窓ガラスの向こうは、雲ひとつない晴天。秋晴れというには少し暦から外れるかもしれない、と思いながら黒子は4限目の古典の授業を受けていた。耳に優しく響く今年定年になる女性教諭の声を、オレを眠りに誘う子守唄にこきえるとコメントしたのは黒子の前の席で背中を丸めて座っている火神だった。
 授業開始から二十分が過ぎた頃、大きな背中がゆっくりと右に傾いだ。あかい頭も少し揺れている。人肌よりも少し高い温度を伴う穏やかな日差しが窓から差し込み、体をゆるゆると暖められてた火神が気持ちよくなってうとうとしているのは仕方のないことだ。古典の授業が始まる前の休み時間に学校の自販機で売っている菓子パンを二つも平らげていたのだから、小腹も満たされている。
黒子は板書する手を止めると、持っているシャーペンの先を火神の背中に伸ばしたが、一度その手を引っ込めた。わざわざシャーペンを置いて、人差し指で火神の背中を今度こそ突いた。
ほんの少しだけ触れた黒子と同じ誠凛の制服を着た背中の感触は、とても温かくていい手触りだった。もっと触りたい、掌全体で背中を撫でてみたいという欲求を誘発したけれど、それは当然黙殺した。
火神の背中が驚いたように跳ねたからだ。これで、自分が船を漕いでいたことに気がついただろう。
黒子の悪戯にも似たこの合図は、一日に何回か繰り返される。ことの発端は中間考査で殆どの教科で赤点ギリギリの点数を取った火神を説教していた相田リコからの依頼だった。
『授業中、バカガミが居眠りしてたら起こしてちょうだい。いい、後ろから椅子を蹴飛ばしてもかまわないわ。自分の家で勉強なんかするわけないんだから、最低限授業に出て、ノートくらい取らせなくっちゃ。このままじゃ期末試験で赤点とるわよ、バカガミのヤツ』と
先輩でもあり、監督でもあるリコが怒りと心配が綯い交ぜになりながら眉尻を吊り上げていたので、黒子は素直にハイと返事をした。
それから、黒子は火神が居眠りをすると必ず背中を突いているのだ。
前の席から、小さく欠伸をする音が聞こえたが、ぴぃんと背筋を伸ばして首を回した。目を開けていようという火神なりの努力なのだろう。
 でも、それも長くは続かないことを黒子は知っている。古典の授業の時、火神は必ず2回以上は船を漕ぐのだ。
古典は火神の特に苦手な科目のひとつであったし、授業そのものも面白おかしいものではなかった。また、講義形式で、教諭に質問されて回答させるというスタイルではないから、火神に限らず寝てしまう生徒は多いのだ。教諭の講義の内容が理解できないことは勿論、今やっている枕草子など火神にとっては、どうしてこんなものを読み解けるようにならねばならないのかが理解できないらしい。
こうなってくると、寝るなと言う方が難しい注文なのだ。けれど、それは学生の本分。文句を言っても仕方ないことだし、なにより部活にも影響するとなると火神もとにかく努力するしかなかったのだ。
だが、黒子の予想通りまたしても火神はこっくりこっくりとし始めた。光に照らされている火神の背中は、まるでどこかのベランダに干されている布団のようで実に気持ちよさそうだった。あかい髪の毛からちらりと覗いている耳もほんのりと色づいている。
黒子は再び火神の背中に手を伸ばして火神を突いた。
二度、三度、四度まで繰り返しても反応がないから、今度は掌全体で背中をぽんぽんとしてみた。それでも、駄目で黒子はひとさし指で広い背中に文字を書いた。
かがみくん、おきてください。
いねむりしてたら、かんとくにおこられますよ。
おい、ばかがみおきろ。
ああ、駄目です。完璧に寝てしまいましたね、と黒子はひっそりと溜息をついた。
こうなったら、もう起きないだろう。
それなら、と黒子は自分の中に沸き起こったささやかな衝動のままに火神の背中にメッセージを残した。

かがみくんへ
ぼくはきみのことがとてもすきです。
きみとであえて、いまきみとすごしているしあわせをぼくはいっしょうわすれません。
11がつ10にち くろこてつや より

指先を筆先にして、隠す気はないけれど、告白する気もない想いを黒子は秘密のラブレターとして火神の背中に書き綴った。
隣の席の女子も暖かな日に照らされて、顔を火照らせながらノートにカリカリとシャーペンを走らせていた。
火神の背中からそっと戻した指先が酷く甘かった。暫くノートをとるためにシャーペンを握ることすらせずに、余韻を味わう。今、シャーペンを握ったら硬いプラスチックに火神の背中の感触を消されてしまうような気がしてならなかった。
起きているわけがないと思いながら、息を殺して黒子は火神の様子を伺っていたが、リアクションはなかった。
だけど、それは黒子が見過ごしてしまっているだけだった。
火神の耳はとても綺麗な薔薇色に染まっていたのだ。




