山口郵便は二週間に1通から3通くらいの手紙を運ぶ。取扱いの書簡の宛先は月島蛍に限定されている。書簡の内容は(多分)ラブレターかファンレター。だからリターンアドレスに書かれている名前は概ね女子と相場が決まっている。 「ねぇ、山口君。お願いがあるんだけど」 ほら、今日もまた恋する乙女が可愛らしい封筒を手に山口郵便の扉をたたく。 「お前、よく飽きずにこんなことするね」 月島蛍が硝子玉のような目で、3通の手紙を差し出した山口郵便こと山口忠の雀斑の浮いた顔を見返した。 割とおしゃべりな山口の唇が、真一文字に結ばれている。 いつもの部活の帰り道、二人の分岐点でお互い立ち止まり、近くにいるのにお互いの顔がよく見えない逢魔ケ刻の中で少し見つめ合った後に月島が「じゃあね」と言い、山口が幾許かの間を開けて少し硬い声で「バイバイ」と返した。 特筆するべきこともない、いつもの別れの挨拶だった。山口は動かない。彼はいつも月島の背中を見送ってから自らも踵を返すのが日課だった。月島はそれを特に不自然には感じていなかった。山口の視線が月島に注がれているのは何も別れしなだけではない。 だから、今日も月島は背を向けて歩き出したのだが、角を曲がる直前で、山口だけに呼ぶことを許した名前で呼び止められた。 「ツッキーッ!!」 切羽詰まった声に、なに?という訝しむ気持ちと面倒くさいという気持ちに眉根を少しだけ寄せた。 振り返れば15、6歩程度の距離を駆け足で詰めた山口がガチガチに緊張した面持ちでスクエア型のエナメルバックの開いている口に手を突っ込みごそごそとやった。 待つこと10秒。鞄の中に取り出されたのは桃色、水色、茶色の3通の書簡だった。 そして、月島のセリフを以て冒頭に戻るのである。 山口郵便は羨ましかった。 何が? 恋文が。 だが、恋文を自分が貰いたいわけではない。決して月島蛍が男としてやっかんだりしているわけではない。自分がモテないのが悲しいわけでもない。 包み隠さず言うのであれば、月島蛍に恋文を送ることのできる少女たちが羨ましかった。 月島に好きだと言える少女たちに、いいな……と一人ごちたことがあった。聞きとめるものは誰もいなかった。 一通、二通、三通、四通……いくつもの書簡を運ぶ山口郵便の胸にある気持ちは誰もしらない。 それでも、もし月島が書簡のリターンアドレスの名前に興味を持てば、喜んで(という態度で以て)返信を少女某のところへ運ぶつもりだった。もちろん、月島が自分で返事をするのなら、山口郵便の出る幕でないことであることも理解していた。 しかし、月島蛍はまるで無慈悲な夜の女王のように届けられた書簡を気まぐれに一瞥するだけで、少女たちの恋心と下心に沈黙を以て応えるばかりだった。 とある時、山口郵便は一日に二通の書簡を預かった。 これは少し珍しいことだった。こんなに何通もの書簡を運んでも、月島のお眼鏡にかなうセンテンスは未だない。山口郵便は今回もそうなのだろうなと希望的観測を交えながら邪推した。 「あ」 ぴくりと山口郵便の触覚のようなアホ毛が揺れた。 思いついてしまったのだ、ささやかにして彼にとっての最大の悪巧みを。 「あの、ツッキー。帰り際にごめんね。その、女の子たちから預かったんだけど渡すの忘れちゃって……」 「……今、このタイミングで預かったことを思い出したの?」 「あ、うん。そうなんだ。今日中に渡さないとずっと渡せないような気がして。預かったのに、渡すの忘れたら書かれた手紙がかわいそうだから」 「なんなの、それ?意味がよくわからないんだけど」 山口は月島に曖昧に笑って何も言わなかった。 月島はふっと溜息をついて、まるでカードゲームの手札のように扇形に広げられて差し出された書簡に手を伸ばして、ばばぬきのように一通だけを引いた。 それは色気もそっけもない事務用クラフト封筒だった。 「この茶色い封筒をくれた匿名希望の子って、誰?」 書簡の差出人に記入がないことに確認した月島が問うと、山口郵便は宮城の冬の冷風に曝されたように固まった。ぶわっと額から噴き出したのは冷や汗だった。 「ねえ、どんな子だった?お前の眼から見て、可愛い子だった?」 月島が手紙の差出人について何かコメントを求めたことは今までに一度もない。それなのに、何が月島の気を惹いたのだろうか? 「えっと……あまり、可愛くなかった、かな。影の薄い、つまんなさそうな奴だった、よ。桃色の封筒の子は背が小さくて目が大きくて可愛かった。