欠ける月
夜空にはまんまるお月さまが浮かんでいた。
少ない街灯いがいで夜道を照らすのはあのお月さまの光だけ。小さい頃からお世話になっているその柔らかな光を頼りに夜道を歩いていく。今日も変わらず照らしつづけてくれてありがとう。柔らかい、でもどこか寂しそうな光を放つお月さまを見上げながら歩く。
歩き慣れた道。靴の下で砂利が音を鳴らす。どこからともなく聞こえてくる虫の鳴き声も、むかしからなにひとつ変わらない。何度も駆けて、何度も歩いた道。そしてその道を歩くとき俺の隣にはいつも同じ人間がいた。もちろんその人物は今日も俺の隣を歩いている。
これもまた、変わらないものの一つだった。
「上を見ながら歩いてたら転けるぞ」
「大丈夫だって、慣れてるし」
「とか言っていつも転けてるだろうが」
「あれ?そうだっけ?」
「…おまえなぁ」
隣で苦笑する男に俺は「大丈夫だって、本当に」と笑う。
いままではたしかに転んでいたかもしれないけれど、これからは大丈夫。これからの俺がこの道を歩いて転ぶことはもうないだろう。だから過保護な君よ、安心したまえ。なんて思うけれども男は俺の言葉が信じられないのか一つため息をこぼした。副音声をつけるなら「やれやれ」だろうか。そのまったく信用していない様子に内心で苦笑する。
どうやらなにを言っても男のなかでの俺はいつまでもてのかかるやつのままらしい。
「そういって転けても知らないからな」
ぽそり。少しだけ哀愁を漂わせて男がつぶやく。
俺はそれには答えずにただ月を見上げたまま歩き続けた。
まるい。まんまるだ。今日は月の形が綺麗に見える満月の日なのだと母さんが言っていたけど、本当に、なんて綺麗なお月さまだろうか。
あの黄金色の球体にはうさぎが住んでいて餅をついていると昔の人は信じていたらしいけど、本当にそうだったら面白いのに。もしかしたら人間が月に降り立つまではうさぎたちがあの黄金色で過ごしていたかもしれない。それなら、あの場所にいたうさぎたちはどこに行ってしまったのだろうか。どこかに行くあてはあったのだろうか。
つらつらと考えてしまうのは逃避したいからだと分かっている。考えたくないことから意識をそらすために、関係のないことで頭のなかをいっぱいにしようしている。
けれどこんなことでも考えていないとなんだか色んなものが溢れ出してしまいそうだった。
「…ここでかけっこしてたとき、おまえ顔面からずっこけたの覚えてるか?」
「覚えてる。あのとき口の中にも砂利がはいってきて大変だったもん」
「起き上がったおまえの額がぱっくりいってて血だらけだったのには本気でビビったんだぞ」
「…俺はお前の顔にびびった」
ぽつり、ぽつり。
夜のなかで言葉を落としていく。
夜のなかでむかしを思いだす。
男の言ったとおり、俺はむかしこの道で男とかけっこをしていたときにずっこけて額を縫う怪我を負ったことがある。後ろから追いかけてくるあいつに負けないようにと大きく踏みだした瞬間足をくじいてずっこけたのだ。
受け身を取る暇もなくこけた俺はそれはもう見事に顔から砂利につっこんでいった。漫画顔負けのずっこけ方だったなといまになって思うけど、あのときは一瞬なにが起こったのか分からなかった。いきなり口の中は砂利だらけになるし、額は怪我してじんじん痛むし……なぜか男はまるでこの世の終わりとばかりの表情を浮かべているし…。あぁ、でも、男を安心させるために苦労したことはよく覚えている。怪我をしたことよりも、そっちの記憶のほうが俺のなかでは鮮明に残っていた。
こけて怪我をした本人よりも悲痛な表情を男が浮かべていたものだから俺は自分の怪我の痛みをどうにかするよりも、男をいかにして宥めて安心させるかに頭を働かせていた。
大丈夫だ。こんなのへっちゃらだ。母さんのげんこつより痛くない。タンスの角に足の小指をぶつけるよりも痛くない。だから大丈夫。そんな不安そうな顔をするな。
顔面から血を流している子供が怪我はしていないが真っ青な顔をして泣きそうになっている子供を一生懸命なだめようとしている光景はさぞかし異様なものだっただろう。だけどあのときのは俺はとにかく男の憂いを晴らしてやろうと幼心に必死だったのだ。
