PM8:00。
夜が街を彩り始める。
隠れ家のように建つ箱のような、そんなバーだ。派手な物を好まない自分の然り気無く配置されたアンティークの小物が装飾された店内。

今日は店主の私とお客様が一人。二人きりのバーだ。


『いらっしゃいませ』
カウンター越しに控えめに声を掛ける。癖のある黒髪に縁取る睫毛は長い。肌も滑らかで、何だか、絹や陶器を連想させる。

「ここはバーだよね?」
『ええ。何かご注文は?』
「実は、酒はあまり飲まないんだ。オススメはある?」
『じゃあ、ジントニックにしましょう。すぐ用意を』

変な質問だなと頭の中に浮かんだクエスチョンマークを振り払った。
酒を入れたシェーカーを振る。氷の冷気が一気に攻めてきて、私の手を氷にする。爽やかなライム臭が鼻腔をくすぐった。グラスに氷と刻んだライム、透明な液体に満たして、彼の前へ置く。
『ライムを多めに。飲みやすくしました』
私の言葉に頷き、一口飲んだ。彼が瞬きをした。長い睫毛の間から雫がひとつ。手で拭おうとすると箱ティッシュを差し出した。私の動作に驚いたのか、彼が形の良い瞳を見開く。
「……えっ、あの」
『ずっと、泣きそうな顔をしてましたから』
肩を竦めるように微笑して肩に優しく手を置く。
『誰にでも、繊細になりたい時はあります』
決壊するように流れ出す涙。彼がティッシュで眼を覆う。そしてポツリポツリと言葉を吐き出す。私はただ黙って隣で彼の背を撫でた。


睫毛の長いイケメン君がここ【larme】に来たあの日から彼が来ることが習慣となった。毎日ではなく決まった曜日だが。それでも、会うまでの時間が少し待ち遠しかった。それは三年も続いた。


私、苗字名前。
バー【larme】の店長。狭い店内の酒瓶が並ぶカウンターの間の隙間で、私は今日もシェーカーを振る。

律儀に決まった曜日に通う彼はいつも同じ注文をした。三年も通い続け、今では互いを久々知君、苗字さん。まるで同級生を呼ぶみたいだ。
「苗字さん、それ」
『ん?』
久々知君が私の食べ掛けの皿を見る。目が輝いて見えるのは気のせいだろうか?
『揚げ出し豆腐よ。失敗しちゃったけど……』
皿を見せながら、照れてしまった。だって余りにお粗末で不格好な仕上がりだ。
「ちょっと、ちょうだい」
『駄目です。失敗作だから』「一口も?」
『一口も!』
肩を落とした彼に作り途中だった、おつまみを差し出す。『今日はこっちで勘弁』
「……揚げ出し豆腐」
『次に久々知君が来るときはもっと美味しく作れるようにしますから』
「本当に!?」
顔が近い。久々知君が立ち上がったからだ。周りに居たお客さんもクスクスと笑う。 ああ、ごめん と赤い顔で久々知君が座った。完全に座ってから、今度はずいっと小指が差し出される。綺麗な爪、思わず見とれた。
「苗字さん、約束して」
『指切りげんまんッて?』
「うん、俺と苗字さんとの約束だ」
『はい。じゃあ、小指』
小さな声でお決まりの言葉を吐いた。照れ臭くて、暫く互いの顔が見られなかった。



二週間経っても久々知君は来なかった。男女がするような当たり前に携帯番号を聞いたりする事はなかった。会話して、時間を潰して……一時のささやかな楽しみだった。

久々に彼の来ない店でカクテルを作った。今日は客足が遠のき、あまりお客さんが来なかった。たまには早く閉店する日があっても良い。私は自分にジントニックを作った。ジンの割合は多め。香りを楽しみながら、一口飲んだ。ほろ苦さが口に広がる。
キャンドルの淡い光がグラスを照らす。窓から雪が降って見えるのが少し、寂しい。棚に入れておいた今日も作った揚げ出し豆腐を取り出す。
『自信作だったのにな……』「……苗字さんっ!」
私の呟きに重なるように現れたのは久々知君本人。
走ってきたのか顔が上気している。
『何かあったんですか?』
「今日、苗字さんの誕生日だろ?」
謝りながら肩の雪をはらう。「連絡できなくてごめん。急に研修が入ったんだ」
『私、自分の誕生日だって事すっかり忘れてました』
「本当だな、苗字さん」
笑って、カウンターに座る。私は二人分のカクテルを作る。尋ねたら、馴染みのお客さんに私の誕生日を聞いたらしい。鞄から、ケーキの箱とラッピングされた箱を取り出した。二人でお酒とケーキ、揚げ出し豆腐を摘まむ。プレゼントの中身は雪の結晶をしたピアスだ。心の蝋燭に火が灯ったように胸が温かい。

「苗字さん」
真剣な顔をした久々知君。
「ずっと好きだったんだ。」『私も、好きです』
唇が触れ、キスをした。
「好きだよ、名前」
『……兵助、君』
急な下の名前呼びにつられて私も名を呼ぶ。

氷が溶けるように、私自身もとろけてしまいそうだ。
「名前、好きだよ」
兵助君と唇を重ねた。

耳にかすかなシトラスの弾ける音が聞こえた気がした。


私の恋は始まったばかり。







【larme】
フランス語で涙。



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -