人の身体を怪我や病から治す御仕事をしています。わたしが帰りを待っている、あの人は。
今日はどうなさいましたか。白衣を着て聴診器をつけてそう問う顔は紛れもなく一流の医者であり、多少は無愛想と言われども人に対する姿勢はぶれない。いつも一人一人に等しく接しようと心掛けるし、「お金を貰ってしている仕事に手を抜くのは失礼だ」って、いつしか彼は言っていた。そう、そんな彼だからこそ、おはようからおやすみまで、頭のなかは仕事に支配されているのかもしれない。忙しなく出ていく朝も、疲労を背負い帰ってくる夜も、わたしの入り込む隙間などないと、そう思ってしまうのだ。いいや、そうではないのだと、心の隅で理解をしていたとしても。

「おかえり」
「…ただいま」
「ごはん出来てるよ」
「ああ、貰う」

春から勤め始めた総合病院はわたしの予想以上に忙しいようで、一緒に居る時の彼の口数は学生時代よりも極端に減った気がする。口を開く元気があったら休みたいんだろう。二人で黙々と食事をするのも寂しいからときどき話題を振ってはみるけれど、どうしても一方的にわたしの話ばかりになってしまうし、「ああ」とか「うん」とか、返事が相鎚を打っているだけというのも、なんだかやるせない。家に居る時くらい仕事の話をするのは良くないからっていつも振る話題に気をつけていることも手伝い、共通の趣味もない上に住む世界の違うわたしたちにとって、沈黙というものはどうしても避け得ない出来ないものとなってしまっていた。

「…美味しい?」
「ああ、美味いよ」
「…よかった」

それでも尋ねれば必ず答えはくれるじゃないか。彼の目の下には薄ら隈が出来ているというのに。
仕事、忙しいんだろうな。聞かなくても分かってることだから、態々聞いたりはしない。
彼がカルテに書きこむ単語は英語だかドイツ語だか、わたしはきっとそれを見ても何のことやらわからないだろう。人体の構造がどうなっていて、何がどうしてこういう症状に繋がったのか、どうしたら治すことができるのか。病名や薬や、わたしにはとうてい理解できない知識や技術を使って、彼は仕事をしている。親や他人が決めたのではない、彼自身が望んだ職に就いて。これが彼の意志で、生き方で、わたしが踏み込んではいけない領域。それくらいは分かっているから、文句を言ったりはしないよ。わたしはわたしでわたしの仕事を持っていて、それは彼には到底無縁のものであるし、要するにわたしたちはずっとお互い様だということなのだからして。川西左近とわたしの間には、どうしたって距離とい
うものが発生しがちだとはいえど。文句だけは言うべきでないのよ。
好きだとか好きじゃないだとか、はたまた愛の有無だとか、そういうものとはまた違った距離感がわたしたちの間に横たわっていたことなんて、それは最初から、ずっと、ずっと前からとっくの昔に知っていたこと。

“お互いの生活を乱さない付き合いをしよう”って、二人で決めたことだった。

周りの女の子のように彼氏と一緒にお休みの度にデートすることはできない。それでも、わたしは寂しくなんか、ない筈なのだ。妬んだり羨ましがったりせず、割り切れる、そんな“良い彼女”でありたいって、ちゃんと、思ってる。


「池田くんのとこはね、クリスマスは一泊旅行に行くんだって」


寂しくなどないし、わたしは満足している。面倒な女と思われるのは御免だ。仕事とわたしどっちが大事なのとか、絶対に聞いたりしない。「構って」も言わない。そう頑なに自分に言い聞かせた筈なのに、ふと気がゆるんだ瞬間に、気持ちというものは溢れ出してしまうものなのだろうか。ほとんど無意識に紡いだ言葉はその正反対を示していたのであった。

あ、馬鹿。言っちゃった。

言っても仕方がないこと、殊に言ったことで他人を傷つけるような発言はしないに越したことはない。クリスマスは仕事だって、ちゃんと分かってるよ、わたしは。
なのにどうして。
わたしのなかで、戸惑いが生まれる。その言葉ばかりが、反芻されている。
だけど、もう、言ってしまったことだ。最早どうしようもないのだ。
本音を言い合えるのがベストな関係だという言葉は勿論よく聞く言葉であるとはいえ、矢張りわたしは彼には負い目を感じてほしくはなかったのに。謝らせたい訳ではない。そんな融通の利かない我儘は、とっくの昔に捨てた筈だったのに。

