私は先月、短大を卒業し、『大川商事』という会社に就職した。
配属された部署に、高校時代の先輩である不破雷蔵先輩が居た事に驚いた。
彼は私の教育係として、社内のルールだとか、仕事の要領だとか、手取り足取り教えてくれた。
…が、一ヶ月経つとそれも無くなる訳で、少し不安になっていた。
そんな矢先に、彼が現れた。

「…まだ終わらないのか」

凛とした声が、部屋に響く。
残業をしている私に向けられた言葉だというのは、一目瞭然。

「はい…。すみません…」

カタカタと、キーボードを叩く音に乗せて謝罪する。
今日までに提出しなきゃいけない書類が、まだ終わってなかったから。

「あとどれくらいで終わる?」
「えーと、これを入力するだけですので、…10分も要りません」

カタカタと手を休めず、顔も画面を睨んだまま答える。
上司に対してこんな態度だと、クビにされちゃうかな…?
でも、なんか苦手なんだよね。

――――鉢屋係長って…。

不破先輩と従兄弟だから顔似てるし。
なんか性格キツいっていうか、私だけに厳しい?気がするし。

「…終わったら報告しろ」

そう冷たく吐き捨てて、部屋を出る。
やっぱり冷たいな…。
そんな風に少し傷つきながらも、カタカタと入力を続ける。
不意に、扉が開いた。

「あれ?名前ちゃん、まだ居たの?」
「え?不破先輩、帰ったんじゃなかったんですか?」

入って来たのは不破先輩で。
定時に帰ったものだと思っていた。

「うん。会社の前を通り掛かったら電気がついててね。気になったから寄ってみたんだ」

やっぱり優しい。
高校時代の優しい先輩のままで何だか安心してしまう。

「あと少しで入力終わります。先輩は先に帰ってて下さい」

先輩の方を見ながら言うと、なんだか複雑そうな表情をしてこちらに近付いてきた。

「女の子をこんな時間まで残して先に帰れないよ…。あ、コレ良かったら飲む?」

差し出されたのは、缶コーヒーのブラックで。
しかもホットだから、冷えた指先に心地好い。

「じゃあ僕、邪魔しないように休憩室で待ってるよ。帰り支度が終わったら声かけてね」

温かい微笑みを残して、先輩は部屋を後にする。

「さて、先輩を待たせるのも悪いから、早く終わらせよう」

再びカタカタと打ち始める。
あと三行…。
よし、終わり…っと。
鉢屋係長に持って行って、不破先輩に声掛けなくちゃ。
荷物を纏めて書類を持ち、係長が待つ部屋に向かう。

――コンコン…

『企画室』と書かれたプレートが付いている扉をノックする。

「入れ」

中から冷たい声がする。
やはり、係長は私が嫌いなようだ。

「失礼します。書類が仕上がりましたのでお持ちしました。では、これであがらせていただきます。お疲れ様でした」

事務的に伝えて一礼し、部屋を出ようと踵を返した時に、不意に声をかけられる。

「…お疲れ。外はもう暗い。送っていこう」
「いえ、結構です。不破先輩が待って下さってますから。失礼します」

鉢屋係長に送ってもらうとか、貸にされそうで嫌だ。
それよりも、待たせてしまっている不破先輩の所に急がなくちゃ。
部屋を出てから早足で休憩室に向かう。
遅いからって、もう帰ってないよね?

「先輩、遅くなりました…」

恐る恐る休憩室に入る。
…が、先輩が居ない。
やっぱり帰ったのかもしれないな、と思っていたら、背後から足音が聞こえた。

「ゴメンゴメン。ちょっとトイレに行ってて…。終わったの?帰ろうか?」

そう言って会社裏の社員専用出入口に向かう。
警備の方に声を掛けてから外へ出る。
春先の夜は、心なしか手先を冷やす。
まだまだ夏は遠いな…なんて思いつつ、指先に息を吹き掛けていると、視線を感じた。

「寒そうだね。手、貸して」

そう言った先輩は、左手で私の右手を取り、自分のコートのポケットに入れる。

(な、なんかはずかしいんですけど…)

どうしよう…と、顔に熱を感じて俯いてしまう。
自分の心臓の音が、普段からこんなに動いているのかと思うくらい大きく聞こえる。
恥ずかしくて、声が出せずにそのまま歩いている時だった。

「あれ?三郎?」

目の前数メートル先に立つ姿。
こちらに気付いて近付いて来ているのは…、鉢屋係長?不破先輩?

