思い出すのは立ち去る彼の背中だった

--高野さんが涙を流すお話--

思い出すのは立ち去る彼の背中だった。
小さく背中が震えていたのは、大きな瞳に溢れんばかりの涙を蓄えながらも一生懸命にそれを落とすまいと堪えて力を込めたからだったのだろう。一瞬目の前を通り過ぎた真っ赤な顔と、その時頬に感じた世界で一番綺麗な水の感触を俺は一生忘れない。









まもなく小野寺に子供が生まれるという電話が来たのは昨月のことだ。
臨月になって妻が里帰りしたらまた独身生活まっしぐらです、と苦笑する電話越しの声に幸せそうな柔らかい声が混じる。
昔から彼はそうだった。
話の節々に優しい両親に大切に大切に育てられた片鱗が覗いていた。そんな彼が築いた新たな家庭は光に満ち満ちていて、そういうものをみたことがない俺にとって小野寺家へ出入りすることは異世界へ通じるのと同意だった。
穏やかで優しい夫に、明るく美しい妻。身重の妻を気遣って小野寺は家事、洗濯、料理だって手伝う。まるで絵に書いたような夫婦像。だが小野寺はひとり暮らしの頃に全ての着衣がなくなるまで洗濯をせず全自動掃除機をうっかり購入してしまうような男だ。家事も洗濯も下手なことは言うまでもない。洗濯をすれば柔軟剤を入れ忘れふかふかだったタオルがごわごわになり、じゃがいもをむけば身より皮の方が大きい始末。ただし掃除機だけは、独身時代の文明の力が生かされている。
毎日引き起こされる数々の失敗も彼女は笑い飛ばしながら包み込む。幼ながらに彼女を許嫁に選んだ小野寺の両親はまさしく炯眼だった。
ひとたび彼女が小野寺の名を呼べば、彼の顔が一瞬にして男のそれに変わる。
それは紛いもない、彼女だけに見せる顔。
カレーを作ったから、新しい本が手に入ったからと何らかの理由をつけて小野寺は自宅に俺を招く。その度に夫婦で盛大にもてなしてくれる。楽しそうに語らうそんな光景を目に焼き付けながらキリキリと締め付けられる胸の痛みを思う。
俺にだけ見せてくれた顔があった。
それを見られることが恥ずかしいと言って目を伏せると、影がさすほど長い彼の睫毛の奥に輝かしいまでのエメラルドが伏せられ、きめ細やかな白い肌が羞恥の色に染まって。
可愛くて仕方がなかった。
愛していた。
世界中で一番。
抱き込んで一生手放したくなんてなかった。
でも、ロミオとジュリエットのように全てを捨てて逃げられるほど俺たちは若くなく。残念なことに社会の摂理を、自分たちが求められることを知りすぎるほど知っている大人だった。
手を取り合って逃げたところで、小野寺家の力を使えば、探偵どころか警察だって取り込んで探させることも可能だろう。そうやって自分のアイデンティティとも言える仕事を放り投げ、いつ見つかるか戦々恐々としながら生きることにはたしてどれだけの意味があるのか。隣で震える手を必死にすり合わせる小野寺を見ながらそう思った。
手を伸ばした少し先の未来でさえ霧の中に包まれて見通すことも叶わない。
所詮、人間は社会の中では小さな歯車に過ぎない。大小はあっても、そのひとつひとつが組み合わさって動く社会の中で求められる。俺たちはその位置に戻ることを選んだ。
程なくして小野寺は婚約者と結婚し、丸川書店を退職した。
小野寺出版へ戻った小野寺は丸川で身に付けたスキルを遺憾なく発揮し、新創刊の少女漫画誌の制作に関わり、そのマンガ誌は今や月刊エメラルドに継ぐ売上を誇っている。
俺も編集長としてエメラルド編集部に居座り続けて数年になる。栄転の話も出たが全て断わり続けた。
会社は違えど同じ少女マンガ編集として繋がっていることが、蜘蛛の糸のように見えない位に細くて脆い、それでも光に当たれば輝く最後の絆だった。





