Le ciel croche | ナノ
──ニーナがビビとチョッパーに、エルフィンである事を打ち明けてから、二日後。
ルフィが三日振りに目を覚ましたことを受けて、宮殿では大宴会が催された。飲めや踊れやの大騒ぎに、初めは顔を引き攣らせていた兵士たちも、最後は涙を浮かべるほどの大爆笑。大いに盛り上がった祝宴の後、コブラ王の粋な計らいで、麦わら一味は宮殿自慢の大浴場に招かれた。
「わあ、すごい」
「ほんと! 広〜い! 素敵!」
見た事もないほどの大きな浴室に、ナミとニーナは足取り軽く歩みを進める。
そんな中、洗い場に向かう彼女らに続く足音がしないことに気が付いて、二人は揃って後ろを振り返った。
「「ビビ?」」
「……あっ、ご、ごめんなさい!」
「?」
「ははーん、分かったわ」
声を掛けられて初めて足を止めていた事に気付いたかのように、ビビは小さく肩を揺らす。
一足遅れて駆け寄ってくる彼女の、恥じ入るような表情と謝罪の言葉。ニーナは首を傾げるが、ナミは合点がいったとばかりに右手を顎に添えた。
ビビとニーナを見比べて、ニーナの背中側に回ると、バスタオルで隠されていない部分をつんつんと突く。
「確かに、目の前にあったら見ちゃうわよ。一見分からないわね?」
「そ、そんなに見ちゃってた……?」
「……ああ、背中ね。出してない時はなんにも見えないし、触れないし、痕も無いんだよ」
二人の注目の対象は、エルフィンが純白の翼を広げるその根本。ストレートに告げられた疑問に、ニーナは何てことないようにさらりと答えを返す。
ぺたぺたとニーナの背中を触るナミは、ふと思い出したように切り出した。
「そういえば、実は前から気になってたんだけど。ローグタウンで羽根出ちゃった時、それをゾロが拾ったんでしょ。でも、翼自体は誰も見てない。どういうことなの?」
「力の解放には段階があってね。今は出力ゼロだからなんにも無いんだけど、一段階出力すると『具現化』できるの。こんな感じ」
ナミから一歩離れて一拍置いて、ニーナは自身の背後を指し示す。わずかに微風が通り過ぎた以外は、何の変化も見られない。
頭に疑問符を浮かべるナミとビビを見て、ニーナは一度羽ばたいてみせた。
「見えないけどあるよ」
「あっ、風が」
「わ、ほんとだ、触れる」
翼が存在するであろう空間に手をやれば、ナミの掌に柔らかい羽毛のような感触が伝わる。
すごいすごい、と歓声を上げるナミにつられて、ビビもおずおずと控えめに手を伸ばした。
ビビが翼に触れるのを横目で見ながら、ニーナは更に言葉を続ける。
「この段階だとそこまでの強度は無いから、ちょっとした大ジャンプ程度しか飛べないの。ちゃんと“飛行”しようと思ったら、この次の段階が『可視化』」
「あっ」
「わぁ……」
その単語が表す通り、言葉と共にニーナの背中からぶわりと純白が広がっていく。
あっという間に全貌を見せたエルフィンの両翼。目の当たりにするのが二度目や三度目であっても、新鮮な感嘆の声が漏れる。
きらきらと目を輝かせる二人に、ニーナはくすりと微笑を零して、先ほどのナミの問いに答えを返した。
「ローグタウンの時は、勿論具現化だけのつもりだったんだけど、さすがに焦ってたからね……。調整が上手くいってなかったんだと思う。反省しなきゃ」
「ニーナさんが焦る程の事って、一体何があったの……!?」
これまでの旅路を思い返しながら、ビビはニーナの言葉に目を丸くする。
巨人に恐竜に海王類、仲間の病気に食糧危機、自然の脅威に強大な敵。心臓がいくつあっても足りないような、驚きの連続だった航海のさなか、ビビの見てきたニーナはいつだって冷静で、落ち着いた様子を崩さなかった。そんな彼女が焦る事など、相当な大事件だと察するに余りある。
ほんの少しのためらいと、それを上回る隠しきれない好奇心を孕んだビビの声に、ニーナはいつもの調子で言葉を返す。
「んん、ローグタウンって、海賊王の処刑台がそのまま残ってるんだけどね。ルフィが敵に捕まっちゃって、まさにそこで首刎ねられそうになって」
「ええっ!!!?」
「ゾロとサンジと阻止しようとしたんだけど、いよいよ危なくなって。どう見ても間に合わないから、超人系能力者のフリできる程度にこっそり飛ぼうとしたら、処刑台に雷が落ちて。それで助かったんだよね」
「それは……ルフィさんって、本当に……なんというか……」
「悪運が強いというか、なんというかね……」
「ふふ、……でも、そのお陰でもあるから」
驚くビビと呆れるナミに少し笑って、ニーナは翼の具現化を解いた。再び洗い場へと歩き出したニーナを、二人は揃って追いかける。
