王子とメルヒェン



 「眠れないんだ。こうやって目を閉じていると視界はゼロになる。それが怖くて目を閉ざせないんだ」

 前触れもなく井戸に訪れて王子はそう言った。その顔を見てみれば切れ長の目は心なしか鋭さを失い、深海のような瞳はくぐもっている。隈が頬まで広がり、日頃の彼とは別人だった。

 「不眠症かい?君らしくもない。何か悩みでもあったかな?」

 「悩み…そんなものはないよ。ただ目を閉じるのが怖くてたまらないんだ。目をつむった瞬間誰かに斬られそうな、絞め殺されそうな、そんな予感がするんだ」

 「大丈夫。誰も君を殺す訳がないじゃないか」

 「そう言い聞かせてはいるんだけどね。僕はどうしたのだろう。もう5日も眠っていない。24時間が5日。120時間も眠っていないのに、やっぱり今日も眠れそうにない」

 弱々しい声で王子は告げる。地を踏み締める足も傾きかけていて立っていることさえやっとのようだ。

 僕が知っている王子は彼ではない。反射的にそう思ってしまうほどに彼は衰弱していた。透き通る凛とした声も一心に射抜いてくる瞳もない。僕が気に入った王子と彼には天地よりも大きな差があった。

 「…メルヒェン」

 一歩踏み出そうとすれば、ついに王子は体勢を崩して前へ倒れる。地につくよりも早く、僕は駆け寄って抱き留めた。王子は信じられないほどに軽く、眠っていないだけでなく、どうやらろくに食べてもいないようだ。

 「全くどうしてこんな体でここに来たんだ。結果的に僕に会えてよかったものを、もし森の中で倒れてしまっていたら…」

 「僕を殺すのは僕と君しか許さない。だからそんなことは心配無用だよ。想人を悲しませるような真似、この僕がするとでも思っているのかい」

 「少なくとも、僕は今とても悲しい」

 抱きしめる力を強めて言えば、王子は仄かに微笑んだ。くすくすと笑う声が擽ったい。弱っていても彼は彼なのだ、と実感させてくれて、それは僕を酷く安心させた。

 「ありがとう、メルヒェン。こんな僕なのに気を掛けてくれるなんて…君、宵闇じゃなくて光の方が似合うんじゃないかな」

 「馬鹿を言うものじゃない。私はメルツの陰となる存在だ」

 「君はそう思っているかもしれないけれど僕には光だよ。淋しいときに照らし出してくれる、君は暖かさをくれるからね。だから僕はここに来たのかもしれない。幼い日々に抱いた想いが僕を誘ったのだろう」

 王子は今にも地に落ちそうな腕を伸ばしてくる。その指先は僕の頬に触れ、夜に染まった髪へ絡まる。

 「眠れないのならしばらくここにいるといい。ここは人を眠りへ誘う空気が流れているからね」

 少々強引に王子を剥がし、僕は露に濡れた草に座る。足を崩し、王子の頭を乗せれば、それは所詮膝枕というものだ。

 訳が解らないような顔をして王子が見上げてくる。視線が噛み合った瞬間、僕は正気に戻り、彼は満足そうに笑った。

 「これ…まるで僕達が恋人みたいだね」

 「いいからさっさと眠ってくれないか。…私は死にそうなほどに恥ずかしいんだ」

 王子の目が見えなくなるように、無理矢理瞼を下ろさせる。両目の上に重ねた僕の手は寝具のアイマスクを思いださせた。

 闇が怖くて眠れない王子に新たな闇を与えてしまったのではないか、と焦るがその必要は皆無だったようだ。数分経たぬうちに規則正しい寝息が聞こえてきて、膝に掛かる重みも増えた。

 こうも穏やかに眠る彼を見ると、何故眠れなかったのかが解らない。彼が今眠れているのは本当に自分のお陰とでもいうのだろうか。

 足に血が通わず、痺れがじわじわと上がってくる。だがこの程度、ここ数日の王子と比べたら何てことはないのだ。少しでも心地好く眠れるならば何でもしよう。そう柄にもないことを思った。


















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