(のせ、きゅうさく、さん)



名前をもう一度しっかり頭にインプットしようと名刺を凝視していたら、「どうか、しましたか?」と問われた。慌てて営業スマイルで背筋を伸ばす。



「いえ、能勢さんって、珍しい名字だなと思ったもので。」
「ああ…そうかもしれませんね。」



言いながら、能勢さんが口元に笑みを浮かべて、どうぞ、とソファに座るよう私を促した。



「失礼します。ええと、それでは早速、」



持ってきた資料をテーブルに広げ、商談の準備に取り掛かる。初めて任せてもらえた大きなプロジェクトの、提携企業との初顔合わせ。今日の説明のために入念に準備してきたつもりだ。
ちらりと能勢さんの表情を視界の端で盗み見る。真面目そうで堅い印象はメールと同じ。想像よりも若くて大分かっこいいから驚いてドギマギしてしまったけど。…そんなのはこれからの話においてどうでもいいこと。とにかく今日はうまくやらなくちゃ。




そう意気込んで始めた商談だったが、とにかく終始いっぱいいっぱいだった。予定外のミスは発覚するわ、あったはずの書類は抜け落ちてるわ…。結局入念に準備していたはずの説明は時間通り進めることができず、中途半端なまま終わろうとしていた。



「苗字さん、申し訳ありません、時間が押してまして…そろそろ…」



言い辛そうに言葉を濁す能勢さんの気遣いがいたたまれない。とうとう撤収せざるを得ない状況にまで来てしまった。



「もっ申し訳ありません、その、続きは…次回に必ず、」



泣きそうになるのを堪えながらとにかく自分の非を詫びた。意気込んでいたくせに半分も思い通りに進められなかった自分が不甲斐なくて悔しくて、下唇をかみ締めた。せっかく会社に任せてもらえた仕事なのに、はじめから躓くなんて。本当に、情けないったらない。



「ええと…今日の仕事終わりは暇ですか?」



私の謝罪の後、ややあって能勢さんがそう呟いた。え、と口をあけたまま顔を上げて私は無防備な間抜け面を能勢さんに晒す。能勢さんは、相変わらず凛々しい顔立ちで私を見ていた。



「私から提案なんですが、どこかでご飯でも食べながら続きの話をしませんか。お話が途中じゃ、苗字さんも気持ち悪いでしょうし。」
「…そ、そんなご迷惑かけられませんよ!」
「こういうことはスッキリさせないと気が済まないタイプなんです。やましいことはなく、ただの商談の続きですから、どうでしょう?」



落ちついた口調で能勢さんが問いかけてくる。



うそ、本当に、いいの?



どん底の暗闇に能勢さんから放たれた光がぼうっと射しこんでくるような、そんな錯覚に陥る。きらきらとかがやく、希望の光とはまさにこのこと。
もはやこれはあなたが神かレベルの優しさではないだろうか。とことんうまくいかない最悪な日だと思ったけど、そんな日だってこういう救いの女神様はいるんだな。いや、もはや救いの能勢様。



「ご迷惑でなければ…ぜひ!」



願ってもない提案に飛びつくように賛同すると、微笑んだ神々しい能勢様は私の名刺を指差し、「連絡、待っててください。」と返してくれた。危うく見とれそうになるような爽やかな笑顔で。
不謹慎なときめきを必死に抑え、私は何度も頭を下げた。








*








そして今、私と能勢さんはお酒を片手に向かい合っている。



「苗字さん、お酒お強いんですね。」



顔をほんのり赤くした能勢さんがすこし眠そうな目で私を見つめる。その姿は驚くほど色っぽい。早まる拍動を抑えて、私は誤魔化すように笑った。




予定通り仕事終わりに落ち合った私と能勢さんは近くの洋食店に入り、淡々と仕事の話をした。それはもう、拍子抜けするほど事務的に。むしろあの時よりもスムーズなくらいに。
確かにやましいことはないと念は押されてはいた。いたけれども…なんせかっこいい男の人との一対一の食事。仕事の延長とはいえ私も女だし、ほんの少しだけ期待してしまったのは仕方ないだろう。しかしそんな私の期待はよそに、能勢さんは見た目通りのガチガチ硬派を見事貫き通したというわけだ。
そのまま帰ろうとする能勢さんを、半ば無理やり飲み屋に引っ張ってきたのは今思えば強引だったかもしれない。
ようやく仕事の話がひと段落して安心した、というのが理由としては大きかった。でももっと能勢さん とお話したいという下心がちょぴっとあったのも、否定できない。



(でも、こんなに飲みに付き合ってくれるのは予想外かも…)