まもなく臨月で里帰りする彼女を見舞うため、小野寺家を訪れた。
彼女が女の子から母の顔になっているのに驚いた。小さな薄いブルーの靴下と毎月の写真が飾れる可愛らしい写真立てを渡すと、小野寺夫妻はそれを手にとり、ベタベタと触ってはそれを使う日を想像しながら大いに喜んでくれたようだった。
ちょっとお腹が痛いと言った彼女を小野寺が不安げに見守る。
臨月間近になると子供は出てこようと藻掻き、母の腹部をよく蹴るらしい。宥めてきますと言って彼女は客間の隣にあるテラスに向かい、揺り椅子に腰掛けた。そして揺り椅子を揺らして大きなお腹をさすりながら、優しい子守唄を歌った。
まだ母の胎内で暖かい羊水に満たされ生まれ出る日を待つ赤ん坊は、生まれる前から母の愛を一心に受けている。自らは何も変わることなく生まれてくることだけを今か今かと待ち構える男共と違い、母はずっとその命を自らのそれと繋げ、小さな卵から人となるまで栄養を、愛を注ぎ、生まれ出る日をじーっと一緒に待っている。
まさに包み込むような母の愛。
俺の母も俺がお腹の中に居るとき、こうやって慈しんでくれたのだろうか…。
振り返れば、歯に衣着せぬ弁護士だったあの人が母らしいことをしてくれた覚えはあまりない。考えるだけ無駄だった。というより、今までそんなこと思い出さなかったのに。母の象徴たる姿を見て、少し動揺したのかもしれない。俺は小さくため息をついて、心の安定を図るよう務めた。
少し痛みが収まったらしい彼女は、俺に向かって顔を少し傾けて、音が聞こえるんですよ、聞いてみますかと言い、俺を手招いた。腹部に耳を当て、聴くことを促される。
まるで地球の輪郭のようなカーブを描く暖かい彼女の腹部に躊躇しながら耳を当てると、僅かにとくんとくんと鼓動が聞こえた。
この中に確かに新しい命がある。俺が愛した人と愛した人を愛する人との子がここにいる。
俺たちがもし手に手を取って逃げていたら、生まれることのなかった命が今ここにあると思うと、いたく不思議な感じがした。


小野寺と一緒に住んでいた頃、何度も何度も体を重ねた。遺伝子の欠片が小野寺の体を、シーツを汚し、そのしどけない姿に煽られて彼を繰り返し貪った。
俺たちは男同士で、何度同じ行為を繰り返したところで、この行為の本来の目的である子を成すことは決してない。
それに心が痛まなかったと言えば嘘になる。街で子供を見かける小野寺の視線の優しさを知っていたからだ。
そうして子供が生まれる寸前の今、俺の選択はきっと間違いではなかったと思える。
小野寺には、彼が生まれ育ったと同じ、暖かい家庭を持って欲しい。それは小野寺への希望であり、俺の願いでもある。
彼の遺伝子を受け継ぐその子が生まれたその瞬間から、その子は両親の愛を一心に受け、すくすくと育つだろう。両親の半身ずつを受け継いだ、美しく強くしなやかな人間になるだろう。そしてその子が家族を繋ぎ、更に家庭に笑顔が増えることだろう。
多くの人に望まれて生まれる子は幸せだ。
それがまして愛する人の子ならば、俺にとって祝福すべきこと以外の何者でもない。


