もない日








なんの予定のない休日というのは、大人になってから非常に貴重なものだと思う。
というのも、大抵は何らかの仕事だったり私用だったり、その日当日の用事ではなくとも先々の締め切りに心が急かされていたりして、本当に何もない日なんてなかなかない。
編集長としての職名を拝してからは、殊更にその傾向が強くなった。
スケジュールを管理することの重さを認識したのもこの頃だ。
黒い手帳にスケジュールを書き込んでいけば数箇月先まで真っ黒に埋まった。スケジュールが埋まっていけばそれらがどう考えてもうまく流れるハズがないというストレスと、仕事があるという軽い充実感に満たされた。
そんな中、エアポケットのようにぽっかりとあいた休日を手に入れたら、果たして仕事人間はどうやって休みを過ごしたらいいのか分からない。
恋人を連れ込んでデートにしけこもうと思ったが、猫のような恋人は「今日は外せない用事がある」としゃーっと牙を向いて、爪を立てて拒否られた。
閉じられたドアの前でありえねぇ…と呟きながら、すごすごと自宅へ戻り、俺はソファーに座り込んだ。

そりゃ普通だったら問答無用に小野寺を引っ張りこんで、ぐずぐず言うアイツの顎を取って、口を開かせて、舌を差し込んで深いキスに持ち込めば完全にこちらの思う儘なのだけれど。
自分だけが何も急かされない休日で、小野寺には用事があるって言われたら少しばかり悪いななんて思ったりして、そんな瑣末な罪悪感故に手を離してしまったことが敗因なんて、今までの俺じゃ考えられない。

あいつが猫みたいに牙むいて、尻尾振り上げて威嚇してくるのを見たら、なんだかそれだけでおかしかった。

「バカみてぇ…」

肩をすくめて俺は笑う。
そんな些細なことだって可笑しいくらい小野寺が可愛い。
従順な犬みたいだった昔と違って、自己主張してくれるようになったこともひとつ嬉しいことだろう。ただ唯々諾々と要求を受け入れるだけじゃなく、お互いの意思を尊重できるようになったのは俺たちがお互いに成長した証だと思うのだ。
このままずっと小野寺と隣で寄り添う日々が続くためには自己主張することだって必要だろう。
今日ばかりは勘弁してやる。代わりに俺も十分に自己主張させてもらうがな。
今週末は夕食から、朝食までじっくりたっぷり可愛がってやる。
そんなことを思いながら口端を釣り上げていたら、玄関のチャイムが鳴った。

ドアを開けると、小野寺が唇をカールさせてぶっちょうづらで突っ立っている。

「何やってんの?」
「俺は忙しいんです」

ん、あ。そんなのさっき聞いた。
で、なんだってんだ?

俺が片眉を上下させたら、小野寺は両眉をひくひくさせて言った。

「だけど、少しくらいなら高野さんに付き合ってあげないこともありません」

なんだそれ。

唖然としている俺の手を掴み、小野寺はどすどすと部屋の中に入っていく。
そして俺の肩をバンバンと叩き、目で座れと合図されたので俺は少し動揺しながらもゆっくりと床に胡座をかいて座った。
小野寺は無言で自らの膝を叩く。

なに、来いって言ってんの?

小野寺の膝に手を伸ばすと手を叩かれた。そうじゃないらしい。

――じゃあなんだよ。

小野寺の手がゆっくり俺の髪に触れて、俺はその意味を理解した。膝に頭を下ろして小野寺の顔を見上げれば、愛しい真っ赤な顔が俺の宇宙になる。

「真っ赤になってかーいー」
「――馬鹿にするならやめますよ」
「馬鹿にしてねーよ。心の底から喜んでんの。でもさっきは忙しいとかけんもほろろに断った癖に、どんな心境の変化があったわけ?」
「だって――高野さんが一瞬凄く寂しそうな顔をしたから…」

そう言って小野寺は唇を噛んだ。
俺自身には全く覚えがない。
そんな顔したって、俺が?

