夢心中
おやすみできない。おやすみさせない。
「やぁ、こんばんは」
「…こんばんは」
いつからか現れるようになった男の挨拶に、また今日もかと諦め交じりの言葉を返した。
夜眠るのが怖かった。
真っ暗闇、目を閉じるといろんなことが頭の中に浮かんでくる。
洪水のように考えたくないことが俺の意思に関係なく頭の中に流れ込んできてしまうのだ。
今ついている仕事のことだとか、今後のことだとか、俺はいつまで独り身なんだろうとか、実家への仕送りのことだとか、そもそもなんで俺ってここに居るんだっけ、とか。そんなことを考えたくもないのに、考えてしまって眠れない。
社会人の朝は早い。だから早く寝てしまわないといけないのに、横になって目をつぶったとたんそんなことが頭に溢れてくるものだから俺の意識は冴えてしまい眠りとは全く逆の状態になってしまう。
眠りたいのに、眠れない。
それはとんでもないストレスとなって俺の精神を苛んだ。
俺は早く眠りたいのだ。また明日も仕事がある。朝の六時半に起きて弁当を作って朝ごはんを食べて、しなければいけないことがそれなりにあるのだ。それに順分な睡眠をとれないと仕事中頭がボーっとしてしまう。すっきりしない頭ではミスをしてしまいがちになるから、極力そんな悪循環は避けたいのである。だからはやく俺を眠らせてくれ。
そう思えば思うほど俺の心拍数は上がって行き、睡魔ははるか遠くへいってしまう。
暗闇のなか何度も寝返りをうってなかなかきてくれない睡魔を待つ。これを考えるのは今じゃなくてもいいじゃないか。どうして寝る間際になって頭の中に溢れてくるんだ。瞼の裏に呼び込んだのは眠りを誘うための暗闇なのに、どうして睡魔がきてくれないんだろう。
羊を数えてもダメだった。横一列にならんでこちらをじーっと見てくる羊たちはもはやホラーである。睡眠導入の音楽をかけてもいらいらするばかりで効果は無し。流れてくる水の音に関しては睡眠ではなく、尿意導入にしかならなかった。いっそのこと眠ることを諦めてしまおうとすればその後も睡魔がくることなく朝を迎えてしまう。俺の想いむなしく、カーテンの向こうが明るくなっていくのを見守る日々が続いた。
明るくなる空と、聞こえてくる鳥たちのさえずりにどれだけの絶望を抱いたことか。
なんでだ。どうして俺は眠れない。俺の眠りの邪魔をする。
このままこの仕事を続けてどうなるんだろうとか、考えても仕方がないじゃないか。たしかに俺がやりたかった仕事じゃないし、俺が思い描いていた未来とはまったく違うけれど、ここで生きていくためにはお金がいるんだ。
でもどうして俺はこんなところにいるんだろう。夢があってここに来たはずなのにその夢とはまったく違う仕事をして毎日を過ごして一日が終わる。やりたかったことはなんだった?やりたいことをする為に、夢を叶えるためにお金を稼いでいたはずなのに、いつの間に俺は生きるためだけに働くようになった?
そう考えるたび『頑張れ』と俺の背中を押して送り出してくれた両親の顔を思い出す。『お前ならできる』と、俺のことを信じて送り出してくれたのに俺はなにも成し遂げることもできずに関係のない仕事について日々を送っている。何をしているんだろう、何をしたいんだろう。
中途半端な状態で、そのくせ夢を諦めきれずにいるのだからお笑いものだ。
後ろめたさから自然と両親に連絡をする回数も減った。ときおり元気にしているのかと電話してくる両親に答えるたび心が重くなる。夢のことに関してなにも聞いてこない両親の優しさに、諦めてしまったとも言えない自分に虚しさがつのっていく。
きっとうすうす両親も俺が夢を諦めたことに気がついていると思う。なのにそのことには触れないで、俺のやりたいようにやればいいと言ってくれる。
…あれ、なんで俺はここにいるんだっけ?
