Le ciel croche | ナノ

 ――雨に吹雪に雪男。それよりも何よりも雪山で一番遭遇したくないものが、今まさに、彼らの目前に迫っていた。

「うわあ……」
「やりやがった、あのクソうさぎ共…!! ウソだろ」
「おいニーナ、サンジ、どうしたんだ」
「おい…!! 逃げるぞ二人とも」
「逃げるってどこへ…」
「どこへでもいい…!! どっか遠くへだ…!! 雪崩が来るぞォ!!!」

 ラパーンの群れがどすどすと雪を揺らしてくれたお陰で発生した災害。山の上方に盛り上がった白い塊を見れば、今から襲い来るその威力は計り知れない。
 これから一分と経たないうちにここに到達するそれを見て、サンジの眼には薄っすらと涙が浮かぶ。

「あのうさぎ共、絶対許さねェぞ、畜生ォ!!!」
「どうしたらいい!? どうしたらいいんだよ!!!」
「知るかよ!! とにかく1にナミさん2にナミさん!! 3にナミさん4にナミさん5にナミさんだ、わかったか!! 死んでも守れ!!!」
「わかった!!! だけど、どうやって!!!」
「あれだ!!! あの崖っ!!」
「がけ!!!?」
「走れ!! 少しでも高いところに登るんだ!!!」

 逃げる以外の選択肢などあるはずもなく、サンジはルフィを急き立て必死に走る。しかし、猛ダッシュを始める二人とは対照的に、ニーナは雪崩を見上げたまま釘付け状態。そんな彼女に気が付いて、サンジは勢い良く踵を返す。

「ニーナちゃん!? 早く……」
「ちょっと待って、二人とも!」
「「!?」」

 ――彼らの方へと振り返ったニーナは、決して絶望に立ち尽くしていた訳ではなかった。
 平時の温かい薄茶の瞳に浮かぶのは、きりりと冴えわたる決意の色。珍しくも鋭い声をあげた彼女に、ルフィとサンジは目を瞠る。

「あの規模の雪崩なんて、がむしゃらに逃げて躱せるものじゃないでしょ。……お願いみんな、2分だけ……あたしに、命、預けてくれない?」
「「えっ!!!?」」

 ばさり、言葉の後に響いた力強い音は、彼女の背中に現れた純白の翼が立てたもの。二人が最初で最後にローグタウン沖の船上で目撃したそれよりも一回り大きい。降りしきる雪と相まって、翼自体がきらきらと光を放っているようにも見える。
 天使の実の能力者、“エルフィン”の象徴とも言えるそれを、ニーナが表立って――しかも、可視化した状態で――使うことはまず無い。普段徹底的に隠している翼を堂々と広げる彼女を目の当たりにして、サンジはまるでうっかり裸でも見てしまったかのような焦りようで、慌てて眼前を掌で覆う。

「なっ!? ニーナちゃん!? みみみ見えてる、翼見えちまってるって!!」
「こんな所で、他に誰が見てるでもないよ。言ったでしょ、“選択肢”は多い方がいいって」
「何か手があんのか!? ニーナ!!」
「あそこまで、全員抱えて飛んでくつもり」
「ニーナちゃん! さすがにそりゃァ無茶だ!」

 サンジの言葉をさらりと流したニーナは、ルフィの問い掛けに彼らの背後を指差す。示した先に遠く見えたのは、白銀の雪原にぽこりとコブのように目立つ高台。数百メートル離れているそれを見て、サンジははっと我に返る。
 今まで極力能力を使っていないニーナの、本来の力は彼らにも未知数。それでも、三人抱えるというだけでも、この中で一番小柄な彼女に頼ることは憚られる。そんな思いから出た否定の言葉に、ニーナはふっと柔らかく笑った。

「そうでもないよ? サンジも居るもん」
「え?」

 思わぬ切り返しに、サンジは怪訝な表情を隠せない。
 そんな彼に向き直って、ニーナは彼の瞳をまっすぐに射抜く。

「たぶん、ちょっと動けなくなるくらい力使うし、着いた先も安全かは分からない。でもね、後が任せられるから、ぎりぎりまで全力出せるんだよ」
「しかし……」
「一人じゃ“無理”はできないけど、フォローがあるなら、多少の“無茶”くらい出来るもの」

 刻一刻と迫る雪崩にも、ニーナは焦ることなく穏やかに語る。
 説得せずに強引に掴んで飛ぶよりも、こういう時だからこそ。彼と出会ってから今まで、ひっそりと心に秘めていた本音を、正面切ってサンジにぶつける。

「……ねえサンジ、“女の子(レディ)扱い”も良いけどね、こういう時は……“仲間扱い”の方が嬉しいな」
「……!!!」
「信じてるから、信じてて!」

 にいっと頼もしく不敵に笑った、ニーナの表情は今までにないもの。
 ストレートに向けられたのは、混じりっ気のない圧倒的な信頼。
 この緊急事態に敢えてそれを言ってのけたニーナに、サンジはとうとう白旗を上げた。

