野さんと煙草のお話










身体に悪いものほど欲しくなるのはなぜだろう。
アルカロイドの一種であるニコチンを吸気一杯に吸い、肺胞の隅々にまでそれを染み渡らせれば馴染んだ味が体の隅々にまで行き渡る。
それがなければやっていけないほど中毒ではないが、煙草を手にしていないのに無意識に指がその灰を落とす動作をしていたり、口寂しいと感じてしまったりするのはそれがある環境に慣れ親しみすぎた結果に過ぎない。
喫煙所で横澤と話しながら今日何本目かのそれを口にする。
身体に悪いなんて医学的常識で全ての国民が知っている。他者に影響を与えるからとそれを嗜むことを狭所で強いられたところで、そこに集まる人々が迫害されたアボリジニのようにその不遇さを嘆くコミュニケーションが密になるだけで、結果的にそれがひとつの時間を潰す方法となっている現状でやめなければいけない理由がない。
だからだらだらと続いているこの習慣。やめようと思えばやめられるのかもしれないが、ただきっかけがない。それだけで続いてきた習慣がもうすぐ10年にもなるらしい。どんどんと税金が積まれていくそれを数えたらどれだけ国に奉仕しているのかと考えると馬鹿馬鹿しくもなるが、概して趣味や遊興というのは金がかかるものだ。
お金を払って命を削る。
大層立派な趣味じゃないか。
上に向かって息を吹き上げるとドーナツ型の紫煙がゆっくりと霧散して、空に溶けた。





「高野さん、今日は匂いが違います」
子どもには許されないようなことを何度もしてるくせに隣に座るだけで身を固くする小野寺が硬直しながら言い出した一言。
金曜日の仕事終わり、俺としてはいつものようにいちゃいちゃしてやろうと小野寺を引っ張り込んだわけだが、予想通りこいつは身を固くしてこちらを見ようともしない。それなのに鼻は俺の匂いを嗅ぎわけてるらしい。意識しすぎるほどに意識しているのに、さもそんなことはないような顔をして墓穴を掘っている事実に気付かない。利口なのに鈍感で、馬鹿正直過ぎる。
小野寺は鼻が利く。
花の名前を香りだけで嗅ぎわける。隣の部屋から夕飯のメニューがわかる。炊きたての主食の香りを嗅ぎわけて、ダイニングチェアに座るそのタイミングは拍手喝采を贈りたいほど正確だ。
「どんな香り?いつもはどんな匂いがすんの?」
そういうと彼は大きな瞳を瞬かせ、首を左右に振りながらたいそう困った顔をした。
個々人の香りは個々人の名称でしか表せないと小野寺は言う。まずひとりひとり体臭が違う。それに加えてボディーソープやシャンプー、整髪剤、香水や煙草等の香りが加わり、合せ交わった結果その人の香りとなるという。
「残り香だけで誰が通ったかわかることってないですか? そういう感覚的な、イメージみたいなものです」
そういうと小野寺は有名な女性漫画家の名を上げた。
羽鳥を大層お気に召すその作家と接した後、狂ったように市販の消臭剤を振りかける羽鳥の様子にまるで恐妻家だと指を指して笑ったが、どうやらそれは笑い事でもないらしい。
人を識別するには名前という記号化されたもの、つまりは概念が生じて我々はその相手だと理解するわけだが、概念がなければ相手を識別できるものは感覚だけしかない。それは視覚で顔を見分けたりや聴覚で声を聞き分けたりなど様々だが、嗅覚から感じられる香りというのもその人を識別する重要なファクターと言えるだろう。小野寺が学生時代から使い続けている高級そうなシャンプーの香りが一旦感覚器に取り込まれれば、首筋にかぶりつきたくなる。その髪を掻き揚げ、細い項に所有の証を刻みつけたい衝動に駆られる。その衝動が関を切ってしまえばあとはなし崩しになるのはいつもの話だ。
顔とか声とかひとつひとつの好ましい部分は仕事をしているときだって正視できる。では衝動的に動物的な行動に走り出すきっかけを挙げろと言われるならば、心許される者にしか許されないテリトリーに入り込んでようやく感じることができる体温や皮膚の滑らかさ、そして嗅覚を感じることが出来る繊細な器官を身体に限りなく近付けて知覚する匂いと答えるだろう。
小野寺は甘い香りがする。その香に刺激された大脳が一瞬にして興奮を心身に伝える。首を降って抗う気もないのに制そうとする小野寺から匂い立つ色香は更に増大し、燃え滾る感情を抑えきれず、快楽に身をゆだねる彼の羞恥心を煽ることを十二分に理解した上でそれを口にすると彼の頬に一瞬にして朱が刺す。
シャンプーか、はたまた汗の香か。彼の全身から溢れ出す甘い香りに感覚器官を麻痺させられ、目から入り込む恐ろしくも心臓を鷲掴みにするような映像を脳裏に投影しながら、どうしてもう理性なんて働かせることができようか。
小野寺のシーツを攫む手に力が込められ、白く冷たくなったその手を、全身の血液を循環し熱を帯びた自分の手で包み込む。
交互に指を絡ませながら、さらに一層摩擦をおこすが如く熱を注ぎ込むと途切れ途切れに掠れるような声があがる。視線の定まらない瞳は欲情を映しアメジスト色へと変わり、普段なら上がるか下がるかはっきりした口角はしどけないため息にも似た喘ぎに力なく歪む。
小野寺をこんなにするのは自分。
そしてそうさせる自分にさせたのは小野寺自身。
散々喘いだ口を己のそれで塞ぐと、今度は香りだけでなく甘い味覚に神経を研ぎ澄まされる。
人を愛するということは感覚器全てを用いて体感するものだと実感する。
彼が愛しい想い人以外のなにものでもないと五感の全てで伝えてくる。そのひとつ残らず自分のものにするのはもはや肉体の快楽を越えた精神的快楽と言えるのではないか。
なんという独占欲。
その人の感情だけでなく、その五感全ても自分のものにしたいなんて。初恋の相手に他の異性を見るな、近づくなと指示するような中学生のようだ。馬鹿馬鹿しい。だけどそれが包み隠せそうもない俺の本音。全く余裕がない。小野寺は構いすぎだと愚痴を述べるがそれは不安の裏返しに過ぎない。離せない、離したくない。そう思いながら理性を駆使して毎回指を切り離す。離れた瞬間に不安になる。社会的立場とか、同性だとかどうでもいい柵なんてとうに捨てた。他の何を失うとしても、小野寺を失うくらいに恐ろしいことなんてもうきっとない。





