかで休みたい。この場でしゃがみこんでしまおうか。──この人混みだ。そんなことをすれば、きっと騒ぎになってしまう。とはいえ、こちらへ向かってくる男に、我が身を預けられるような信頼はない。

「おーい、なまえちゃんどうしたの? 早くおいで」

 ああ、来た。飲んでいる間、ずっと私と話していた男が目の前にいる。気安い笑みを浮かべながら、私の手を取った。相当冷えていたのか、一瞬躊躇されて、またぎゅっと握られる。

「手、めっちゃ冷えてるね。かわいそう」
「あ……、あの」
「二軒目予約取れたって。さっきの続き、話そうよ」

 さっきの続きが何かもわからなかった。ぐい、と思い切り手を引かれて、足が縺れてしまう。よろけた私を受け止めながら、男は楽しそうにけらけらと笑っていた。彼には、私が酔って甘えているようにでも見えるのだろうか。どちらにせよ、軽薄そうな男は好きになれなかった。

「あの……彼氏に、連絡しなきゃ」
「は? なんで」
「具合悪いから、迎えにきてもらいたくて」
「マジ? でも、いま俺らといるのバレたらやばいでしょ」

 脅すような言葉と低い声にぞっとした。彼氏がいても合コンに顔を出すような女だから、気遣う必要なんてないと思われているのかもしれない。無遠慮に握られた手が気持ち悪くて、頭に血が上る。彼氏に連絡するなんて、嘘に決まっている。身体の具合が悪くて、早く一人になりたいだけなのに。この男は何もわかっていない。

「っ、もう帰るの!」

 思っていたより大きな声が出てしまった。手を振りほどいて踵を返そうとした瞬間、ぐらりと目眩がする。最悪のタイミングだった。これまた運悪く、細いヒールをはいていたから身体を支えるのが難しくて、がくん、と膝が折れる。硬そうなコンクリートが目の前に見えた。鋭い痛みに備えて、ぎゅうと目を閉じた。

 しかし、痛みは、いつまでたってもこなかった。

「大丈夫か」

 鼻孔に染み入る深みのある芳香。燃え盛るような熱気と、涼気な氷点が交差する匂い。煽情的であり、人肌のような温かみのあるウッディ系。独特の香りを纏うその人物を視界に入れた途端、胸を殴打されたような衝動に襲われて、脳が激しく揺さぶられた。

「ワインでも飲んだ? 顔色が悪い」
「な、に」
「このマフラー、見覚えがあったから」

 それ、まだ着けてたんだ。彼が軽く笑って、私のマフラーに触れた。垂れ気味の青灰色の瞳に、困惑した表情の私が映り込む。眉が下がって、酷く情けない。なんでこんなに泣きそうなんだろう。お酒を飲みすぎると、情緒不安定になるからいけなかった。

「身体も、めちゃくちゃ冷えてる」
「……っ、零」
「どうせまた、断れずに飲んだんだろう」

 言われたこと、全てが正しかった。まるで、その光景を見ていたかのようだ。人によっては勘に触る言い方だろうが、今の私にとっては有難いことばかりだ。状況説明をするより先に、私のことをなんでも知って見抜いてくれる。そんな存在。

「あの、ほんとに、零?」
「べつに、どこも変わってないだろう」
「だって、なんで、ここに」
「たまたま。仕事で近くを歩いてたら、君を見つけて」

 透き通る金糸に空を濁した青灰の双眸。見間違うはずがない。この人、降谷零は、私の元彼だ。職業は警察官。彼が警察学校を卒業してすぐ、一方的に別れを告げられた。理由はよくわからなかったが、とにかくショックでしばらく立ち直れなかった記憶がある。幸せだったはずなのに、苦い思い出ばかりが色濃く残る人。

「何お前、もしかしてこの子の彼氏?」
「……ああ、僕は彼女の元、」
「そ、そうだよ! 零、ちょうどよかった。具合悪いの、車乗せて?」

 ガンガンと痛む頭を押さえながら、咄嗟に嘘を吐いた。もうこれ以上面倒くさいことはごめんだ。初対面の男よりも、元彼の方がよっぽど信頼できる。当たり前のことだ。
 零はきょとんと目を丸めたあと、ふっと笑みをこぼした。なるほどね、という顔つきだった。腰を支えていただけの腕がするすると動き、なんだかいやらしい抱き方に変化する。