小野寺がアフターヌーンティーセットを片付ける傍ら、揺り椅子を揺らしながら彼女がふと言った。
「律っちゃんがね、子供が生まれたらつけたい名前があるんだって。どんな名前だと思う?」
「ちょ、ちょっと杏ちゃん…」
両手を振りながら慌てる小野寺を制し、彼女は俺へ茶目っ気たっぷりの笑顔を覗かせる。
「男の子?女の子?」
「エコーでみたら男の子だった」
「小野寺に続く男の子の名前ね…」
腕組みしながら真面目に考える俺を笑いながら彼女は言った。
「まさむねって付けたいんだって。呼びたくて呼びたくてでも呼べなくて。今まで生きてきた中で一番綺麗な名前だからって」
凛と張る澄んだ声に、俺は一瞬で思考をすることを止められた。
「杏ちゃん!!」
「高野さん、律っちゃんへの思いを抱えて一生ひとりで生きていくつもりだったんでしょう? ひとりになんてしない。あなたは律っちゃんが大好きな人で、私にとっても大好きな律っちゃんを愛してくれた大切な人だから、絶対ひとりになんてさせないんだから」
ゆりかごを揺らしながら光指す窓辺で振り返り微笑む彼女は聖母マリアのように美しかった。
「――た、高野さん来て!」
小野寺に手を掴まれ、庭に引き出される。綺麗に手入れされた英国庭園の中ほどまで連れてこられると、小野寺は大きな薔薇の木を前に立ち止まった。
「生まれるまで秘密にするつもりだったんですけど…」
そう言って赤らめ伏せられた瞳は俺にだけ見せたあの顔と同じだった。
あの頃なら衝動を隠すことなく彼を抱きしめて、その唇を激しく貪っただろうに。でも今は他の人のものになってしまった彼を欲望の対象にしてはいけない。
少し息が上がる。
心に生じた衝動を爪痕が残るほど手を握り締めて押しとどめる。平静な顔を作って、いつものように不遜な顔をして軽口を叩けばいい。そう思っても心が追いついていかなかった。
「ふたりで決めたんです、生まれてくる子のあなたの名前にするって」
「なんで…?」
「きっとあなたは自分の命を繋ごうとはしないでしょう? だから俺があなたの命を繋ぎます。俺が高野さんにしてあげられることはそれくらいしかないんです…」
小野寺は小さく笑った。風が吹けば吹き飛んでしまうような儚げな笑みだった。


自分が愛した人が自分の名を持つ子を育て、慈しみ、愛される。
優しい両親に手を引かれキラキラと輝く公園を散歩し、猫を追いかけ、転び、泣く。それを見て両親が笑う。そして彼があの恋焦がれた可愛い声で『まさむね』と呼ぶのだ。
小野寺は撫でてくれるだろうか、その子の頭を。
俺が父に撫でてもらったように。
溢れ出す愛おしさを止められず、サラサラと流れる髪を梳きながら小野寺を撫でたように、その子の頭を撫でてあげて欲しい。両親譲りのサラサラと流れるような亜麻色の髪を持つその子の髪に指を通して、梳いてあげて欲しい。
きっとその子は声をあげて喜ぶだろう。大好きな両親に愛されていることを心の底から実感して。
俺が持たなかったもの、手に入れられなかったもの。
――愛のある家庭。
その中に俺の名が響く日を想像したら、もう言葉が出てこなかった。
喉が震え、鼻の奥と目頭に熱を感じて。それを止めようと力を込めたけれど、心がそれを上回る位強く動いて、自制なんて出来なかった。
右目から音もなく一筋の涙がこぼれ落ち。
一度堰を切った感情は止めることが出来なくて。
次々と涙が溢れた。
肩を震わせて。
俺は生まれて初めて泣いた。
泣いた顔を正面から見られたくなくて、顔を伏せた。いい大人が大泣きするなんてみっともないと、せめて音を出さずに泣くようにすることだけで精一杯で。
それでも溢れ出す涙を止めることなんて出来なかった。
頬を伝い顔の輪郭を伝って地面に涙が落ちる。
頭に感じる優しい手。それは俺が欲しかった暖かい手。
「高野さん、泣かないで。あの時、あなたがどんな思いで俺を突き放したか、俺は知ってます。だから受け入れた。あなたが幸せになるのならって。高野さんも同じ気持ちでしたよね。」
彼はゆっくりと俺の頭を撫で続けた。
長い長い時間が経って涙が止まったとき、あまりの情けなさに小野寺を直視することが出来なかった。男泣きする自分を正当化するように言い訳したにも関わらず、
「人は生まれたときに必ず泣くんですよ」
そう言った彼の声が優しく響いて。
胸の中が一杯になった。
「――小野寺、ありがとう」
「――高野さんこそありがとうございました。プレゼント、大切にします」
小野寺の指が俺の頭から離れた時、情けない顔を彼が見ていなかったことだけを祈る。
手入れされた庭に咲き乱れるピエール・ドゥ・ロンサールの香りが甘く鼻腔を擽り、背中を押すように暖かい突風が一瞬吹いた。
小野寺の髪が乱れ顔を隠す。一瞬彼が泣きそうな顔をしたのは俺の勘違いだといい。髪をかき分けて再び顔があらわになったときには、彼は先ほどと同じように穏やかに目を細めて微笑んでいた。
微笑むように花弁を広げる薔薇、薔薇、薔薇。
そしてその中を飛び回る蝶に見送られ、俺は小野寺邸をあとにする。
「この子が生まれたらまた会いに来てくださいね」
小野寺と妻が目を細めて笑いながら手を振る。
俺だけの律の姿はもうなかった。そこにいるのはただただ幸せな若い父の姿だった。