何度目かの目の眩むような瞬間を越え、軽く弾む息の下、小野寺の首筋に顔を埋める。頭上で今、貴方の香りがしませんかと小野寺の小さな囁きが聞こえる。俺には自分の匂いはわからないと述べると彼は至極残念そうな顔をした。
俺は付けませんが、と前置きをして小野寺が言う。
香水を付ける時、最初は香水自身の香りを放ち、時間が経つ事に自らの体臭が加わって最終の香りはその人独自の香りになる。濃厚な接触をする度にその香りを得て、新しい香りになっていくのだという。
「今、貴方も俺の香りがするはずです」
小野寺が恍惚の表情で胸に額を付けて俯いた。
「あの人の香りのする貴方は嫌です。だから何度だって塗り替える」
彼の細く繊細な指に、指を絡め取られ弄ばれる。右の第2指と第3指を取られ、唇に運ばれた。
敏感になった指先に触れるのは熱く柔らかく、濡れた感覚。
ざらりとした舌で舐め上げられ、指の間に舌が差し込まれ。
「やめませんか煙草。代わりに」


――口寂しいのも慣れきった仕草も、香りだってくれてやるから。
だから、あの人の匂いに染まらないで。


耳元に囁やかれた音だけでなく、注ぎ込まれた温かい風に全身の毛が逆立つ。耳も音だけでない重要な感覚器と知る。
目の前のその存在は感覚全てを明け渡し俺に縋り付いてくる。でも実は縋り付いているのは自分ではないのか。支配者であったつもりで支配されているのではないかという不安に駆られた。
この目の前にいる大切な存在を失うくらいなら、意味の無い習慣を捨てる方がよっぽど容易い。ニコチンよりなにより強い習慣性を持つ甘い毒に中枢神経まで犯されている。もはや中毒閾まで達した血中濃度が更に彼を求めて指が震えた。

伸ばされた指は高野が軽やかに煙草を攫んでいた、2本の指。





ラストノート













高峰はまさんからのリクエスト、高野さんと煙草に関するお話。
なんかもう煙草あんまり関係ない気が…。
タバコを吸う高野さんがかっこいいって話から始まったリクだったはずなのに。
はまさんこんなリクですみません…。
リクエスト、ありがとうございました。