ずらりとシャワーが並ぶ洗い場に、椅子と桶が三人分用意されているのを見つけて、ニーナはビビを振り返った。
「これ使っていいんだよね? なんだか、広すぎてそわそわしちゃうよ」
ゆるく笑顔を見せる彼女の表情は、ビビが出会った当初よりも柔らかい。
ニーナが漏らした独り言のような言葉は気になりつつも、突っ込んで聞くことはせずに、ビビは彼女の問いに答えを返す。
「ええ。これがシャンプーで、ボディソープで……」
ビビの説明を受けつつ、ニーナはポニーテールを解いて下ろした髪を、ナミは身体を洗い始める。
湯の注がれる音をBGMに、三人はとりとめのない話に花を咲かせる。
いつだって賑やかなこの一味との関わりで、アラバスタへの旅の途中でも、ビビの顔に笑顔はいくらでもあった。それでも、不安に蓋をしながら前を向いていた今までと、どれだけ重かったかしれない肩の荷が下りた今とでは、笑顔の種類も随分と違う。
憂いの一切が無くなった彼女の本当の笑顔に、ナミとニーナは密かに目を合わせて笑った。
「気持ちいい〜〜。こんな広いお風呂が付いた船ってないかしら」
ビビに背中を洗われながら、大浴場を改めて見渡したナミが感嘆の声をあげる。
「あるわよきっと。海は広いもの」
「そうだね。巨人族が海を渡れるんだもん。広ーいお風呂が付いた大きな船、ありそうだよねえ」
ビビの肯定の言葉に、ニーナはリトルガーデンを思い出しつつ相槌を打つ。
巨人、という単語に頷いたビビは、目を輝かせながら言葉を続けた。
「ええ。巨人もいた、恐竜もいた、雪国には桜も咲いた…………海にはまだまだ想像を越える事がたくさんあるんだわ!!」
巨人に恐竜に海王類。それは確かに驚くべき脅威ではあったものの、無事に過ぎ去ってみれば懐かしい思い出のひとつ。
本人に自覚があるかは定かではないが、ビビの言葉の端々に滲むのは、冒険への憧憬。
そんな彼女を、ナミとニーナはどこか見守るような表情でじっと見つめる。
「あっ、その……」
「交代」
「う…うん、ありがと」
(……ビビはまだ、旅がしたいのかな)
──それは、思い付いたとしても、ニーナから尋ねることはできない問い。
背中洗いを交代する二人を横目で見つつ、ニーナは洗い終わった髪をぎゅうっと手で絞る。
ゴムで軽くポニーテールを結って一息つけば、普段の彼女からは考えられないほどに仕事をサボっていた両耳が、塀の向こうの異音をようやく拾った。
「あ」
「ん?」
声を上げたニーナにつられて、ナミも後ろを振り返る。
男湯と女湯を隔てる高い塀の上には、あろうことか、7つの頭が顔を覗かせていた。
「あーあー……」
「ちょっとみんな、何してるの!!?」
「あいつら……」
こんな時でも動揺しないニーナ、当然のごとく驚きの声を上げるビビ、呆れの溜息を漏らすナミと、その反応は三者三様。
堂々と覗きを決め込む彼らに向かって、ナミはなぜかそのまま風呂椅子から立ち上がる。
そうして、彼らの方を向きながら、身体を隠していたバスタオルを、はらりと取り払ってみせた。
「幸せパンチ!! ひとり10万よ」
「「「ぐあっ!!」」」
「ナミさん!!!」
「っふ、あはは……!」
「ニーナさんまで! もう!」
思いもよらないナミの行動に、男連中は衝撃で塀から転げ落ち、ビビは誰より真っ赤になって悲鳴をあげる。
珍しく噴き出したような笑い声をあげるニーナに、ビビは困ったようにナミとニーナを見比べた。
*
「………迷ってるんでしょ………」
「え?」
覗き騒動が収まって、身体も髪も洗い終えて、三人並んで湯船に肩まで浸かって数分。
前置きなく口を開いたナミに、ビビは疑問の声を返す。
「私達ね…今夜にでもここ、出ようかと思うの」
「え!? ほんと!!?」
「だってもう居る理由がないじゃない。船長も目を覚ましたし、港にはたぶん海軍も構えてる。船もそろそろ危ないわ」
「んん、実際毎日、宮殿前まで来てるもんね。チャカさんとかが止めてくれてるけど」
「………」
戦いが終わったあとの、束の間の休息。まるでご褒美のようだった楽しい時間は、限りのあるもの。
分かってはいたはずの現実を目の前にして、ビビは思わず口を噤む。
そんな彼女の横顔を見つめていたニーナは、しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「……さっきの話の、続きなんだけどさあ」
ナミとビビとの視線を受けて、ニーナは一呼吸置いたあと、穏やかに言葉を続ける。
「あたしは元々、東の海で一人旅してたんだけど、ルフィがあたしの船壊しちゃったのがきっかけで、メリー号に乗せてもらうことになったの。さっき言ってたローグタウンまでの、期間限定の約束でね」
「えっ……?」
「………」