水色の封筒の子は色白で綺麗系の子だったよ」 「桃色と水色については聞いてないよ」 「ごめん。あー、手紙は渡せたから俺もう帰るね。なんか、練習で疲れちゃったし。バイバイ。また明日」 山口郵便は持っていた桃色と水色の書簡を月島に押し付けると、踵を返して脱兎のごとく駆け出した。 山口が月島を見送らずに帰ったのは、これが初めてだったであろう。 帰宅後、山口は自宅の浴槽になみなみと張られた湯に頭まで浸かりながら手をすり合わせた。 ふわふわしたボプカットがよく似合う笑うと笑窪の浮かぶ可愛い子から頼まれた桃色の書簡、肩につくくらいの長さのまっすぐで真っ黒なストレートヘアーが印象的な肌の白い綺麗な感じの子から頼まれた水色の書簡、最後に追加されたのが事務用クラフト封筒。山口郵便に茶色書簡の配達依頼した差出人は特筆することがなくらい地味で、平平凡凡を絵にかいたような冴えないヤツだった。山口郵便を利用した中で、最も可愛くないしレベルが低い。 「明日、ツッキーから何も言われませんように。どうか、ツッキーがすべてをスルーしてくれますように」 水中で唱えられた祈りの言葉はゴボゴボゴボと音を立てて大小さまざまな泡沫となって、入浴剤で緑色になった水面で弾けて消えていった。 恐れていた夜明けがきて、山口はのろのろと布団から這い出した。ずる休みをしてしまいたいくらい気が重かったが、実際に休むこともできずに朝練へ行った。携帯電話には誰からのメール着信もなかった。 部室に入ると、すでに一年生はみんな体育館へ行ってしまっていた。ほっとしたが、もうすぐ上級生がやってくるので急いで着替えをした。 山口の頭の中には、月島のことでいっぱいだった。 体育館へ行ったらとりあえず挨拶をしなくちゃ、と考えていると部室の扉があいた。もう、上級生が来てしまったのかとドキリとしたが、部室に入ってきたのは上級生ではなく月島だった。 「あっ」 思わずといったように口から零れ落ちた無意味な音。月島も当然それを黙殺した。 黒い烏野のジャージに身を包んだ月島が、山口に迫ってくる。 山口は呼吸を止めて、じりじりと後退した。とん、と背中がロッカーにぶつかった。 追い詰められた山口と追い詰めた月島が見つめあった。 眼鏡のレンズ越しの視線が、山口の汗顔に突き刺さる。 月島はジャージのポケットから何かを出した。それは宛名の書かれていない白い封筒だった。 「返事、渡してくれるよね?」 月島蛍から初めて依頼される返信の書簡を、山口郵便が断れるはずもなかった。 一人取り残された山口郵便は途方に暮れていた。 これは茶色い書簡の差出人への返信だということがわかった。 今まで差出人が書かれていない書簡を山口郵便が取り扱ったのはたったの一件しかなかった。 「やっぱり、悪いことすると罰があがあたるのかな……」 こんなに沢山ツッキー宛の手紙があるんだから、きっとバレない。差出人に名前を書かなければいいし、偽名を使ったとしてもツッキーは気にしない。それに、ちらっと目を通しただけですぐに丸めて捨てられるかもしれないし。でも、いいんだ。気持ちが一度でも届けば、あとは捨てられてもいい。一方通行「でも」いいとかじゃなくって、返事を待ってなんかいないんだ。受け取ってくれるだけで満足なんだ。だから、ツッキーに向かって、俺がツッキーをどう思っているかを表現できれば、十分なんだ。 雀斑の浮く地味な横顔に思いつめた表情を浮かべた少年から匿名で依頼された茶色い書簡を、月島蛍宛の荷に積んで運んだことを山口郵便は深く後悔していた。 でも、今手の中にある白い封筒の中にあの月島がしたためた私信書が入っていると思うと山口郵便はなんだかとてもたまらない気持ちになって、一分間のあいだ煩悶した。 悩みに悩んだ挙句、山口郵便はその肩書きをかなぐり捨てて白い封筒の封を切った。 二枚の便箋のうち、一枚は白紙だった。もう一枚に書かれていたのはたったの一行。見覚えのある少し神経質そうな細長い文字は月島がさりげなく愛用している万年筆のブルーブラックのインクで書かれていた。 匿名希望の冴えない少年は万年筆を使っている月島を密かにカッコイイと思っていた。 たった一行の短い文章を繰り返し繰り返し読み返して、匿名希望の冴えない少年、山口忠の眼の淵が赤く染まり焦げ茶色の瞳が潤んだ。 すん、と小さく鼻をすすると山口は月島からの宛名のない手紙をぎゅっと胸に抱きしめて囁いた。 「ツッキー……大好き」 それは、茶色の書簡の便箋に何度も書き綴った言葉だった。 了 |