賢冬



 「暑い…なんでこんなに暑いんだろう」

 レースのカーテンを通り抜けて真夏の陽射しが床に伸びる。光の先端は皮張りのソファの脚まで届いている。もう数時間もすればソファが光に飲み込まれるのは解りきっていた。

 「暑い暑いなんて言うだけ無駄だって知ってるかい、イヴェ君?」

 「でも暑いんだよね…空気を冷やしてくれるような仕掛けを作ってよ、サヴァン」

 気怠げにソファから起き上がりながらイヴェールは言う。視界の端にくたびれたスーツを着た賢者が映った。長袖に長ズボン、見るからに暑そうであるが人のことは言えない、と思った。

 パタパタと手で風を送っても生暖かい風が頬を撫でる程度で涼しいはずもない。逆に人肌程度の空気が纏わり付いて不快なだけであった。

 「何か冷たいものが食べたいな。アイスクリームとか」

 「イヴェ君はすぐ冷たいもの食べるとすぐにお腹壊すでしょ?アイスコーヒーでも出してあげるから」

 「ミルクと砂糖も忘れないでね」

 解ってるよ、と言い残して賢者は日光のない廊下へと出て行った。風が通る廊下は心地好さそうだが、熱にやられたイヴェールはソファから立ち上がることすら億劫だった。

 虚ろな紅と碧の瞳は部屋の隅にある暖炉と日光の侵入口である大きな窓を捕らえる。冬はどちらも部屋を快適な温度に保ってくれるものだが、今の季節はその存在が疎ましい。罪は無くとも、イヴェールの苛立ちの矛先はその2つに自然と向いてしまう。

 「見てるだけで暑くなるよ…あの暖炉から冷たい空気が流れて来たらいいのに。冬は暖かく、夏は涼しくしてくれるなら暖炉も悪くない。…せめて日光だけでも何とかならないかな」

 窓に取り付けられた金糸の刺繍のダークグレーのカーテンはおとなしくタッセルに捕まっている。あの豪奢なタッセルを解いてカーテンを閉めれば部屋は涼しくなるだろうか、とイヴェールは回転の遅くなった頭で考えた。

 タッセルがカーテンを解放する。滑らかな動作でカーテンが閉まり、途端に部屋が薄暗くなる。ソファに寝そべるイヴェールはいきなりの事態に目をきょろきょろさせた。

 「えっ!?何なの!?」

 イヴェールが驚いている間に1つ、また1つと部屋のカーテンが独りでに閉まっていく。仕舞いには部屋は暗闇になった。

 「僕何もしてないのに…サヴァンー!助けて!怖いー!」

 涙目になりながらイヴェールは叫ぶ。しかし、どれだけ叫ぼうとも賢者が現れる気配はない。わけも解らず部屋を歩き回れば、肩に何か固いものが当たった。

 「幽霊なの!?僕は何も悪いことしてないよ、お願いだから襲わないで!」

 ことん、と前方で何かが床に落ちる音がした。次にすぐ近くでも何かがずれる音。頭上の送風機がいきなり回りだし、イヴェールの髪を揺らす。

 「嫌だ、嫌だよ、まだ僕には探さなきゃいけないものが沢山あるんだから…」

 恐怖と絶望に体が震える。得体の知れない恐怖が足元から忍び寄ってくるのが感じられた。全身鳥肌が立ち、首に一筋の汗が流れる。

 規則正しい足音がイヴェールの耳に届く。それは人間のものに酷似しており、今この家にいる人間を並べ、彼は恐る恐る尋ねる。

 「…サヴァン?」

 9割の確信を持ってイヴェールはその音を紡ぐ。だが背後にいるであろう存在は答えを返さない。彼の知る賢者ならば必ず答えてくれるはずである。それなのに足音の主は何も語らない。

 冷たくて、湿っぽくて、弾力がある塊がイヴェールの頬を撫でる。しばらく頬を撫でた後、それは白い首筋へと移動し、衣服の中にまで侵入しようとする。

 「う、うわぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 あまりのことにイヴェールは意識を手放す。地面に倒れようとした瞬間、彼の体はしっかりと何かに支えられた。

 「イヴェ君!ごめんね、大丈夫!?」

 暗くて視覚は働かなくとも声の主は特定出来る。少し掠れたその声を聞き間違えるはずもない。

 「サヴァン…」

 「まさかここまで怖がるとは思わなかったよ。ごめんね、からかって」

 「今までのは全部サヴァンがやったことだったの?」

 「人間は恐怖を感じると寒さを感じるでしょ?だから涼しくしてあげようと思ったんだよ」

 部屋のカーテンが次々と開いていく。よく見てみると、全てのカーテンは1本のロープで繋がれており、その先端は賢者の右手の中にあった。机の上のワイングラスと硝子棚の中の天使を象った置物が倒れている。

 「僕は怖くて怖くて仕方なかったんだよ…幽霊が僕に襲い掛かってくるかと思ったんだ。最後に何か変なものが触れた時はもう終わりだって思ったし」

 「こういうものには定番だからね、コンニャクは。でも、ここまで怖がってくれたなら良かったよ。イヴェ君、少しは涼しくなったかな?」

 「涼しいなんてものじゃない。寒くなっちゃったじゃないか」

 安心しきった微笑みを浮かべてイヴェールは賢者に抱き着く。

 「でも今度はもうちょっと怖くない方法で涼しくして欲しいな」

 視界の半分を占める銀の髪に賢者は手を滑らす。八方に無造作に跳ねる髪を梳けばイヴェールに更に強く抱きしめられる。

 「アイスコーヒー持ってきたいからちょっと離して貰えるかい?」

 「もう寒くなったからいらないよ。その分サヴァンであったまるから」

 全く世話の焼ける子だ。そう独りごちて賢者は溜め息をつく。そして、一向に離そうとしないイヴェールに対抗するように賢者も力一杯抱きしめ返した。



















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