働いて、精神をすり減らして、家に帰ってごはんを食べて、だらだら時間を過ごして、明日のために寝る。寝るのだって最近は思考が邪魔をしてまったく眠れていない。薬の力を借りようと何度も思ったけど、そうすると薬に依存してしまいそうで手が出せなかった。眠れないことを相談出来る相手もいなくて、俺は暗闇の中じっと睡魔がくるのを待つしかなかった。
俺の思いに反して眠れない日は続いていく。
朝方仮眠のように一、二時間眠る。
睡眠不足のせいで仕事でも小さなミスが目立ちだし、それを上司に咎められることが増えた。
思い描いていたものとは大きく違う人生を歩む日々。
一人眠れない夜をすごしていく日々が増えていく。静かな空間のなか、はやる自分の鼓動の音を聞き続ける。やがて俺はあんなに欲していた眠るという行為を恐ろしいと思うようになっていた。眠ろうとするたび考えたくもないことばかり頭に浮かび、眠れたと思っても嫌な夢をみてしまう。
そんな日々が続いたある日、俺は一人の男と出逢った。
いきなり現れたそいつは、頭のうえからつま先まで真っ黒に染めていた。髪の毛も、瞳の色も、着ている服も、綺麗な黒。だけどその肌は透き通るように、白い。どこまでも真っ白な空間に突然現れた黒を背負った男は、とても軽い調子で片手を上げて笑った。
やぁ、こんばんは。
唇の隙間からのぞく歯は白かった。
落ち着いた低い声が、真っ白い世界を揺らして鼓膜へと届く。
挨拶をしてくるその感じはとても親しげで、まるで目の前の男とは既知の間柄なのかと首を傾げるほどだった。
だけど、俺にはこんなどこか浮世離れした雰囲気を持つ知り合いはいない。その前にこの男のように恐ろしく容姿の整った知り合いじたい居なかった。こんな美麗の男なら一度見たら忘れないだろう。でも俺の記憶にこんな男は存在しない。それもそうだろう。だって俺が男と出会ったのは、
「…こ、こんばんは」
明け方にみる夢の中だったのだから。
男は、あいもかわらず笑っていた。
独特の雰囲気を持つ男とこうして夢の中で会うのは何度目だろう。
五度目を迎えた時から数えるのをやめてしまったけれど、きっと数十回は超えているはずだ。なぜなら男はほぼ毎日のように現れ俺に「やぁ」と微笑みかけるから。
カーテンの向こう、空が明るくなるころやっとやってくるまどろみに身を任せてみる夢のなか、真白な世界に黒をまとった男は現れる。
まるで俺が焦がれる『夜』を表すように黒をまとう男。耳に届く声はしっとりと濡れて心地よく、落ち着いた低い声は安堵をさそう。目を見張る美貌より生み出される微笑みから、目が離せない。
同じように挨拶を返したきり黙り込んでしまった俺に、男はやれやれといった感じの表情を浮かべる。そしてどこから現れたのか分からないこれまた真っ黒な豪奢な椅子に腰掛けて俺に笑いかける。
「その様子だと、また今日も駄目だったみたいだね」
君はなにをそんなに恐れているんだろうね。
続けられたセリフに俺は苦々しい気分になる。きっと苦虫を数百匹噛み潰したような顔をしているに違いない。げんに俺の顔を見て男がなんともいえない表情を浮かべていた。それでも男の美貌は一切損なわれることはないのだからすごいと思う。それに比べて…夢の中でも俺はどこまでも俺だった。
「今日も見事に朝日を拝みましたけどなにか?」
「そんなにつんけんしなくてもいいだろう?別に君を責めているわけではないんだから」
「分かってますよ、それくらい」
真っ白な空間に俺と男の二人だけ。
この空間は俺が目を覚ますその時まで続く。
嫌な夢を見るよりはマシかもしれないけれど、これはこれで俺の精神を削っていく。
やっと眠れたと思っても、こうして夢の中でも問答が待っているなんて、俺の精神はいつ休めばいいというのだろうか。
「さてと、今日はどうやって時間をつぶすかい?」
長い足を組み替えて男が聞いてくる。
羨ましいほど長いおみ足でございますね。夢の中でくらい俺もあのくらい足が長くなってもバチは当たらないと思うんだけどな。自分の足を見下ろして、なんともいえない気分になる。やはり俺はどこまでもいつも通りの俺だった。妹に「本当に足短いよねお兄ちゃん」と言われた足がこんばんはしている。そうだね、こんばんは。と心の中で返して俺は目の前の真っ黒男に視線をやった。
優然と座る男はどうする?と言うように首をかしげて俺の言葉をまっている。芸術のようだ。黒と白のコントラストは、驚くほど俺の目をひいた。病的なまでに白い世界で、唯一の黒点を落とす男は俺の夢が産み出したものとは思えないくらい佳麗である。