「この子、体調が悪いと不機嫌になるから」
「……ちょっと、零」
「僕が連れて帰るから。彼女の友人たちに、よろしく言っておいてくれ」

 ぺらぺらと良く回る口は、どこか威圧感があった。男もそれを感じたようで、げんなりと冷めた顔をしていた。彼氏を名乗る男に突然マウントを取られたと感じたのだろう。これは私がいなくなったあと、めちゃくちゃに愚痴ってくれそうな顔だ。

「じゃあ、そういうことだから」

 零が男に薄く笑う。穏便とは言えない終わり方だったが、男は結局何も言わずに去ってゆき、なんとかこの場は収まった。零は私の腰を抱いたまま、男とは別の方向に歩いていく。まさか本当に、車で送ってくれる気なのだろうか。この体調で電車に揺られて帰るのは憂鬱だったので、そうだとしたら有難い。
 あの男には手を握られただけでも嫌悪感があったのに。元彼だからか、身体に触れられても嫌な感じは一切しなかった。それどころか、寄り添っているから寒さが和らいで、心地よいとさえ感じている。

 こつ、こつ、と上品な革靴の音が街に響いていた。細身のジャケットに濃い色のデニムを合わせて、ベージュのストールを身につけている。カシミヤだろうか、なんだか暖かそう。シンプルかつ上品で、彼にとてもよく似合っていた。横でふわふわと揺れる金髪が、懐かしい気持ちを呼び起こしている。こうして二人で最後に街を歩いたのは、何年前だったか。
 忘れたくとも、忘れられない。過去に付き合ってきた人の中では一番の美丈夫だったし、間違いなく、一番、彼との恋に溺れていた。それに、男の方から振られたのは初めてだったから、私の自信を喪失させた、唯一の男でもある。
 別に恨んではいない。ただ、もう二度と会うことはないのだと本能的に感じていた。だから、またこうして二人並んで歩いていることが、信じられなかった。まるで恋人時代に戻った時のような距離感で寄り添い、歩幅を合わせて歩いている。

「ねえ……なんで、話しかけたの」

 疑問に思っていたことを、率直にぶつけた。降谷零という人間は、下手なリスクを負わない人だ。まず結末を想定してから、どう動くかを決める。慎重で、几帳面で、潔癖なところがある。さっきの私は彼にとって、明らかなトラブルメーカーだった。あの男が実は過激な人で、あのまま一悶着あったらどうするつもりだったのだろう。あの降谷零が負けるとは思えないが、彼は目立つことを嫌う節がある。零は警察官であるし、この人混みでそんなことが起きたら……考えれば考えるほど、ますます彼の行動の真意がわからなかった。

「困ってただろう」
「……ん、まぁ、そうだけど」
「困ってる人を助けるのは、俺の仕事でもあるから」

 はぐらかされているのだけは、なんとなくわかった。それでも、それ以上は聞けなかった。警察学校では首席だったというし、今はさぞかし重要なポジションにいるのかもしれない。

 ああ、なんて遠い人。
 付き合っている時も、そう感じることが多々あった。彼に抱いていた劣等感がふつふつと蘇る。彼と私は、昔から違いすぎていた。追いかけて、追いかけて、やっと振り向いてくれたと思ったら、結局手を離される。

「ねえ、車」

 本当は緊張してたまらなかったが、なるべく平静を装った。どくどく、どくどく。心臓の音がはっきりとわかる。私、何かを期待している。

「近くに停めてる。でも、家までは送れない」
「……そう。じゃあ、べつに」
「少し休んでいけばいい。顔色、本当にやばいぞ」

 頭一つ分高い位置から、零が私の顔を覗き込んだ。ふわ、と上品な香りが鼻孔を掠めて、胸のあたりにじんわりと広がる。久々に感じた。この、ときめくような熱。

 やっぱり私、まだ。

「……うん」
 体に触れる手のひらの温度が、どうかまだ離れないでほしい。自分の心を理解すればするほど、惨めな気分になっていった。

 互いの吐く白い息が、夜の空気に溶けていく。すれ違うカップルよりもよっぽど近い距離で、私たち二人は歩いていた。クリスマスはもう終わったというのに、街全体がイルミネーションで彩られたようにきらきらと輝いて見えた。脳に揺蕩う熱が、彼にも伝わればいいのに。そんな馬鹿みたいなことを考えてしまうのは、身体に回るアルコールのせいだ。
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