馬を駆り、残兵を率いて本陣へと帰参する途中、家康は馬上から焦土と化した無残な戦場にぽつんと残っている鞘を見つけた。
 家康は手綱を引きそうになるのを、すんでのところで堪えた。今すべきことは、生き残った兵を無事に帰し、休ませてやることだ。
 黒く焦げてた滑車の下に落ちているその鞘を一瞥すると、勇み足にならぬよう用心しながら馬を先へ進めた。


「確か、この辺りだったはずなんだがなぁ」
 家康は1度、兵を送り返すとその足で死臭と残り火の燻る戦場へと取って返した。
 馬を駆り、目印にと覚えていた半分焼けた落ちた滑車に辿りつき、家康の目と気を惹いたものを探し当てる。
「これは・・・」
 美装を拾い上げ、改めて鑑した。
 蒲葡と青褐の螺鈿細工の鞘に若紫の下緒。
 「間違えないな」
 鞘尻を見れば大一大万大吉の旗印。
 これは、平素三成の腰に挿され、その流麗で残酷なる刃を納めている鞘だ。深く重みのある色合い故に華美には見えぬ代物であれど、しかしその形が既に一つの美として完成されている鑑賞用ではなく、実用に用いる気が知れぬ、などと言われているほどの一品だった。
 三成は、滑車を使うときや敵兵を斬って血路を開く際に、鞘を口に銜えることがある。
 滑車を使って移動しているところに敵襲があって、銜えていた鞘を取り落としたのであろう。
 しかし、三成が討ち死になどするわけもなく、またその報も家康の耳には入ってはいない。三成にしては珍しいことであるが、是非もない。今日の合戦はそれほど熾烈を極めていた。家康など、鞘どころか命すら落としそうになった程だ。
 家康は襤褸襤褸になった指先で鞘の輪郭をそっと辿ってみた。
 鞘尻から返し角を過ぎて栗形に至る手前で、指が小さな二つの窪みに触れた。
 その二つの痕を改めてから、裏を返し家康は納得した。
 その窪みは、三成がを鞘を銜えた痕だった。
 鞘の両側面には家康が気がついた二つ以外にも小さな楕円状の傷痕がいくつもあった。三成に噛まれたことによって貝細工が凹み、細かく罅割れたのだろう。
 三成の鞘に跡があるなんて、三成以外の他の誰ぞ知る物がおろうか。いや、あるまい。
 ほんの些細なことを知っただけなのに、家康は楽しくなって少し笑った。
 三成は月下の白刃を思わせる白い細面に激しい昂ぶりを映す。家康などいつも怒鳴られてばかりだ。まれに過激な言葉ばかりを吐き出す薄い唇がめくれて、歯がのぞくことがある。
 三成の糸切り歯は先端が鋭く尖っていて、それはまるで獲物を咬み裂くための狼や野狐(やかん)といった獣の牙を連想させる。
 家康の手に触れた特に目立った二つの傷は、何度も三成の糸切り歯に噛まれた痕なのだろう。
 三成の唇と白く鋭い綺麗な歯を思い出して、あれに咬まれたらさぞ痛かろうと思うと笑気より先に背中から腰にかけて痺れにも似た感覚が湧き上がった。
「三成・・・」
 吐息交じりその名を口遊んで、鞘を押し戴くとその噛み後に唇を寄せて、目を閉じ、くちづけた。
 青と紫の螺鈿細工が唇に冷たく、鞘の主に似つかわしいことよなどと考えながら家康は鞘をゆっくりと胸に抱きしめた。



 了
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