「というか、いつまで俺の夢に出てくるつもりなんですか」
「つもりもなにも、俺を呼んでいるのは君だろ?君に呼ばれてここに居るだけにすぎないんだよ、俺は」
「あなたが俺の深層心理だとでも言いたいんですか?」
「さぁ?でも、少なからず夢にはそういう意味があるらしいね。普段思っていることや、願望などをみせるのが夢であると」
にんまりと、男は愉快気に口元を歪める。「ならば俺は君の願望ということに、なるのかな」そう続ける男は俺と違ってそれはもう楽しそうだった。楽しそうでなによりですね。言葉とは裏腹に俺の気持ちはやさぐれる。俺の願望が夢になるというのに、何ひとつ俺の思い通りにならないのはどういうことか。こんな理不尽なことは、現実世界だけでもうお腹いっぱいだ。
「夢が願望をあらわしてるなんてウソですよ」
だって俺はこんな問答を望んでなんかいない。
俺が求めているのは思考に邪魔されない睡眠と、俺に安らぎをくれる夢の世界だ。なにかに追いかけられたり、恐怖体験に巻き込まれたり、友人たちと仲違いしたり、真っ白な空間で真っ黒な男と意味のない問答を繰り返すような、そんな夢は求めていないのだから。
吐き捨てるように言った言葉に、男はやれやれと肩をすくめてみせる。
「まぁ、君がそう言うならそういうことにしておこう。ここでは君が秩序だからね。君から産み出された俺はその秩序に従うしかない」
「そういうわりには、全然俺の言うことを聞いてくれませんけどね」
「それは仕方ない。きっと君がそうあれと俺に望んだんだろう。俺は君の望む俺にしかなれないから。それは君が一番分かっているだろう?」
「分かっていれば今あなたと会話なんかしてませんよ」
「あいかわらず君は余裕がないな」
「余計なお世話です!」
もっと肩の力をぬいたらどうだ。座ったまま、男が言う。これではどちらがこの空間の主か分からない。つい声を荒げてしまった俺とは対照的に、男はどこまでも落ち着いて座り続けている。誰がどう見ても、俺じゃなくて男が『秩序』であると口をそろえることだろう。
毎回こうだ。のらりくらりと話す男に翻弄され、夢の中でさえ俺は精神をすり減らされる。俺の休まるときは、どこにもないのだ。
「なんなんですか、本当に。毎日のように出てきて、暇なんですか」
「いや、俺は君の……。まぁいいか。うーん、そうだな。暇だな」
「じゃあ俺以外で暇つぶしてくださいよ!」
「えー。君はとてつもない無理難題をだしてくるな。俺もできることならそうしてあげたいけれど、」
「そうしてください!」
「そんな無茶苦茶な…。どうしたんだい君、今日はやけにつっかかるじゃないか。向こうでなにかあったのかい?」
「……」
「あったんだね」
確信をもって聞かれて言葉につまる。
答えられず黙りこくってしまった俺に男はひとつため息をついて、「なにがあったんだい」と静かな声で問うてくる。あまりにも優しく問われて、なるほど、たしかに男は俺の願望が産み出したのかもしれないとすこしだけ思った。
「……もう嫌なんです」
「なにが嫌なんだい」
なにが。
聞かれて俺は分からないと首をふる。
『なにが』なんて分からないけれど、とにかく俺は嫌だった。嫌だ、嫌だ。そればかりが口をでる。
「もう嫌だ。疲れた」
「それは大変だ」
「なんで俺はこんななんですか?」
「こんなとは?」
「……」
「おや、まただんまりかい」
困ったように男は笑う。でも俺は全く笑えなかった。
少しでも笑えればマシになったかもしれないけれど、残念なことに俺の口角は上がりそうにない。真一文字に結ばれた口はとうの昔に笑いかたを忘れてしまっていた。
「………もういやだ」
溢れるのは弱々しいそんな言葉ばかり。
視線を落としてなぜかしっかり靴を履いているそのつま先を見つめる。
なにがなんて分からないけれど、すべてが嫌でたまらない。どうしようもなく嫌で、逃げ出したくなるのにどこに逃げればいいのか分からない。ただただ追い詰められていく日々。俺はとにかく、なにもかもが嫌でたまらなかった。
「ーーなぁ秩序様よ。いまここで、俺は君を殺せると思うかい?」
返ってきたのはそんな問いかけ。
いきなりなんだと顔をあげて男を見れば、傲然と微笑み俺を見ていた。まるで独裁者、支配者のようである。こちらを圧倒するような雰囲気をはなつ男にたじろいでしまう自分が嫌でたまらない。そんな俺を見透かすように男は言葉を続けていく。
「人の脳とは優秀でね。そしてその脳がうみだす想像力は絶大だ」