前に座る能勢さんはシャツの下から締まった腕を覗かせながら、三杯目のビールをくっと飲み干し、少し声を漏らしてジョッキを置いた。私の手にある三杯目のビールはまだ半分残っている。これでついに能勢さんは私のペースを追い越した。



「能勢さん、ペース上がってきましたね。」
「あー、そうですかね。ちょっと俺まずいな…お酒、休憩しますね。」



俺、かあ。
さっきからプライベートの能勢さんがちらちら垣間見えて、ちょっと嬉しい。仕事モードの抜けた能勢さんと喋るのが楽しくて、ついつい私も饒舌になってくる。



「能勢さんって真面目なイメージだから、誘ってはみたけど絶対お酒飲んでくれないだろうな、と思っていました。」
「俺も酒くらい飲みますよ。」
「ふふ、ですよね。すみません。」
「まじめ、ってのは…間違いじゃないかもしれないですけどね。自分で言うのもなんですが。」



自嘲気味に能勢さんは笑う。真面目の中にちょっとくだけた所もあり、か。まずいなあ、ますます完璧。



「なんだか、能勢さんって彼女に仕事させたくないタイプじゃないですか?」
「いやそれはまあ、その子の意志にもよりますかね。まあでも確かに希望としてそれはあります、なんて彼女もいないのにお恥ずかしい。」
「ええ、彼女いないんですか、意外です!」
「…そういう苗字さんは?」
「それがいないんですよ〜」
「へえ、そっか。」
「…能勢さんって慎重そうですもんね、なかなか本気の子じゃないと踏み込まない感じがー…」



ガヤガヤと居酒屋内は騒がしい。両手でジョッキを掴み、ビールの泡を舐めながら話の流れの気まずさをどう修正しようか必死に思案した。調子に乗って、ちょっと踏み込みすぎたな。いきなり恋愛トークに持っていってガツガツした女だなんて思われたくない。
聞きたい、掘り下げたいところだけど、ここは我慢処だろう。冷静に考えれば能勢さんは商談相手だし、仕事上の付き合いが続いていく人だ。気まずい関係を作ったら仕事に響く。幸いまだ酔っていないから頭は働く。



「っそうだ能勢さん何かお茶とか頼みます?」
「苗字さん、



俺真面目なんです。」



かみ合わない会話に、理解を追いつかせて平常通り微笑む。心を落ち着かせながら、能勢さんの声は低くて妙に色っぽいからいけないな、と思った。



「知ってます。見てればわかりますよ。」
「ホントはこういう一対一の酒の場とか、覚悟を決めて臨みたいんです。」



色っぽい目が私だけを射抜く。どくりと体が波打った。



だめ、このままこの場で見つめられたら私、完全に能勢さんに惚れてしまう。そう知らせる危険信号のサイレンが鳴りだす。



鳴っているのはわかる、
けど、目をそらせない。



「だから今日は本当に仕事の話だけにするつもりだったんです。やましい気持ちがなかったかと聞かれれば、首を振るしかないですが…」
「、え、と、」
「俺は押せ押せ、なんて無理です。でもいいなと思っていて誘われたら…断れるわけがないでしょう。」



表情を隠すように片手に頭を預けた能勢さんがぼそり、ぼそり、ひとりごちる。サイレンが、鳴り止まない。



「…っちょっと能勢さん飲みすぎじゃないですか、そろそろ出ましょうか。」
「苗字さん、」



切なく呼ばれた声に、体の奥が反応して疼く。ぐっと突然掴まれた手首が、熱を持つ。熱い。今更、アルコールが全身に回ったみたいに頭が回る。ぜんぶ、熱い。



「軽いって思われるのも嫌だし、酔ったノリで、なんて思われるのはもっと耐えられない。だから今度またきちんと言わせてください。それまでどっかの輩に、捕まらないでくださいね。」
「のせ、さん、」
「じゃあまたプロジェクトのほう、よろしくお願いします、苗字さん。」



そう言って立ち上がり、さりげなく伝票を掴んでいく細いスーツ姿を、唖然として見つめる。呼吸が苦しい。体が熱い。



だめだ、能勢さんに落とされた。



そのまま床に崩れてしまいそうだった。




(能勢さん、)




睨むような、愛しいような視線を投げる。当然能勢さんは振り向かない。
後で酒の席で言ったことだからって撤回したって、遅いですからね。だってあんな表情で言われたら…っ、



突然襲ってきた酔い回りのせいで足を動かせない。能勢さんがどんどん先をいく。
悔しいことに能勢さんは思っていたよりも随分しっかりとした足取りで会計場へと向かっていた。





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