“しまった”、という顔をしたことに、左近が気付かなければいい。
お皿に下げていた視線をおそるおそる上げてみたら、余程変な顔に見えたのか…聞き慣れた呆れ半分の調子で彼はわたしに言うのである。

「…なんだその顔」
「普通の顔、だけど」
「…それが普通だったら残念すぎるだろ」
「あのさ…左近さん失礼だよね」
「そんな申し訳なさそうな顔された方が困る」
「…」
「行きたいならはっきり行きたいって言えよ」
「…べつに
だって行けないでしょ仕事だし」
「行けないけど」
「…うん」
「そういう問題じゃないんだよ」
「…」
「…名前って強情だよな」
「…」
「…」
「…だって、」

視界は少しだけ、ぐにゃりと歪んでいた。鼻の奥がすこしだけつんと痛かった。さっきのは、嘘。本当は、わたしは、気付いて欲しかった。我慢なんてしなくていいのに、お前はいい子だねって、褒めて、うんと甘やかしてほしかった。
綺麗事ばかり並べて綺麗な所だけを見せて、彼を癒してあげられたらいいと、思ってる自分がいて。でも心のどこかで満たされていない自分を否定してばかりじゃ、わたしは可哀想かもしれない。そう、うぬぼれてもいいよと言ってくれる彼だから、わたしは好きで居続けられる。

わたしは決して綺麗ではない。殊に、左近の前では。それでも受け止めてくれるのが彼だし、構って欲しいとすがるのは、悪いことじゃないと、彼は言ってくれるから。わたしは自分を肯定することができる。きっとわたしをわたし足らしめるのは、他でもないあなたなんだね。

「わたしって、煩悩のかたまりみたい」
「みたいじゃなくてそうなんだろう」

わかってくれるのね。凄く、うれしい。
言葉に出して言わなくても気持ちを汲み取ってくれる彼に、わたしは確かに愛を貰っている。これ以上何かを望むべきだろうか。そう自問してみて気付いた。もしももっととねだったとして、この人はそれを決して咎めないのだと。

「人間は煩悩のかたまりだからな」

そしてそれをどうにかして、隠す手段を探している。

彼が言う。わたしはその言葉を噛み砕いて、お皿のうえの料理といっしょに飲み込んだ。
みんな、欲しがりなんだと思う。わたしもそうだしこの人も、誰もが。満たされていないのに満たされた振りをして。塗り固められた巧妙なその嘘を暴いてくれる人を、きっと探しているんでしょう。

「形がないものは難しいね」

煩悩という名前の心の中の容れ物に、愛というその液体を、注いで欲しいんだろう。
溢れるほど注がれても、離れれば蒸発して消えてしまうのだとしても。
気持ちってものは目に見えないから、貰ってそのままで保存しておくことは絶対にできはないのに。

「だから欲しくなるんじゃないか」

彼がフォークを置いてそう言った。その通りだと思ってしまった。
ダイニングテーブルから立ち上がって、「でも好きだな」と呟いて。
好きなのは、彼。彼がくれる愛の嵩。そして彼と出会えたきっかけや、今に繋がる連鎖の全て。対象範囲は広すぎて、やっぱり数えきれないな。なんとなしに口許をゆるませながら空になったお皿を運ぶ時、彼がぽつりと溢すのを聞いた。

「ないから形を決められる」

食器をキッチンに置いてから戻ってきて、その首にぎゅっと腕をまわしてみる。後ろから見た左近の幅の広い肩にきゅんとして、熱い首筋に頬を擦り付けた。欲しいものは手に入る。だから、彼の欲しがるものもできるだけ沢山、あげられればいい。わたしの行動理由、存在理由、この瞬間、今は全て、それだけだ。


「こんな形は如何ですか?」
「望むところだ」




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