「……っ! ……頼む!」
「ルフィ!」
「おう!」

 ニーナの呼び掛けに、ルフィは待ってましたと言わんばかりにぐーんと腕を伸ばす。ニーナの腰にしがみ付いた彼は、長く伸ばした腕でサンジも巻き込み、ナミも含めてぐるぐる巻きに固定した。

「ニーナ、いいぞ!」
「りょーかいっ」

 雪崩が彼らの元に到達するまで、残りおよそ十秒足らず。加速度を付けて襲い来る脅威にも臆さず、ニーナはふうっと小さく息を吐く。
 いつも被っている帽子代わりのバンダナを外し、腰の鞄にぐいっと突っ込む。バンダナの四隅に縫い付けられた小さな黒い水晶が、彼女の右手首から顔を覗かせた琥珀のブレスレットと、微かにこつりと触れ合った。
 それを合図にするかのように、ニーナを中心としてぶわりと風が巻き起こる。ローグタウンを発つ時に、ルフィと共に飛んで見せた時よりも数段強いそれは、四人を守るかのように奇麗なまるい球体を作り上げる。
 ――ニーナの背後に目をやるサンジが、すぐそこに迫る雪の壁に思わず目を閉じたその時。彼女を取り巻く風が、ぱっと弾けた。

「「!!!!」」

 弾けた風を足場に跳ねるように空へと舞い上がったニーナの足元を、唸るような地鳴りを響かせて雪崩が通り過ぎる。ばさり、もう一段大きく翼をはためかせれば、もくもくと立ち込める雪煙を抜けた。

「よしっ!! 越えた!!」

 ほんの数秒で到達した上空十数メートルの世界に、ルフィが大きく歓声を上げる。その反応に小さく口角を上げつつも、ニーナの表情にいつもの余裕は無い。

(っ……やっぱ、流石に、三人は……風使ってても……重い……!)

 下から背中から強風を受けながらも、ニーナは負けじと更に力強い羽ばたきをひとつ。ふわりと身体ひとつぶん、もう一段上空へと昇ったところで、広げた翼全体で下からの風を受け流す。上昇から滑空へ切り替えて空を舞えば、時折突風に煽られながらも、着実に目指す高台へと近づいていく。
 じわじわと高度を落としつつ風を利用して前へと進めば、足下に走るのは未だ速度を緩めない雪崩の名残。少しでも掠めて足を取られてしまえば、あっという間に雪の波へと飲み込まれる。高台までの距離を目算すると、今の高度では、ぎりぎり行けるか行けないかというところ。
 ダメ押しとばかりにもう一つ羽ばたけば、ニーナの視界の端で金の光が瞬いた。

「……!?」
「っはぁ、っ……!」

 風で振り乱される茶色のポニーテールの先にちらついた金色を見止めて、サンジがぽかんと口を開く。しかし、直後に聞こえた苦しげな吐息に、彼の意識はすぐにそちらへ移った。

「ニーナちゃんっ……!」
「頑張れニーナっ!! もうちょっとだ!!」

 二人の声に背中を押されて、ニーナは更にもう一度ばさりと羽ばたく。目指す高台まであと十数メートル、十メートル、数メートル。確実な足場を確認してから、最後にふわりと柔らかく翼を広げた。
 とさり、緩やかな着地で小さく重なった足音を確かめて、ニーナはようやく肩の力を抜いた。

「っ、ふう……」
「うおおおお!! 着いた〜〜〜!!!!」

 ぐるぐるに巻き付けていた腕を開放すれば、ぴしゅんと音を立ててルフィの腕が戻る。元通りの長さのそれを天に突き上げて、ルフィは全員の無事を全力で喜ぶ。

「すげェ! すげェよニーナ! ありがとう!」
「助かった……ニーナちゃん、大丈夫か!?」

 ルフィの腕から解放されて身を起こしたサンジは、大仕事を終えたニーナを気遣い顔色を窺う。つい先刻話題にした透き通るような白い肌は、辺りの雪景色に吸い込まれそうな程に血の気が無い。それでもニーナはサンジと目が合うと、ふっと柔らかく笑って見せた。

「はは……はぁぁ……よかった……」
「おっと」

 額に浮かぶ玉のような汗を手の甲で拭うと、ニーナの背中でシュンと音を立てて翼が消える。身体のバランスが変わったのか、それとも力が抜けたのか。ぐらりと後ろに傾く華奢な背中を、サンジが片手で支える。咄嗟に一歩後ろに下がったその足の、もう数歩分向こうは崖の下。眼下で轟音と共に過ぎ行く雪崩を一瞥して、サンジはごくりと生唾を飲み込んだ。
 再びニーナに視線を戻してみれば、彼女はサンジの右手に背中を預けたまま、瞼を下ろして呼吸を整えることに専念している。その姿を見て、サンジは視線をルフィに向けた。

