ドアを開けてふわりと漂ってきた香りに思わず目を細めた。
これは、私の大好きな鮭のバター炒めに違いない。そう、私はにんまりと口角を上げながら、キッチンにいるだろう人物に向かって大きな声で「ただいま」と投げかけた。

廊下を過ぎ去り、ひょこっと頭をキッチンに覗かせれば、そこには少し癖っ毛の目立つ黒髪が一つ。
彼は、私が現在3年目の交際をさせて頂いている浦風藤内くんだ。高校生の時にクラスメイトとして出会い、私が一方的な片思いを続け、その気持ちを伝える事なく卒業。
だが、私たちには何らかの縁があったのだろう、たまたま配属された職場が同じで、まあなんやかんやとあって同棲するまでに至った。

今、こうして夕飯を作っている彼だが、別に働いていない訳ではない。
同じ職場とあっても、帰宅する時間が一緒ではないため、先に帰った方が夕飯を作ろうと二人の間で決め事をしたのだ。

私は帰って来なかった「おかえり」の返事に、恐らく聞こえなかったのだろうと思い、彼の隣に立ってもう一度口を開いた。


「藤内、ただいま」
「………」


だが、彼は私を一瞥しただけで、再び視線をフライパンの方へ戻してしまった。
その瞳に、私は先ほどまで浮かべていた笑みを引っ込める。


「(藤内、怒ってる…)」


人によって怒りの表し方はそれぞれであろう。だが、私は大きく2パターンに別れると思っている。
まず一つは、怒りに任せて怒鳴り散らすタイプ。もう一つが、何も言わず静かに怒るタイプ。言わずもがな、藤内は後者のタイプだ。

私は、なぜ彼が怒っているのか一生懸命頭を働かせた。
今朝は至って普通、会社の出社時間は一緒なので二人で雑談をしながら行った。昼は会っていない、夕も会っていない。そして、二度目のコンタクトが今だ。
分からない、彼が何に怒っているのか。

藤内は、出来あがった鮭を皿に移し、私に背を向けてリビングの方へ歩いて行く。


「ね、ねえ、藤内。あの、ごめんね」
「…名前は、俺がどうして怒ってるか分かってるの?」
「……ごめん、分からない」


刺すような口調の彼に、私は視線をフローリングに落とす。すると、藤内は大きなため息を吐き、彼にしては珍しくどかどかと足音を立てて私のもとへと歩いてきた。そっと見上げれば、口こそへの字に曲がってはいないが、眉をしかめて不機嫌そうな彼の表情。
それを見て、どうしようと私が足りない脳を一生懸命動かしている時だった。


「い、たい…」
「我慢して」


藤内が、私の腕を掴み、勢い良く肩に噛みついてきた。甘噛みでもない、かと言って血が出る程ではないくらいの強さで。
きっと私の肩には、彼の歯型が付いてしまっているんだろうなあ、とじんわりと痛みを感じながら、私はくしゃりと彼のシャツを握る。

それから、どれくらいが経ったのだろう。
藤内はそっと私の肩から顔を離し、今度は痛いくらいの強さで私を抱きしめた。そして、自分を落ち着ける為にか、ゆっくりと息を吐きながら口を開いた。


「名前、今日、上司の人にご飯誘われてたでしょ」
「…ああ、うん。でも、頑張って断ったよ」
「それは賢明な判断だね。ただ、その時、肩抱かれてた。それが気に入らない」


恐らく、上司にとっては肩を抱く事も軽いスキンシップであろう。実際に、私自身「あんまり慣れ慣れしく触れられるの好きじゃないなあ」とは思っていたけれども、それに深い意味など感じてもいなかった。
だが、目の前の彼にとってはそうではなかったらしい。

私は、くすりと小さな笑いを溢して、自分も、と彼の背中に手を回した。


「独占欲が強いのって、どうにかしなきゃとは思う。でも、自分の恋人に軽々しく触れられてイラつかない人間なんていないと思うんだ」
「うんうん」
「大体、肩を抱くってのは彼氏の特権だろ?なのに、あいつは……て、名前?」
「うん?」
「ちゃんと話聞いてる?俺、怒ってるんだけど」
「聞いてる聞いてる」


私が重大なミスを犯してしまった、彼から別れを告げられるかも知れない、と不安になった自分が嘘のようだ。彼の怒りの原因が、実は小さな嫉妬だと知って、彼は怒っているのに、私は嬉しくて。
私は、自分の腕にぐーっと力を入れて彼に思い切り抱きついた。すると、私の頭の上からは、もう何度目か分からない大きなため息と、彼の怒りを噛み殺したような囁きが耳に入った。


「ねえ、聞いてないんなら、噛みつく以上に酷い事してあげる」


恐いくらいに笑みを浮かべた藤内。その色気を含んだ声と表情に、私の背はぞくりと震えた。




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