結局俺が怪我の痛みに喚き泣くことはなかった。男は少しだけ泣いていたけど。
「振り向いたおまえの顔が血だらけだったらそりゃ驚くだろ。あのときは心臓が止まるかと思った」
「俺よりお前のほうが悲壮な顔してたもんな」
いまでも鮮明に思い出せるほど、あのときの男の顔は脳裏に焼きついていた。
大きくなって端整になった顔もむかしは女の子のように可愛らしくて、そんな顔が悲壮に染まる様子は忘れたくても忘れられないくらいの衝撃を俺に与えた。
「あたりまえだ。あれから俺はおまえがこの道を通るたびドキドキして仕方がない」
「なにそれ吊り橋効果みたい」
「茶化すなバカ」
「ごめんごめん」
「誠意がない。本当に気をつけろよ、俺のためにも」
「…分かってるって」
いつまでたっても過保護な男に俺は苦笑する。あのずっこけ事件のせいで、すっかり男は過保護になってしまった。
でもその気遣いがとても心地良かった。声変わりをへて低くなった声が俺を心配してくれるたび、この身を駆け抜けるのはいつだってほんの少しの気恥ずかしさと嬉しさだった。
むかしは俺のほうが高かった身長も中学に上がる頃には抜かれてしまった。下だった目線が同じになり、いつしか見上げるようになっていたときは悔しかったけど、それと同時にドキドキした。高いところから見つめられると守られているような安心感に包まれる。
まぁ、じっさい男は立派になったその体躯で俺のことを守ってくれていたのだけれど。
なんども転けそうになる俺の腕を掴んで引き戻し「気をつけろ」と心配してくれた。俺のささいな変化にも男は敏感で、ときには言葉をかけて、ときには黙って側に居てくれた。どんなときだって、いつだって、俺の腕を掴んで助けてくれた。
「だいたいおまえは注意力が散漫すぎる」
どうやら男のお説教モードのスイッチが入ってしまったようだ。
耳心地のいい声でぶつくさと文句を言いだす男の声に苦笑しながら俺は耳を傾ける。少女のように高かった声はいつのまにか低く、甘い響きを含む男の声になっていた。
「ちゃんとしてるかと思ったらそうじゃないし、ぽやぽやしすぎなんだよ。あと一つのことに集中するのはいいけど、すこしは周りの様子も気にしろ」
お月さまはあいかわらずまんまるで夜空に浮かんでいる。
砂利を踏む音にまじって聴こえてくるお説教に、いつもだったらじゃかしいわと反論するけどどうしてかいまはうまく言葉を紡げない。
いつにない大人しさで、男の言葉を受け入れる。
「人がどれたけ注意してもすぐに忘れるのもどうかと思うぞ。おまえは忘れっぽいんだからメモを取れ、メモを。…あぁでも、そのメモさえ無くしそうだな」
おかしそうに笑う男にたしかにそうかもな、と俺も笑った。お前の言う通り、俺はメモをしたメモさえ無くしてしまいそうだ。大切なことを書きとめた紙の束を、きっと俺はすぐに無くしてしまうことだろう。そのなかに綴られたことも、忘れてしまうだろう。
いつもメモよりも優秀な男がそばにいて俺が忘れていたことを教えてくれるから、俺の記憶力はどんどん退化してしまったのだ。どうしてくれるんだ。お前のせいで俺の脳みそは忘れることに特化してしまったじゃないか。
そう文句を言ってやろうと思って、でも俺は口を開くことなく月を見続けた。
「そうだ。首にメモ帳ぶらさげるとかどうだ?それならさすがのおまえでも無くさないだろ。…やばい。首にメモ帳とか面白すぎる」
自分の提案がツボに入ったのかくくくと男が笑う。本人の隣で笑うとか失礼な奴だなぁと思いつつやはり俺は何も言わなかった。
ひたすら男の声を鼓膜に流しこむ。
「まぁ、とにかく怪我だけはしてくれるなよ」
ひとしきり笑ったあとそう締めくくった男に「ならお前がそばにいればいいだろ」と言いそうになるのをこらえる。喉元まででかかった言葉を押し込んで、代わりに「分かった。気をつける」と告げる。なにも分かりたくなかったけど、俺に用意されたセリフはこれしかなかったから。本当に言いたいことは全部飲み込んで頷く俺に男は「そうしてくれ」と呟いて口を閉ざした。とたんおとずれる沈黙。夜の道は驚くほど音が少なく静かだった。
