イドルフリート→王子



 古井戸の湛える水の面を見つめながら彼を呼ぶ。もはや僕の日課となってしまった。根気よく歌い、呼び続ければいつか彼は現れる。

 毎回眉を潜められるが、それは表面だけの話であり、ただの照れ隠しの一環にすぎない。間違いなく、彼は僕が会いに来れば、ほんの少しだけ頬が赤らむのだ。これに関しては自意識過剰の筈がない。何故ならエリーゼのお墨付きだ。

 「メルヒェン、今日も会いに来たよ。姿を見せては貰えないかい?」

 揺れる水面に手を差し出して語る。どれだけ目を凝らしても彼の気配すら見られない。また今日も煩わしくも楽しい駆け引きをしなければならないようだ。

 「おや、もしかして君は彼の言っていた王子様ではないかな?」

 背後から声を書けられる。どこかで聞き覚えのある声に釣られて振り返れば、そこには人影が1つあった。

 爪先から辿れば、宵闇の屍揮者と同じだが、決定的な違いがあった。その肌は彼よりも随分と血色良く、髪は夜と相対する朝、太陽の色をしている。掛けられた声は確かに彼に似ているが、全くの別人である。

 「彼…とはメルヒェンのことですか?」

 「その通り。毎回のように私に君への文句を吐き出してくるのだよ。意味の解らない、全くもって悪趣味な、奇怪な王子がいるとね。最も、私には惚気にしか聞こえない」

 「なるほど、メルヒェンが…ねぇ」

 ここ最近の彼の態度には違和感を感じていた。この男の言うことが真ならば僕の努力も無駄ではない、と言うことだ。そのことに軽く満足を覚えてしまえば、口角の上昇は抑えられない。

 「随分と嬉しそうだね、王子様」

 「僕のエリスが陰ではあるもののそんな風であると聞けば当たり前ですよ。…僕としたことが失念していた。僕はとある国の王子、名は…」

 「わざわざ名乗ってくれる必要はない。私は君を王子、と呼ぶ。だがこちらは名乗らねばならないだろうね。私の名前はイドルフリート=エーレンベルク。イド、と呼んでくれたまえ」

 大袈裟に僕の言葉を遮ってイドルフリートは言った。イドと呼べ、と言われたが、僕は到底それが人を呼ぶ名とは思えない。それに何より『イド』の名を冠するに相応しい者を僕は1人しか認められない。

 「イドルフリートでは長いな…ならばイドル、でどうだろうか。そうだ、それがいい」

 「君がそう呼びたいのなら私は別に構わないよ。ただその呼び名をつけたのは君が初めてだ」

 イドルは何故か少し嬉しそうになる。美しい毛並みの大型犬が尻尾を振っているようだ。彼の頭に手を伸ばしかけて、ふと我に帰る。いくら相手がこちらを知っているとはいえ、不躾すぎるではないか。

 「イドル、僕はメルヒェンに用があってここへ来たのだが…彼はどこへ?」

 「さあ?私は彼をそこまで熟知しているわけではないからね。大方屍人姫にでも会いに行ったのかと。…君もメルヒェンも似ている。害のない人間だと解った瞬間に素を出すのだからね」

 ぐい、と手を引かれ、油断しきっていた僕は簡単に体勢を崩す。自分としたことが、彼の名1つでここまで無防備になってしまった。咄嗟に目を走らせれば、イドルの腰には繊細に彫刻された剣があった。

 こんなにあっさりと僕も死体になってしまうのか、と思うと同時に彼は悲しんでくれるだろうか、なんて思う。それとも悲しむよりも先に復讐劇を始めるだろうか。刺殺、まあそこまで悪い死に方ではない。

 早口でメルヒェンへの遺言を心で呟く。それなのに、別れを告げたというのに、僕の心臓は止まる気配を見せなかった。

 「気に入ったよ、君のこと」

 予想を大幅に裏切り、僕の心臓は貫かれなかった。その代わりに僕はイドルの腕に捕らえられていたのだ。

 彼の胸に耳を澄ましても脈動は聞こえない。抱きしめられて初めて解った体温はどこまでもメルヒェンと同じ、死人のものである。

 「君はメルヒェンに執着しているようだね。初めは君が唯一愛せる存在、つまり死人だったから。それは私も同じ」

 死んでいるというのに何故か心は全く揺すぶられない。普通好意を向けられれば多少の気持ちの高ぶりはある。このイドルフリートは自分好意を抱いている、しかも美しい死人だ。それなのに僕は不思議なほど何も感じられない。

 鳴らない心臓も、冷たい肌も。無条件で僕が好きなものの筈だ。

 「…それほどまでに僕は君を愛してしまっているのか」

 決してイドルには届かないほどの声で呟く。そしてするりと彼の腕から抜け出し、井戸に背を向けた。

 「残念ながら僕は君を愛せないようだ」

 声高に言い振り向きもせずに手を振る。彼のいない森に用などないのだ。




 「それでこそ振り向かせがいがあるというものだ」

 王子が去りて後、森に消えた声を聴いた者は誰もいない。

















前サイトのもの
まだイドさんが分かり切ってない頃のためキャラがおかしい
これ以外では王子もちゃんとイド、と呼びます
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