「次屋先輩、そっちじゃありません」
「え、いや、こっちだろ?」
「そっちは食堂です。第二営業部は左です」
「いつのまに部署替えしたんだ?」
「ずっと一緒です!!」


わたしの所属する第一営業部には、びっくりするくらいの方向音痴がいる。それがわたしの直属の上司であり、今まさに方向音痴をはっきしている次屋三之助、彼である。第二営業部へ今後の打ち合わせにいかなければいけないというのに、既にこんなやりとりを3回は繰り返しているというのはどういうことなのか。たった1階下に下がって2回ほど角を曲がるだけだというのに。


「とにかく!次屋先輩は黙ってわたしについてきてください!」
「それだと俺の面子が立たないっていうか」
「道案内に関してはもとから大した面子なんてないでしょう!」
「ひでぇ」


それはあんたの方向音痴だ、という言葉はどうにかこうにか飲み込んで、彼の腕を掴む。自部署を出てから既に5分以上。普通にいけば2〜3分で着くというのに。こんなことならば1人で行くのだった、と思わずにいられない。とにもかくにも、このままでは第二営業部の方々にも迷惑がかかる。その一心で、彼の手を掴んだまま第二営業部の部屋へ進んだのである。




「三之助!おめえいい加減ここの場所ぐらい覚えろ!」
「いやいや、俺は普通に進んでたのに作兵衛のとこが部署移動したんだろ?」
「お前ってやつは……、一回ぶん殴ってやる!!」
「さ、作兵衛、落ち着けって…!!」


ついてそうそう今度は喧嘩か。目の前で繰り広げられる次屋先輩と、第二営業部の富松先輩の見慣れたやり取り。昔々それこそ小学生のころより富松先輩は次屋先輩の面倒を見てきたのだそうな。第一営業部、第二営業部ではかなり有名な2人なので、何が起ころうと皆知らん顔。これが日常茶飯事なのである。


「苗字、本当に、悪かったな」
「いえいえ、もう慣れましたから」


どうにかこうにか怒りを収めたらしい富松先輩が、引きつった口のままだけれどわたしに向き直る。富松先輩は律儀な人だ。まるで次屋先輩の親御さんのよう。相当苦労してきたのだろう、ということが嫌でも伝わってくる。だからこそ、少しでも彼の負担が減ればいいとわたしも後輩として出来るだけ次屋先輩の面倒を見ているつもりなのだけれど。


「名前の前で先輩ぶるなよ、作兵衛」
「三之助!おめえそこに直れ!」
「助けて名前ー、作兵衛が怒るー」
「ちょ、次屋先輩!首!首がしまる!!」


どうしてこの人は火に油を注ぐような真似をするのだろうか。

突然わたしの背後をとったかと思えば富松先輩を怒らせるようなことを言い、そのあと思い切りわたしに抱きついてくる始末。冗談抜きできっとまだ学生気分が抜けていないに違いない。もう社会人4年目だろうに!


「次屋先輩、いい加減に!」


「……名前、ちゃん?」


どうにかこうにか次屋先輩の手から脱出しようともがいていた矢先、ふいに聞こえるこの騒がしい場にはそぐわないほどの落ち着いた声。顔だけで振り返り次屋先輩の肩ごしに見えたのは、少し色素の薄い髪の毛に、年よりは幾分幼い表情。私がこの会社で最も親しいであろう時友四郎兵衛、その人だった。


「よお四郎兵衛」
「…次屋先輩、お久しぶりです」
「名前借りてるぞー」
「ちゃんと返してくださいね」
「ははっ、四郎兵衛もいうようになったなあ」


わたしがしろちゃんの名前を呼ぶより先に、次屋先輩がしろちゃんと言葉を交わす。その間だって、次屋先輩の腕はわたしをホールドしたままだ。正直心が痛い。いくらそれぞれが知り合いだといっても、目の前で彼女が違う男とくっついているのを見ていい気分のする彼氏なんていないだろう。しろちゃんに女の子がくっついているのを想像しただけで、わたしなら怒りを通り越して泣いてしまいそうだ。


「わ、悪いな時友、今すぐこいつ退けるから…!」
「なんだよ作兵衛ー」
「いいから離れろ馬鹿!」


富松先輩が、無理矢理に次屋先輩を引き剥がす。どうやらわたしの考えていることが、なんとなくでも伝わったらしい。やっぱり富松先輩はいい人だ。そんなことを考えながらちらりとしろちゃんに意識を移せば、がっちりと噛み合う視線。口元は笑っているのに、目が笑っていない。しまった、これはしろちゃんが怒ったときにする表情だ。そう思った時には既に手遅れであったらしい。


「名前ちゃん、今日、一緒に帰ろうね」


思わず先程の富松先輩のように口元が引きつってしまったのは、しょうがないと思う。





どうやったらしろちゃんに許してもらえるだろうか。そもそも本当に怒ってたんだろうか。いや、怒ってたな、あれは間違いなく。3年付き合ってるんだ、見間違えるわけがない。ああ、本当どうしよう。