「……ルフィ、ニーナちゃんはおれが背負ってく。雪崩が過ぎたら先に進むぞ」
「おう!」
「ごめ……ちょっとだけ、よろしく……」

 ルフィは当然だとばかりに力強く拳を握り、ニーナも意外にも素直に提案を呑む。やんわりと断られることも想定していたサンジは僅かに目を瞠ったが、すぐに神妙な顔で頷いた。

「………」

 吸って、吐いて、吸って、吐いて。体の芯まで凍り付かせそうな空気でも、酸素確保の為には致し方ない。青い顔で深呼吸を繰り返していたニーナは、ふと異変を感じてゆっくりと顔を上げた。

「? ニーナちゃん、まだ休んでた方が……」
「……まって、まだ何か、変な音が……」

 ニーナが音の出所を探して辺りを見渡すと、ルフィとサンジもそれに倣う。
 下方から響いてくる、今も続く雪崩に紛れる異音を慎重に探れば、それは唐突に彼らの前に姿を現した。

「ガアッ!!!!」
「「!!!!」」

 撒いたはずのラパーンが一匹、高台の下から突然の大ジャンプ。ちょうど彼らの間に着地点を定めた巨体は、そう広くないこの足場目掛けて急降下。
 ――“あれ”がこのまま降ってきたら、ナミが危ない。咄嗟の判断と優先順位は、ニーナもサンジも同じだった。

「ルフィ、伏せて!」
「うお!」
「悪ィ、ちょっと待ってろよニーナちゃん……『腹肉シュート』!!!」

 落下してくるラパーンに向かってサンジが飛び出し、支えを失ったニーナはよろめきつつもフルートを構えてルフィ達を背後に庇う。一匹、二匹、三匹、四匹。どこからともなく続々飛び出してくるラパーンを、サンジはテンポよく次々に捌いていく。元居た雪原へと落下していく巨体を見送りながらも、ニーナは警戒を緩めず周囲を見渡す。
 そんな時、主流が過ぎ去った雪崩の名残か、山頂方向からころころと転がり落ちてくる雪玉がひとつ。文字通り雪だるま式に質量と速度を増していくそれは、みるみるうちに巨大に成長していく。

「ん? なんだあれ」
「駄目だよルフィ、そのままじっとしてて」

 気づいたルフィが小さく声を漏らしたものの、ニーナは静かに制止する。
 このまま向かってくれば避けられない脅威になるが、対多数を相手にしているサンジの集中を欠くわけにはいかない。ニーナはふうっと大きく息を吐き出して、フルートを握る両手に力を籠めた。

「……っ、“イグニス・ウェルテクス”!!」

 右上に振りかざしてから斜めに一閃。赤黒い石片を散らしながら放たれたのは、熱気を多分に含んだ旋風。その軌道にもくもくと霧を生み出しながら、雪玉に向かって一直線。
 衝突の瞬間、ばうん、と激しい地鳴りを立てると、雪玉は立ち昇る水蒸気へと姿を変えた。

「「!!」」
「おい、ニーナ! 大丈夫か!」
「!」

 ラパーン達もサンジも、思わず戦闘の手足を止める突然の爆音。ちらりと振り返ったサンジの目に、雪に膝を付く苦しげなニーナが飛び込む。はっと気を取られたその瞬間、サンジの視界の端で、ラパーンの太い腕が空を斬った。

「ぐっ……!!」
「サンジ!!!!」

 辺りに響いた沈み込むような重い音は、攻撃が急所に当たった証拠。殴られた勢いそのままに空を舞うサンジの身体は、高台の下へと真っ逆さま。ルフィが焦って腕を伸ばすが、掴んだと思ったその手は、手袋だけを残してすり抜けて行く。
 未だ流れる雪崩の波に背中から落下したサンジは、一瞬でその姿を消してしまった。

「うおおおおおっ!!!? くそっ……!!」

 ニーナは動けず、サンジは流され、ナミの容体は一刻を争う。一人最悪の事態を迎えたルフィは、一瞬の逡巡もなく、即座にナミを固定する紐に手を掛けた。

「ナミ!! 寒いか!!? もうちょっと我慢しろよ!! ニーナ!! これ持って……二人でちょっとここにいろ!!!」

 座り込むニーナにナミを預け、自身の上着を脱いで被せると、ルフィは麦わら帽子をニーナの頭にぼすりと預ける。
 ニーナが口を開く隙も与えず、ルフィは高台から躊躇なく、雪崩の激流に向かって飛び込んだ。





next
もどる
×