昼間の騒ぎが嘘の様に静まり返った夜。
私は薄暗い通路の壁に寄り掛かり、一人バルコニーに佇む小さな後姿を見つめる。
ファラオは六神官様達、護衛を下がらせ、一人バルコニーでずっと、お一人で何かを考えておられる様子だった。
時折、手のひらの何かをそっと見つめ、小さく息を吐いていた。
「そろそろ、お体に障ります」
冷え込みが激しくなる前にそう声を掛けると、ファラオの細い両肩が大きく跳ねた。
驚いた様子で振り返ったファラオは私の姿を見て更に驚いた様な顔をして、変な声を漏らした。
「…申し訳ございません。驚かせてしまって」
「あ、いや……その、腕はどうだ」
目の前で跪く私を一度見て、ファラオは視線をあっちへこっちへとさ迷わせ、最終的に私の怪我を負った腕に目を止めた。
「問題ありません」
「そう、か」
「顔を、見せてもらえないか」
躊躇いがちに言われ、私は昼間の騒ぎが治まってから、ずっと被っていたフードを取り除いた。
私の顔をじっと見つめ、言おうか言うまいか悩まれた様な様子でファラオは口を開く。
「お前は――"紫乃"、なのか」
不安そうな期待をする様な表情のファラオを見上げ、その名前を心の中でオウム返しに呟いた。
もう一度聞いたその名前には特別な感情は特に湧き上がってはこない。
「いや、すまない。忘れてくれ!そんな事を聞かれても困るよな」
私が答えられずに黙っていると、ファラオはそれを否定と思い慌てて胸の前で両手を振り言う。
「そうなのかもしれませんし、そうでないかもしれません」
「元々、今名乗っている名も本当の名かどうか、定かではありませんから」
やっと、私がそう答えるとファラオは目を微かに剥いて私を見返す。
私には幼い頃の記憶が無い。それは王宮中の人間が知っているし、ファラオだって知っている。
あぁ、そうだった…今でもそうだが、どこの誰かか分からないその上人とは違う姿をした私は迫害の的で、よく理由も無く殴られたものだ。
「私には未だ自分自身が何者なのか、分からないのです。
ですから、ファラオの問にちゃんと答える事は出来ないのです。申し訳ございません」
「いや、俺こそ変な事を聞いて悪かったな」
「けれど、ファラオ。あなた様を守って死ねるなら、私は自分が何者なのか、分からずとも私の生涯は幸せだったと、胸を張って言えましょう」
あなたはそれだけの事を私にして下さった。
あなたにとって、大した事ではないかもしれないけれど、それでも、私にとってはとても、とても…。
「…私はファラオが笑っていられれば、それだけで、幸せなのです」
END
(ね、寝る…ッ)(そちらは行き止まりです。ファラオ)
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