なんて散々悩みながらもどうにかこうにか仕事をこなし、時は定時。ただでさえ怒らせているであろう彼をこれ以上不機嫌にさせるわけにはいかないとコピーしていた資料を急いで一つにまとめ、鞄を手にする。


「次屋先輩、お先です!」
「おー、お疲れ」


隣のデスクの次屋先輩に挨拶をし、近くのドアから飛び出した。しろちゃんと待ち合わせするときは決まって職場のビルを出て少しいったところにあるポストなのだけれど、慌てて走ったその先に見える見慣れた横顔。まさか、なんて思うよりも先に、その見慣れた横顔がこちらへ向き、音を発する。


「名前ちゃん、お疲れ様」
「し、しろちゃん、早く、ない?」
「息切れするほど走ってこなくてよかったのに。富松先輩が少しだけ早くあがらせてくれたんだ」
「そ、そっか、ごめんね」
「だから、気にしないで」


ほぼ定時にドアを飛び出したわたしよりも早くにしろちゃんがいるなんて完全に予想外だった。乱れた息を整えながらしろちゃんの隣に並べば、優しく微笑まれる。それはいつものしろちゃんと変わらない柔らかいそれで、心がほっこりするのがわかる。


「帰ろうか」


しろちゃんの温かい手がわたしのそれに触れて、ゆっくりと歩き出す。いつもはバスか電車で帰るのだけれど、どうやら今日は歩いて帰るらしかった。ヒールの音だけが、暗い道に響く。少し前まではこの時間でも明るかったけれど、最近ではもう真っ暗だ。街灯があったとしても、すぐ近くを見ることで精一杯である。


「真っ暗だね」
「う、うん」
「名前ちゃんはそそっかしいから、こけないようにね」
「そんなにドジじゃないよ、――わ!」
「ほら、言わんこっちゃない」


そんな中、しろちゃんと何ともないような会話をしながら、2人で暮らすアパートへと進んでいく。ちらり、と横にいるしろちゃんの顔をのぞき見れば、本当にいつもと変わらないしろちゃんのそれで。怒ってないのかな、なんて。怒っていないのにわざわざ怒らせるようなことをいう必要もないか、そう楽天的に考えていたのが、いけなかったのかもしれない。


「名前ちゃん」


アパートまで半分程の距離に来たとき、ふいに呼ばれる名前。完全に油断しきっていたわたしは、馬鹿みたいに嬉しそうな顔でしろちゃんの方を向いたのだけれど。


「ごめんね」
「!」


その一言とともに、腕に走る衝撃。悲鳴を上げるまもなく、路地裏に引っ張り込まれる。そのままの勢いで壁に押し付けられ、背中に痛みが走る。何事かと意識を整理する暇さえ与えられない。しろちゃんの温かい手のひらで口元を抑えられて、息が苦しい。否、それだけじゃない。

―――鋭い視線に、息が詰まった。




「僕、怒ってるんだよ、名前ちゃん」


しろちゃんが、何かを押さえ込んでいるかのような声色でいう。


「名前ちゃんが悪くないのはわかってるけど、それでも次屋先輩にべたべた触らせてるなんて、許せないんだ」


苦しそうな顔でも、悲しそうな顔でもない。ただ淡々と口元は笑ったままなのに、目が笑っていない。瞳孔さえ開いているのではないかというしろちゃんの異様な表情に、心臓がばくばくと脈打っている。ああ、何か言わなきゃ、そう思うのに言葉はしろちゃんに封じられて、わたしの口からはくぐもった息しか漏れない。


「名前ちゃん、ごめんね。僕名前ちゃんのことが好きすぎて凄く心が狭くなっちゃったみたい。家に帰るまで我慢できそうにないんだ」

―――早く、僕のものに戻したいよ。


しろちゃんの唇が小さくそう呟いて、わたしの喉元に寄せられる。ちくりとした痛みにたじろげば、ヒールのコツンという音が暗い路地裏に響く。しろちゃんの表情は伺えないけれど、きっと満足そうな顔をしているんだろう、ということはなんとなく感じていた。しろちゃんがわたしのことを大好きなことも、しろちゃんの独占欲が人より強いことも、とうの昔にわたしは知っていたのに。


「名前ちゃん、言って」


しろちゃんが、わたしの口元から手のひらを離して言う。唇から漏れた息が白く色づいて、頭がぼんやりとした気がした。それでも、しろちゃんが何を望んでいるのかだけは考えなくてもわかるのだから、わたしも相当彼に溺れている。


「しろちゃん、大好き。しろちゃんだけだよ」
「うん、僕も、名前ちゃんだけを愛してるよ」


そう言って、唇を合わす。少し空いた隙間からしろちゃんの舌が滑り込んでくるのも厭わず、彼にしがみついた。ここが路地裏だとか、お互いスーツのままだとか、そんなことはきっとどうでもいいのだろう。彼がこうなった以上は彼の満足いくまでわたしが彼のものになる以外、この濡れた欲情を散らす術などないのだから。





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