双子岬以前の出来事を知らないビビに向けて、ニーナは東の海での経緯を語り始める。
あまり自分の事を語らない彼女の、稀に見る思い出話。同じ時間を過ごしてきたナミも静かに見守る。
「ルフィは仲間に誘ってくれたけど、断るつもりだったの。勿論、自分がエルフィンだって事も、言うつもりは無かった。船が無いのは困るから、その時目的地にしてたローグタウンまで乗せてもらって、そこで別れておしまい。あくまで、一時的な同乗者のつもりだった」
記憶に残る東の海を眺めているかのように、ニーナは湯船の水面を見つめながら話を続ける。
「それからしばらく一緒に旅をして、その間に色々あって……。全部話すと、一晩じゃ足りないから省略しちゃうけど、ほんとに、自分の考え方が変わるくらい、色々あって。あたしも……出来る事なら、一緒に行きたい。もし打ち明けたとしても、ルフィなら、この船のみんななら、受け入れてくれるかもしれない、って、思っちゃったんだよね」
「………」
“色々”の中身を知るナミは、ニーナを見つめてゆるりと頬を緩める。
──色々あって、自分の考え方が変わった。一緒に行きたいと思った。それは彼女にとっても同じこと。
穏やかな表情で語っていたニーナが、「でも」と小さく前置きした。ニーナの少し下がった眉尻を見つめながら、ビビは黙って耳を傾ける。
「勝利と安定の象徴だなんて言うけど、結局のところ、エルフィンが居るってバレたら、世界中のいろんな組織が敵に回る。利用しようと思うか、厄介者だと思うか、大抵はこの二択で、安定どころじゃない。例えそうじゃなくたって、人柄が信じられたんなら、なおさら巻き込めない。だから、残念だけど、黙ったまま降りるつもり、だったんだけど……」
「……けど、ルフィは聞く耳持たなかったわよね?」
「うん。ローグタウンで一旦降りるときに、『ちゃんと帰ってこい』って言われた」
「ふふ、ルフィさんらしい」
ニーナの尻すぼみになった言葉をナミが引き継げば、ビビはくすくすと笑いを零す。
「……で、そのローグタウンで、さっき話した処刑台騒動があって。うっかり落としてた羽根をゾロが拾ったの。それでバレちゃった」
「それだけで!?」
「んん、普通の人なら絶対気付かないけど、ゾロは元々“海賊狩り”だから。あたしの手配書に覚えがあった上で、手掛かりが揃っちゃったのかな」
「手配書?」
「そ、顔は出てないんだけどね」
「ニーナったら、これでルフィより賞金額高いんだから。7500万ベリーよ」
「ええっ!!!?」
ようやく話が繋がったところで明かされた新たな情報に、ビビの驚きの声も裏返る。
一見した者に何の脅威も感じさせない、十代の小娘に懸けられた莫大な懸賞金。先程ニーナが漏らした『巻き込めない』という言葉の重さを、ビビは改めて噛み締める。
──ただ、それでも、ニーナはローグタウンで麦わら一味と別れてはいない。
「あいつはエルフィンだから一緒に行けないって言ってるが、どうする? っていうゾロに、ルフィはそんなの関係ないって言ってくれた。最初はあたしを思いっきり警戒してたゾロだって、それ聞いて『ほら見ろ』って言わんばかりに笑ってた。なんかもう、拍子抜けしちゃったよ」
話が終わりに近付き、ニーナは言葉の通り、ストンと肩の力を抜いた。
「後になって思えば、あんなに人が沢山居るところで、能力使ってでも助けたい、って動いてた時点で、あたしにとってのルフィや皆は、もうとっくに仲間になってたんだ。それでも、あたしがやっぱり一緒に行きたいって決めて、伝えて、皆が受け入れてくれたから──あたしは今、ここにいられる」
そのお陰でもあるから。独り言のように漏らし掛けて止まっていた言葉。
続く話を丁寧に紡ぎ終えて、ニーナはビビと正面から目を合わせる。
「だから……んん、だから何ってワケじゃないんだけど。……今、話しておきたいなと思ったんだ。それだけ」
少し照れたように微笑うニーナのその表情は、ビビも、ナミでさえも、初めて目にするもの。
二人は顔を見合わせると、そのままにやにやと頬を緩ませ、やがてじりじりとニーナに身を寄せる。
「えっ、なに、どうしたの」
「うふふ、気にしない気にしない。こうしたい気分なのよ」
「ふふ、ニーナさん、話してくれてありがとう」
「……こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
両側からもたれ掛かってくる二人に挟まれて、ニーナは困ったように微笑んだ。
──アラバスタ最後の夜は、こうしてゆっくりと更けていく。
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