 昼休みが終わる五分前に、火神が黒子を誘った。
「なぁ、午後の授業抜けねぇ?」
 サボタージュの誘いだった。今までにこんなことは一度もなかったため、黒子は少しだけ驚いた。因みに5限目と6限目はALTが入る英会話と体育だった。どちらとも火神がそれなりに楽しめる科目だ。
「公園で、1on1しようぜ」
 火神がニヤリと尖った犬歯を覗かせて笑った。黒子は目を細めて火神を見つめ、魅力的な誘惑に抗ってみたが所詮は無駄な足掻きだった。
 火神と黒子は英語教諭たちと廊下で遭遇しないように気をつけながら、築一年という校舎の真新しい廊下を掛けた。

 火神くん、急に止まらないでください。
 しっ!いま階段を先生が登ってきてんだよ。通り過ぎるまで静かにしろよ。
 この角に隠れてれば、階段からは死角になってこっちは見えません。それより、火神くんの声のが大きいです。

 笑顔でこんな軽口を叩きあいながら、二人はバスケットボールだけを小脇に抱えて誠凛高校の校門を飛び出していった。


 麗らかな秋の陽気に、誘われた小鳥達がバスケットゴールがひとつ、鉄棒がひとつ、ブランコがふたつしかないこじんまりとした公園のベンチの下で戯れていが、ガツンという音に驚いて飛び去っていった。そうすると、もうこの小さな公園に残っているのは黒子と火神の二人だけだった。
音がしたのは、バスケットゴールからだった。
さながら大きな鳥が翼を広げるかのようにして飛び上がった火神が、手にしていたボールをゴールに叩きつけてダンクをした。
この瞬間が、黒子はとても好きだった。
何度見ても見飽きない。何度でも見たい。そして、火神が決める全てのゴールまでの道のりを黒子は同じチームメイトとして傍にいて支えるつもりなのだ。
「そろそろ時間です」
 いつもの癖で額に流れる汗を手首で拭いながら黒子はベンチにかけていた学ランのポケットから携帯を取り出して時間を確認すると、火神に学校へ戻ることを促した。
「もうそんな時間かよ」
 楽しい時間というものは、あっという間に過ぎるというが火神にもこの理論が該当していればいいと考えながら黒子は一緒に置いてあった火神の学ランを手にとった。
「行きましょう」
 インナーのTシャツの裾を捲り上げて無造作に顎を伝い落ちる汗を拭っている火神に学ランを差し出した。
 黒い布からちらりと見えている火神の赤味を帯びた健康的な肌艶に、この陽気に似つかわしくないセックスアピールを感じて少しクラリとした。
 黒子の目が眩んでいることなど、全く気がついていない火神がどこか幼子を思わせるような仕草で「ん」と小さく頷いて近づいてくる。こんな些細な火神の言動ひとつが黒子には好ましくてたまらなかった。
 気持ちが好きという二文字に収まらない。物足りないと黒子は思うのだけれど、一方で好きという言葉が無限大の意味と感情を内包しているということも知っていた。
 火神は目の前まで来ると立ち止まり、少し体を前傾させたままじっと黒子の顔を見つめる。黒子も、火神を見つめ返した。 
 見つめあったまま、しばらく言葉もなく佇んでいると、火神の頬が次第に紅潮し、最後には薔薇色に染まった。ぷるぷると小さく震えながら火神は手を伸ばすと黒子の白いシャツに包まれた胸元に指先でメッセージを書いた。
 日本語ではなく、英語だった。とても簡単な単語ふたつを並べただけだったけど、黒子は白昼夢でも見ているのではないかと自分が存在している世界を疑った。
 KISS ME!
メッセージというよりも要求といった方がしっくりした。
火神は顔を赤くしたまま目を瞑っていた。
  キスくれ!なんでさっさとくれねぇんだよ!
 という催促にいも似た誘い文句が聞こえたような気がして、黒子は反射的に火神の背中手を回すと自分の方へ引き寄せて唇に唇を重ねた。
 口づけるときは素早かったけれど、離れるのはとてもとてもゆっくりだった。




 二人が学校に戻ると、すでに部活は始まっていた。監督は当然のように黒子と火神の二人に外周を走ってくるように罰走を申し付けた。
 肩を並べて走っていたが、火神が黒子よりも少し前に出た。
「11月10日って日、これで忘れらんねぇだろ?」
 抜き際に独り言のように呟かれた火神の言葉に、黒子は目を見開いた。
 自分が古典の授業中にしたことを、示唆されているのだ。火神は、黒子のラブレターをちゃんと受け取っていたのだ。書いただけで、伝わらないまま誰も知らないまま闇に葬りさられるはずだった言葉に光をあてて掬いあげてくれた。
 ああ、火神くん……やっぱり、キミはボクの光だ。
 どんどんキミに惹かれていく。これ以上、好きになってしまったら、自分はどうなってしまうんだろう。
 黒子は胸を激しく喘がせると、前にいる火神の隣に再び並ぶべく苦しい呼吸のままにスピードを上げたのだった。




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