目も眩むようなメランコリー。
2015.7.18





晴れた日曜日の午前。
何時も通りに着替えを済ませてキッチンへ向かえば、相馬の後ろ姿があった。
他愛ない挨拶を交わす。弧を作る口元を見る。
相馬のその一見柔らかな眼差しはそれでいて鋭利に他人の心に侵入して、本人すら知り得ない感情の変化を読み取ってしまう。
これまでに散々振り回されたその悪癖は、とうの昔に嗜めることを諦めた事ではあったが、矢張り苦手だと思った。

「何だか最近元気がないね。夏バテ?いや梅雨バテかな?」

低気圧は大気中の酸素濃度を下げ、地表に在るヒトを微弱な酸欠状態にする。つまりは貧血状態を招くのだそうだ。
だから重度の気象病になると頭痛がしたり、目が眩むのだと、そう揚々と語る相馬は貧血とは縁のなさそうな顔色で、手も口も良く動かしていた。

知らず知らずの内に酸欠になっていたのだろうか。
この心変わりは、酸素不足の脳が、正しく伝達作用を行えていないことに因るのだろうか。

「今年の梅雨は長いよねぇ」

そう語る相馬の横目の一瞥は変わらず鋭利で、侵入を拒む様に目を逸らした。
悟られる訳にはいかなかった。
よもや轟八千代から小鳥遊宗太へと心変わりしたなどと。
まだ自分自身も変化についていけない状況で、あぁだこうだと横から口を挟まれては堪らない。
仕込みの作り置きサラダを慣れた手つきで用意していく。
仕上げのミニトマトを、思わず「小さい」と思ってはその言葉から連想される人物が浮かんで、癖に成りつつあると自覚はあるが頭を振った。

憂鬱で堪らなかった。
あれから何度確認しただろうか。
轟八千代を見てはこの胸は相も変わらず暖かくなるのに、それは以前からではあったが情熱的な感情に成り得ない。
その笑顔が在るのなら、その幸いが守れるのなら、いつまでも杏子への敬愛の念を抱いていてもいいだろうと、そんな安穏とした感情ばかりが在る。

溜め息が出た。
4年も。恋心と思っていたのだ。憂鬱になって当然だった。
それは子供が買ってもらった犬を好くような、妹が兄を好くような、そんな平和な感情だったのだと思い知った。
飼い犬も兄も独占欲の対象では在るだろう。
けれど、恋愛対象では決して無い。
一部例外はあるだろうが佐藤にとってはそうだった。

「おっはよぅございまぁす!」

スタッフ内最小の種島ぽぷらの元気な挨拶がキッチンへ響いた。
前日どんなに泣いても喚いても怒っても、翌日には笑顔で出勤してくる。
そんな類稀なリセットボタンの持ち主は、本日も無警戒でトコトコと佐藤に近寄った。

「佐藤さん、今日のサラダのドレッシングは何をセットしたらいい?」

「そうだな…ゆずとゴマ」

「おっけー♪」

花丸満点の笑顔でドレッシングを用意する後ろ姿を眺める。

「そういえば種島さん」

「なぁに?相馬さん」

「種島さんって好きな人とか、いないの?」

小首を傾げて尋ねる相馬を種島がキョトンと見つめる。
そういえば恋バナの尽きることないワグナリアで、種島と山田は対象外だった。
佐藤としてはそんなマスコットキャラ的な、恋愛とは無関係な安心感を種島に対して勝手に抱いている身としては、あまり聞きたくない話ではある。

「んー…いないなぁ…でも、憧れるよね!身を焦がす様な、恋!!」

「身を焦がすような、かぁ。種島さんって情熱的なんだね」

「そういうお前はどうなんだ」

種島の、未だ恋に恋している乙女心に少しばかり安堵しつつ、他人の事ばかり嗅ぎまわる悪癖を持つ相馬へと問いかけた。
その悪癖の所為であまり興味をもたれる事がない相馬は一瞬真顔になりつつも、すぐにいつもの、笑顔の仮面を被る。

「あんまりいないんだよね、僕好みの女性って」

そもそも「女性の屈辱に歪んだ顔が好き」等と宣っていては恋人など出来るものかと思う。
その顔が屈辱に歪むという事はその女性はマゾではない。
屈辱を受けるような相手と恋愛など健全な精神の持ち主であればまず出来ない。
そしてこの男は、おそらくは通常の精神の持ち主よりも、どちらかといえばサドに分類される女性をいたぶる事を望んでいるのだ。
そしてサドに分類される女性の多くは暴力的である。
とすれば暴力嫌いの相馬の恋愛相手と成り得るのは、趣味の悪いツンデレか、極度のバカしかいない。