小野寺に一生を捧げると決めた。
彼の幸せを願ってその手を離した日、彼は泣いた。
綺麗な真珠のような涙が俺の頬を濡らし、その頬が今もまだ濡れているかのような幻想に捕らわれる。
いつまでも彼が幸せでありますように。
ただそれだけが俺の願い。それが叶うならば、俺は孤独でも構わないとそう決めたのに。
――嬉しかったのは事実。
そして切なくなったのも事実――。
またしてもふいにあの頃の彼を思い出し、胸が痛んだ。
何度も抱き込んだベッドも、彼が本を読みながら寝そべったソファーも触れればまだ彼の温もりが残る気がする。彼の息遣いが残る気がするのに、目に入るのは沈黙だけが支配する寒々とした部屋で。冷えた空気に俺は身を震わせた。
小野寺と知り合って弱くなる一方だ。
知り合う前は怖いことなどなかった。彼を好きになればなる程弱くなるメンタルを自覚する。彼の言動ひとつに円グラフの感情が数パーセント刻みで分けられていく。
喜びも切なさが、言葉に出来ない感情が、複雑に俺の心も体も蝕んでいる。
ただ締め付けられる胸を持て余し、どうしたらよいのか分からない。
俺はベッドの上の毛布を捲り、体を横たえる。
高鳴る鼓動を収めようと静かに目をつむり、息を堪える。
胎児のように小さく丸まって、羊水のように暖かい毛布にくるまれて、いつか生まれ出る日を待つ赤ん坊のように。


――『まさむねさん』


俺の名を呼ぶ彼の声が聞こえた気がした。









神奈川さんからのリクエストで、高野さんが涙を流す話でした。
高野が涙を流すシチュエーションを考えたんですが、よっぽどのことがなければこの男は泣かんだろうと思いながら、最近某大好き様と考える最上の高律のことを考えていました。
ふたりが一緒に生きていくには困難なことが沢山あって。
それをひとつひとつクリアしていくにはまだまだ難しくて。
もちろんふたりにはしあわせになって欲しいのだけれど。
ふたりに子どもを抱かせてあげたいとも思う。
杏ちゃんも幸せになって欲しいとも思う。
みんな幸せになるには、どうしたらいいんだろう。
ぐるぐる考えていたら、ハッピーエンドでもバッドエンドでもないお話になりました。
こんな未来もパラレルワールドではあるかもしれません。
まあ実際、俺様高野だったら何があっても律を奪って攫って渡さない可能性が高いかもしれませんが(笑)
神奈川さんの思っていたものとはちょっと違うかもしれませんが…ど、土下座の用意はで、出来ております。す、すみません。
リクエストありがとうございました。


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