この間ずっと俺は月を見上げて歩いていて、そして男はその間ずっと隣を歩く俺に気を配っていた。いつ俺が転けても大丈夫なように。いつでも俺の腕を引いて助けられるように。あの時から男はずっと、俺のことを気にかけてくれていた。
漠然と、いつまでもそれが続くものだと思っていた。いつまでも男は俺の隣にいて、転けそうになる俺の腕を引いてくれるものだと思っていた。振り向いた先に男がいないなんてこと、考えたこともなかったんだ。
でもそれが夢のように儚く存在し続けられないものだと知った。
子供だった俺には、大人になるということがどんなことか分かっていなかったのだ。この腕を掴み引き戻してくれる行為が、子供のうちにだけ許されていたものだと知らなかった。俺が当たり前だと思い、これからも与えられると思っていたものには期限が定められていたのだ。
小さなころ憧れていた大人になるために、俺たちはなにかを犠牲にしていく。
俺がなにかを犠牲にしたように、隣の男もなにかを犠牲にしたのだろうか。
男はなにを、大人になるために置いていくことにしたのだろうか。
ざくざく歩く。
二人、幼いころから歩き続けて駆け抜けた道を。
俺たちのそばに街灯はない。こんな田舎町にある街灯の数は限られていて、あったとしても驚くほど街灯と街灯のあいだがあいている。
見上げていた顔をもどせば、はるか遠くにぼんやりと貴重な街灯の灯りが見えた。ぼんやりと暗闇に浮かぶ灯りはなんだか違う世界への入り口みたいで不思議な感じがした。
あの灯りのところへ行けば、ちがう未来が待っているだろうか。なんて考えてしまって口元が自嘲に歪む。そんなこと、あるわけがないだろう。あの灯りのところへいってもあるのは街灯だけで、それいがいのものは存在しない。
気がつけば男がいつも隣にいた。
いつもいつも、そばにいたのに。
なんだか込み上げてくるものがあって、額を怪我したときは大丈夫だったのに視界が滲む。
それが隣を歩く男にはばれませんようにと思いながら、俺は再び月を見上げて沈黙を破った。
「……月が、綺麗だな」
そうこぼした瞬間、隣の男が息を飲むのが気配で伝わってきた。俺は頑なに月を見上げ続けた。これ以上月が滲んでしまわぬよう目に力を込めて、睨みつけるように月を見上げる。
しばらく俺たちの間には沈黙が続き、やがて意を決したように男が口を開く。
「…そうだな」
「…ッ」
返された言葉に今度は俺が息を飲む。
優しく、密やかに言われた台詞にたまらず頬をなにかが流れて、落ちていく。次から次へと溢れてくるそれのせいで、ついにお月さまは滲みすぎてその形がまんまるじゃなくなってしまった。せっかく綺麗なまんまるだったのに。それが勿体無くて、口惜しくて、唇を噛み締める。
爆発的に意味のない大声をあげてしまいたくなった。なんでもいい、なんでもいいから大きな声で喚き散らしたい衝動にかられる。攻撃的な気持ちがぐるぐると身の内で湧き起こって、どうにかなってしまいそうだった。
だけどそうしたくなる自分を押し殺して、でも荒れ狂う感情を押し込めて短くこぼす。
お月さまはもう、ぼやけすぎてその色しか判別できなくなっていた。
「ばかやろう…」
「……うん。ごめんな」
いまにも夜に溶けてしまいそうな声で男が謝る。
でも俺が欲しいのはそんな言葉じゃない。
それはきっと男も分かっている。だけどそれを簡単に言えるほど俺たちは子供じゃなくなってしまった。もう俺たちは無知をよそえない。分からないふりをすることもできなくなったのだ。だからと言ってそれを背負えるほど俺たちは大人にもなりきれていなかった。中途半端な位置でどちらにもいけず、俺たちはどちらも選べず、けっきょくなににもなれなかった。
想いを押し殺して、なかった事にして、置きざりにして、足元に捨て去ったそれを見ないように上を向いて歩いていくしかない。
(ずっと俺のそばにいろよ)
そうして音にできない願いは叶えられることもなく、月明かりの下眠るのだ。
二度と交わらない道を恋しがりながら。
俺たちは、今日から違う道を歩いていく。
END
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