小説




「なまえ先輩、今日はいい匂いがしますね。あ、先輩はいつもいい匂いですけど!」


少し声を潜めながら、真月君は顔を近づけて、すんすんと私の匂いを嗅ぐ。
大きな目を伏せて、無防備で、小動物みたいなその子供っぽい仕草に少しホッとしてしまう。


真月君と会うのはちょっと辛い。けれど、避けたら避けたで何だか怖い。二人きりになるのも気が引けるので、多少人目のある場所で会う事にした。
今のところは何事もなく過ごせている。今日はお昼休みに図書室で会う約束。


適当な本を取り、空いている席へ着く。並んで座ると、また真月君はじっと私の顔を見つめる。


「それで、何の匂いです?」


「ただのリップクリームだよ」


普段、私が付けてないから、珍しいのかな。
最近、ストレスで唇が荒れ気味で、昨日の夜とうとうごはんの最中唇が切れた。
お昼ご飯を食べ終えたついさっきも塗ったばかりだったから、と言い掛けた時――ぺろっと真月君が私の唇を舐めた。
羞恥を感じるよりも先に、ゾッとするものが背中を這いずりまわって脳天から突き抜けた。





パチン!と大きな音がしたと思ったら、右手が熱くて少しぴりぴりと痺れている。


周囲が少しざわついて、何事かと視線が集まり出してから気付いた。私が真月君のほっぺを思いっきり叩いてしまった事に。
人を叩いた感触が残る自分の右手と真月君を見て、私はパニックに陥った。





「あ、…ご、めん、真月君、ごめんねッ」


どうしよう…痛かったよね。
いくらびっくりしたからって、人を叩いていいわけが無い。座っていた椅子を倒す勢いで立ち上がり、私は我に返った。
慌てて真月君に声を掛けるが、彼は叩かれて赤くなった頬を押さえて、少し俯いているので、私からどんな表情をしているのか見えない。


「ごめんなさい、せんぱい。あんまりおいしそうな匂いだから、味もするのかと思ってつい…」


匂いだけなんですね。とちょっと残念そうに言う。
彼が何でもない様にふにゃとした顔で笑っているので、集まっていた視線は再びそれぞれの意識を向ける本へと向けられた。





「ほんとに、ごめんな「――キスいっぱいしてるのに、まだ慣れてないんですね」


そんなところもすごく可愛いです。
震える私の声を遮り、不意に真月君はクスっと艶っぽく笑う。途端、脳内でけたたましい警報音が鳴る。
真月君は何かの拍子に急に雰囲気が変わってぐんっと大人っぽくなってしまう。背伸びをしている、という感じじゃない。
二重人格とまではいかないけれど、二面性がある事は確かで、普段の子犬の様な可愛らしさからは想像出来ない事を私に言ったり、したりもする。


「ぁ…」


それじゃあ行きましょうかと言うみたいに真月君は立ち上がると、自分を叩いた方の私の手を取った。
私はこの時が一番逃げ出したいのに、しっかりと手を繋がれて、真月君に引っ張られる方向へとしか動けない。
真月君は…相変わらずにこにこしているのに、鼻歌まで歌いそうな雰囲気なのに。
私はこれから何かされるんじゃないかという不安に心臓が煩く鳴って、声が出ない。










前を歩く背中を見る事が出来なくてずっと、俯いて歩いていたので、辿り着いたここが学校のどのへんかは分からない。
この前と同じ教室かもしれないし、そうではないかもしれない。真月君は笑顔を絶やさないで、私の右手を労わる様にそっと引き寄せた。
辺りがシンと、静まり返っているので私の心臓の音が恐怖で鳴っているのが、やけに大きく頭の中に響く。


「手、痛くないですか」


言いながら、叩かれた自分の頬の上に私の右手を重ねる。
赤くなって、熱を持った私の手のひらと同じ赤くて熱い真月君の頬。
まるで「同じですね」と言いたげに彼は大きな目を細めた。


あぁ、もう駄目と目から、涙が溢れた。私は情けなくしゃくり上げながら、目をぎゅっと瞑って真月君から視線を逸らす。


「ごめ、しんげつくん、ごめんなさ…っ」


「泣かないで、なまえ先輩…僕怒ってないから。本当ですよ」


本格的に泣き出す私に小さな子供をあやす様に、私の身体を抱きしめてなだめるように背中を擦る。
違うの、叩いた事への罪悪感だけで泣いているんじゃないの。


「ちが…ごめんなさい、ごめんなさい…私もう、真月君とは…っ」


そこまで言い掛けて、息が詰まった。泣いていた所為で、息継ぎが上手く出来ない。
真月君の胸をぐっと押して、泣いたまま俯いて息を整える。


「ちがうの」


もう真月君とは一緒にいれない。いや、本当はいたくない。
嫌いじゃないのに、可愛いと思ってるよでも、どうしてだろう真月君の事が時々恐ろしくてたまらないの。今みたいに。
一緒にいても、抱きしめられても、キスをされても、慣れない。不安はなくならない。怖いのがなくならない。
これ以上真月君の事を好きになれない。一緒にいると、私頭がおかしくなりそうなの。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…ごめんなさい。





「…僕は大好きななまえ先輩になら、何をされても平気だから」


言いながら、私の涙でぐちゃぐちゃになった顔を両手で包んで、真月君は優しく私を向き合させる。
大きな宝石みたいな目の中に酷い顔をした私が映っている。彼はそんな私を愛おしそうに見つめている。
とても素敵なシチュエーションなにの、私の心と身体は不安に凍ったまま。


「先輩に怒ったり、先輩を嫌ったりなんかしませんよ?だから――」


もっと、僕を強く叩いたっていいし、もっと、僕に酷い事をしたっていい。
どうして私にそんな事をそんな楽しそうな声と笑顔で言うんだろう。





「だから、その先の言葉は言わせません」


真月君はいつものケーキみたいな甘い笑顔と、そしてちょっと低めの声で言った。





貴女は僕のものですから
(絶対、はなしてあげません)
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