「三郎、何してんの?名前ちゃんと手繋いで…」

(えっ?)

目の前に近付いた人が、私の隣に居る人に『三郎』と言った。
え?え?
頭がパニックになっていたら、繋がれた手を外されてしまった。
急に右手が寒くなる。

「三郎…。最近、名前ちゃんと話が合わないと思っていたら、やっぱりそういう事だったんだね」
「…煩い」
「不破先輩…?私、何が何だか…?」

とりあえず、暖かい所に行こう。
と言われ、三人で居酒屋に入る。

「あのね、全部三郎だったんだよ」
「…は?」

不破先輩の話によると、教育係として私の担当になったのは、確かに不破先輩だったらしいのだけど、たまに残業している私に教えてくれたり、待ってくれていたり、送ってくれたのは鉢屋係長だったらしい。
送ってくれた翌日にお礼を言うと、曖昧に相槌を打っていた不破先輩の言動に、今更だが納得出来る。

「でも、なんでそんな遠回しな事を…?」

鉢屋係長に視線を向けると、顔を紅くして口に手を宛ててそっぽを向く。
なんだか拗ねた子供みたいになっていた。

「…私が話掛けると緊張して笑顔がない。雷蔵の前だと自然な笑顔で答えるから…」
「クスクス…。三郎はね、名前ちゃんの事が好きだったんだよ」
「え?!」

突然の告白に吃驚する。
言われた鉢屋係長も顔を真っ赤にして、不破先輩に食ってかかっていた。

「素直になりなよ…。高校から好きでしたって。昔から僕に成り済ます癖も、今回限りで辞めてよね。じゃ、僕は先に帰るよ」

そんな大きな爆弾を投下し、不破先輩は店を出てしまった。
そこに残ったのは、無言と言う名のプレッシャーで。

「あ…の…、鉢屋係長?」
「…雷蔵が言ったのは全部真実だ。私は高校の頃に雷蔵と話しているお前に一目惚れした。会社でまた再会するとか思ってなかったし…。昔からお前は私と話すのを避けていたような気がするから、雷蔵のフリをして話しかけた」

相変わらずそっぽを向いたまま、口元を隠して話す係長。
なんだか、可愛く思えてしまった。

「係長、お気持ちは解りました。では、私もこれで失礼します」

そう言って立ち上がるフリをする。

「…は?今までの話を聞いてて何故そうなる」
「何故って…、鉢屋係長が不破先輩のフリをしていた経緯を聞いただけですよね?それでお話は終わりじゃないんですか?」

騙されていた事に対する仕返しがしたくて、わざとそんな風に返してみた。

「あー…、解った解った。名前、昔から…今でも好きです。私と付き合って下さい」

ガシガシと頭を乱暴に掻いたかと思ったら、急にこちらに向き直り、真面目な顔で告白された。
…でもね、係長。

「お断りします」
「は?」
「だって、今まで優しくしてくれたのは『不破先輩』です。どこからが係長でどこまでが先輩かなんて解りませんし。私は優しい不破先輩が好きでしたから、急に『あれは私でした』なんて言われても困ります」

キッパリと言い切ると、鉢屋係長はじっとこっちを見て言った。

「気付かないのが悪い。私と雷蔵なんてすぐに見分けられるだろうに」
「んなっ?!なんですかソレ?逆ギレですか?あれだけ似てて見分けろとか無理ですって」
「お前は私の顔を見ずに会話していただろ?私の左目の下には、小さな泣き黒子があるんだ。良く見ないと気付かないくらい小さいが。ちゃんと目を見て会話していたら、すぐに気付いただろうに…」

そう言ってニヤニヤ笑う目元を見ると、確かに小さな黒子がある。
知らなかった…。
今度からは苦手な人でもちゃんと顔を見て会話をしよう。

「さて、返事は本当に『ごめんなさい』のままで良いのか?私は出世頭だと思うけど」
「…そうですね『鉢屋係長』として、私に優しくしてくれたら考えます」
「善処しよう」

そう言って私に微笑む係長は、『不破先輩』の時よりも優しい顔をしていた。




…きっと君は知らない。
私が、君の笑顔が好きな事を。
その笑顔が見たいのに、素直になれなかった事を。
これからはその笑顔を絶やさぬよう素直になろう。
不破雷蔵ではなく、鉢屋三郎として君の笑顔を守ろう。

だからずっと笑っていて。
…名前…。





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