(バカの方に心当たりはあるが犯罪の臭いしかしねぇな…)

自分の事は棚の上に上げて心の中で独りごちる。

「早くことりちゃんみたいになって、素敵な恋愛をしたいなぁ」

「お前はそればっかだな」

『ことりちゃん』なる幻の女性スタッフ。
それはホール唯一の男性スタッフである小鳥遊が女装した際の呼び名だった。
すらりと伸びた手足。
悩ましげな唇。
凛とした視線。
透明感溢れる肌。
紛うことなき美少女。

それがガニ股で闊歩し、女性にしては低めのハスキーボイスで鳴く。
けれど普段よりは幾分か高めの声音はその容姿に助けられて、店の男性客を謀るには充分だった。

普段から鈍感を地で行く小鳥遊は全く気付いていなかったが、あれから『ことりちゃん』目当ての客に八千代や山田が所在を尋ねられることだってあったのだ。
それを聞いて心底げんなりした顔を晒す小鳥遊に、素直に綺麗だったと伝えて珍しく叱咤されたのはもう随分前になる。

女相手ならいざ知らず。
下心丸出しの男達にはアレは勿体ない。

(勿体、ない……?)

つらつらと『ことりちゃん』の事を思い出していただけであるのに、最近は特によく顔を会わせる独占欲が現れた。

「あはは、まぁ、男の僕らから見ても彼女は素敵だよねぇ」

「また会いたぁーい!」

「頼みますから、男の俺に会いたがってください!」

バタバタと手を振る種島の、背後に話中の人だ。

「かたなしくん!おはよー」

「おはようございます……皆さん、朝から不穏な話をしていないで、開店準備急ぎましょう」

小鳥遊のその手には箒と塵取りが握られている。
店の表玄関の清掃に行くのだろう。

「不穏だなんてそんな」

「相馬さんが会話に参加してるだけで充分に不穏です」

キリリと相馬を睨む。睨まれた当の本人は痛くもないくせに両手を上げて降参のポーズだ。

「酷いなぁ、こんなに綺麗なのにね」

ポケットを探る相馬の、その手の中に現れたモノに目を瞠る。

「またこんなもの持って……!!」

慌ててその手から写真を引ったくる。
不意に向けられていたカメラに気付いてキョトンとした「ことりちゃん」が、その写真には収められていた。

じゃれつき始めた3人からそっと離れて仕込み作業に戻る。
いつもなら「遊んでねぇで働け」と叱咤する佐藤の、その態度に3人は顔を見合わせた。

「佐藤さん、具合でも悪いんですか?」

「は?いや、別に」

「でも何か顔赤いよー」

心配顔の小鳥遊と種島に、何でもねぇからと手を振る。
訝しげな2人に今度こそ「いいから働け」と告げてキッチンから追い出す。

右手で顔を覆う。自身の右手が熱くて少しビクついた。

言えない。
久々に見た『ことりちゃん』の破壊力抜群の魅力に中てられただなんて、言える筈もない。
相馬の手の中の写真を、一瞬でも欲しいと思ってしまった。

矢張り酸欠なのだ。
この頭部にある筈の、何十兆もの細胞の塊に、酸素がまるで足りない。
だからきっと、この梅雨が明ければ、この脳はまた正常に戻る筈だ。

信じられないことに未だ16歳の少年に近い男に好意を、それも劣情を伴った好意を、抱いている。

轟八千代にも、触れたいと思わなかったわけではない。
ただ、触れずともこの心は満足していた。
男女の関係を想像もした。けれどそれはどこか、何も知らない幼い子供の頃に憧れた男女のそれで、愛はあれど欲はない、そんな幼稚な想像でしかなかった。

プラトニックで満足するような、そんな清く強い精神を人間は持ち得ない。

心から”欲しい”と思ったその人の。
その気配を肌で感じる度に、その声が鼓膜を揺らす度に、その姿を目に入れる度に、悦ぶ心が、解せない。

視界が歪み始めて、シンクに寄りかかる。



あぁこんな、目も眩むような憂鬱を、どうやって遣り過ごせばいい。


 

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