Le ciel croche | ナノ

「ただいま〜」

 新世界では珍しい程に穏やかなとある海域。緩やかなさざ波が寄せる浜辺に停泊したサウザンドサニー号に、今しがた帰船したニーナの声が響いた。賑やかな挨拶が返ってこない事にすとんと肩を落として、「あれ、一番乗りかな」と独りごちる。
 船番として残ったはずのゾロを探してトレーニングルームを見上げれば、船内へと続く扉がタイミング良く開いた。

「おう、ニーナか」
「あ、ただいまゾロ。みんなまだ帰ってきてない?」
「ああ」

 滴る汗をがしがしとタオルで拭きつつ出てきたゾロは、ニーナを見とめて声を上げる。甲板へと向かう彼と、キッチンへと向かう彼女と、すれ違いながら言葉を交わす。

「そっか。あたしコーヒー淹れるけど何か飲む?」
「おー」
「おっけー。緑茶?」
「いや、同じのでいい」
「え? カフェラテだよ?」
「色々入れる前のはおんなじだろ」
「……あー、はいはい、了解」

 めずらしい、と小さく呟きつつ、ニーナはドアノブに手を伸ばした。




砂糖とミルクはお好みで




 白いカップに映える黒檀の水面。はい、と言葉を添えて正面に置かれたそれを一瞥したゾロは、さんきゅ、と軽く礼を述べつつ向かいの席に腰を下ろしたニーナへと視線を移す。彼からの注目を浴びている事に気付いているのかいないのか、気にしていないだけなのか。ゾロに渡したものと同じカップに、彼女は角砂糖をぽとりとひとつ。
 ソーサーに添えられていたスプーン片手に、時折控えめな金属音を立てながら、くるりくるりと数回転。常日頃、指揮棒のように軽やかに、意外と重量のある仕込みフルートを振るう手首のスナップは本日も滑らかである。
 カップの底を駆けるころころという軽い音が消えた頃、ニーナが手にしたのは銀色の容器。ふんふんと小さな鼻歌が漏れているのは無意識か、軽快なリズムに合わせて注がれる乳白色。
 渦を巻いて混ざり合った白と黒が、やがて柔らかな茶色に変わる。ちょうど彼女の髪にも似た色を描いたそれに向かって、ゾロがぽつりと呟いた。

「……歯が浮きそうだ」
「そうでもないよ? 砂糖一個だし」

 苦虫を噛み潰したような顔でブラックコーヒーを啜る彼を見て、ニーナはわずかに首を傾げる。
 緑茶でもなく、紅茶でもなく。敢えて指定をしてきたあたり、好んで選んで飲んでいる事には違いないのに。喫茶店店主顔負けの我が船自慢の名コックではなく、自分が淹れたものとはいえ、飲めない程不味いものを出したつもりはない。
 味見のつもりで、手元のカフェラテを一口。まろやかな甘味の中に絶妙に混ざる程好い苦味。ナミにはミルクが多すぎると言われたものの、ニーナが好むいつもの味。ベースになっているものは同じだから、彼が口にしたそれも、そう酷いものではないはずだ。
 口許にカップを添えたまま、珍しく眉間に微かな皺を寄せる。そんなニーナの狭い視界の中で、唐突に眼前に迫ってきた大きな手。

「あ」

 彼女が両手で抱えるように持っていた、まだ熱さの残るカップが軽々と奪われる。ニーナがぱっと面を上げて目で追えば、それはゾロの左手にちょこんと収まっていた。
 カップの中身を見て、ちらりとニーナを見て、もいちどカップに視線を戻して。迷いなく傾けられたそれに、ニーナは再びあっと声を漏らす。
 一呼吸分の時間のあと、ことり、軽い音を立ててカップがニーナの前に戻された。ゾロの様子を窺えば、浮かんでいたのは先程よりも余程渋い表情。

「……クッソ甘ェ」
「あはは、どっち飲んでも苦い顔」

 くすくすと楽しげにニーナが笑えば、カフェラテ色の髪が肩の上でふわふわと揺れる。
 ――二年前は瞳に宿っていたその色。流れるようなウエーブは今より深みのある茶で、下ろせば腰に届くほどだった。ばっさりと惜しげもなく半分以下になったそれに、再会した時には流石のゾロも少しは驚いたものだ。
 しかし、色素が薄く短くなった髪よりも、カフェラテからターコイズへと色を変えた双眸よりも、彼の目に留まった変化がひとつ。

(……よく、笑うようになったよな)

 出会った当初から、笑顔が無かったわけではない。それでも、一味加入から段々と、蕾が花開くように表情も感情も豊かになっていったのは確か。二年間の空白期間を経て再会すれば、それはよりくっきりと浮き彫りになった。
 そこまで考えたところで、ゾロは柄でもないとハッと我に返る。ふっと手元を見下ろせば、先程まであったはずのブラックコーヒーが消えていた。

「あ?」
「う、苦い……」

 呻き声のする方に視線をやれば、探し物はすぐに見つかった。盛大に顔を顰めるニーナの手元から片手でカップを取り返して、ゾロはやれやれと呆れ顔。

「ったりめーだろ、こっちは何も入ってねえんだ」
「や、それはそうなんだけど。不味いのかなと思って」
「は? これはこういう飲みモンだろ」
「不味くないの?」
「まずくねえよ」
「苦いのに?」
「それがいいんだろ」
「……そっか、ならいいや」

 受け答えの最中にもころころと変わる表情。ゾロの答えに納得したのか、ニーナはふっと肩の力を抜いてへらりと笑う。どこか安心したようにも見えるそれにつられて、ゾロもまた僅かに口許を緩めた。
 ――どのタイミングから見ていたのか、柱の陰で歯軋りするサンジとにやにやと見守るナミに二人が気付くのは、もう少しあとのこと。

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