周囲に感情を見せずに生きてきたつもりだ。
いかなる時も感情を表に出せばそれはウィークポイントになるだけ。感情を露にすることで有益になったことなんてないし、寧ろ問題になることが多いと知っている。
高校時代に感情むき出しに喧嘩する親を見ていて、まさに反面教師とばかりに学んだこと。あの人たちに感情を晒したくなくてずっと澄ました顔を取り繕っていたら、いつの間にかそれが素顔みたいになってしまった。
ただ、小野寺だけはあの頃から俺の表情を読むことが出来たんだっけ。
大人になってからは感情なんて仕事に差し支える以外のものでしかなくて、特に編集長に就任してからは、隙あれば蹴落そうとする周囲に弱みを見せない一心で更に厚く心に鎧を背負い込んで、俺に触れると痛いとばかりにつんつん振舞った。
それでも付いてきてくれる奴らだけが残った。それが今のエメ編メンバーだ。
何度も何度も打たれ強く付いてきてくれる奴らには非常に感謝している。
しかし、俺に刺があるのを分かった上で付いてくる奴らと違って、小野寺は俺の刺に刺さってわーわー喚きながらも、時折鋭いことを言って俺の刺を引っ込める。
表情を読まれているというか、心を読まれているというか…。
自分でも気付かなかったことをさらりと言ってのける。
でもそれが間違ってると思わないのだ。
ああ、そうだったのかと、素直に飲み込めるそんな指摘をしてくる。
だから今回もコイツが指摘するんなら、やっぱり俺は寂しそうな顔をしていたんだろう。

「悪い、心配させた…?」
「ちょっとだけ。高野さんが寂しそう顔するときはろくでもないこと考えてることが多いんで」

だから忙しいけど来ちゃったんですよ、時間限定ですからねと、消え入りそうな語尾とトマトのように顔を赤らめるコイツがとてもとても愛おしい。
俺は眉間に寄っていた皺が少しずつほぐれていくのを感じた。
顔を隠す亜麻色の髪を耳にかけて頬を撫でると、小野寺は目をそらして唇を尖らせた。




全く俺たちは素直じゃない。
ひねくれていてなかなか相手を認められない。
漸く相手の感情を認めて、自己主張をすることを知ったそんな段階だと思っていたのに。
意外に俺たちは分かり合っているのかもしれない。

凍えるように寒い季節。二匹のヤマアラシが暖めようと近付く。しかし近づくとお互いの体の針が相手に刺さってしまう。かといって離れると寒くなる。
二匹は近付いたり離れたりを繰り返しながら、お互いに傷付かず、寒くもない距離を見つける。
ヤマアラシのジレンマ。
そんな言葉が脳裏を過ぎった。

お互いに近付いたり離れたりを繰り返しながら、お互いに心地よい距離を見つける。
それはまさに俺たちのこと。
小野寺の歩み寄りが俺の心を溶かす。
その分俺も小野寺に近付てもいいだろうか。
そんな高校生みたいな歩み寄りを重ねながら少しずつ近付いていこう。

「律…」

ん、といった顔で小野寺が目を丸くして小首を傾げる。小野寺の上から注ぐ電灯の光でその顔が逆光になっていることが非常に残念だが。
それでも。

「ありがと」

心の底からこみ上げる嬉しさには変わりがない。

その言葉を告げると、小野寺が少しだけ笑った気がした。





多忙には慣れていたし、人から疎まれるのにも慣れている。
自分に関心がない奴らにだってなんの感情も浮かばなかったのに。
そんな灰色の俺の感情を、コイツは瞬く間に塗り替える。
コイツは不思議に、俺を優しい気持ちにしてくれる。
後にも先にもそんな気持ちにさせられるのは小野寺だけだ。
だから、もうずっと、コイツには頭が上がらねーんだよ。


穏やかに流れる時の流れに意識を落とせば、優しい夢に包まれる。
頭を撫で、髪を優しく梳いてくれる、その手が嬉しくて、愛おしくて。
ずっとずっと夢の中にいられたらいいのにと思いながら、俺は夢の淵で微睡む幸せを感じていた。






以心伝心、君を思う









紀伊さまのリクエストで
高野と律がお互いのさりげない言動に愛を感じて幸せになるお話でした。
お互いの思いを慮って、それを受け入れられる二人が書きたかった。
そして膝枕が書きたかった…(笑)
紀伊さまのリクエストに叶う作品になっていれば良いのですが…。
素敵なリクエストをありがとうございました。