男が長い足を組み替える。
純白と漆黒。
それらはまざってなるものかと反発しあうみたいに、はっきりと二つの世界の境界線を引いていた。
「夢の中で自分が死ぬとする。自分が死ぬ夢は吉夢とか言うけれど、それはちゃんと脳がそれを夢だと認識しているからこそ成立するものだ。さっきも言ったように人の想像力は絶大なんだよ、君」
底意地の悪い言いかただ。
俺の神経を逆なでするような、そんな話し方をする。余裕綽々で椅子に座り、俺の様子をみて楽しんでいるみたいだ。
「つまり夢ではなく本物の『死』と脳が認識すれば、それは現実の『死』となりうる。想像が現実になるというわけだね」
「……それがなんだって言うんですか」
「ここでさっきの質問だ。『俺は君を殺せると思うかい?』」
俺はなにも応えない。
それが分かっていたのか、それともまだ答えは求めていないのか、気にした風もなく男は次を紡ぐ。
「俺の与える想像は、君の現実になり得るかどうかーーー君は、どう思う?」
どう思う?なんて聞かれても、俺はどうも思わない。としか答えられない。何言ってるんだこいつ?とは思うけれど。それ以外は、なにも。
「……いやだ」
だけど俺の口をついてでたのはそんな言葉で、それを聞いた男が「いやだ?」と繰り返し眉をひそめた。
「君はさっきから嫌だばかりだね。…いや、さっきからではなく『いつも』か」
男は大仰に肩をすくめてため息をつく。
まったくその通りだ。俺の中にはいつも『嫌だ』という感情が住みついている。
まるでそれ以外の言葉を忘れてしまったかのように、そればかりが脳裏に浮かぶ。
「俺はこうみえても慈悲深くてね、休息でもある睡眠にさえ嫌われてしまっている君の憂いを少しでも晴らしてあげたいと思っているんだ」
なんだかとてつもなく失礼なことを言われている気がするけれど、俺は黙って男の言葉に耳をかたむける。
今にも倒れ込んでしまいそうなほど、俺の足はこきざみに揺れていた。
「それに君はいつも『嫌だ、嫌だ』と言っているから、俺がその嫌なものから解放してあげようと思ってね」
男の声は甘やかなのに、どこか傲慢さも滲んでいる。
俺には分かっていないことが自分には分かっているのだと、そう言わんばかりの顔だ。分かっている上で俺に言葉を投げかけ楽しんでいる。本当に、底意地が悪すぎる。
「だからいっそのこと、俺が君を殺してあげようと思ったんだ」
そうすれば君は煩わしいものから解放されるだろう?
男の目が上限の月のように歪む。
底なしの闇が、細められた男の瞳の中から広がってくるようだった。あれだけ綺麗に張られていた白と黒の境界線があっけなく崩れていく。まるで最初から境界線なんてなかったみたいに、それらはいとも簡単にまじりあった。
「そろそろあちらの世界なんて捨てて、ここで俺とずっと過ごさないかい?」
黒が、男から広がる。
均衡を破って伸びてくる黒は羽毛のような軽さで俺に纏わりついて、おいで、おいでと、肌をなぞる。
「ここなら無駄なことは考えなくてすむぞ?君を悩ませる憂いも、ここでなら晴らしてやれる。君が望めばすべてが思うがままだ」
だってここの主は君なのだから。
だから君はここに居るべきなんだ。
君もそう、思うだろう?
男が言葉を連ねるたび黒が拡がる。
ひたひたとゆっくりと、だけどかくじつに白の世界をおおっていく。
逃げなければ。このままでは捕まってしまう。そう思うのに男から伸びた黒がいつのまにか身体中にまきついて、優しく堅牢に俺の動きを封じてしまっていた。真黒な綿糸で締めあげて離さないよとからみつく。
悠然と座している男は、自分がもつ色とは真逆な明るさの笑みを浮かべている。けれども隠しきれない闇が瞳の奥で渦巻いていた。
それは、すべてを呑み込む色。
男は今やいまかとその色の中に俺を呑み込む機会を待っている。
その瞳を覗きこみ俺が囚われるのを、待っているのだ。
「俺の想像が君の現実を越えるなんて、とても素晴らしいことだと思わないかい?」
闇はひろがる。
自分こそが全てを統べる者であるとしらしめるように。
抵抗も思考も呑み込んで、獲物が自分と同じ色に染まる瞬間を指折り数えて待っている。
男が、俺を見ている。
その整った顔に楽しげな表情を浮かべ。
何も選ぶこともできずに言葉を亡くし、ただ立ち尽くし、男の闇に体を拘束される俺をひたと見つめている。黒で埋め尽くされる視界の隙間、男の口がゆるりと歪む。
「君は死んだら、どんな夢をみるのだろうね」
大きな口を開けて闇が嗤う。
その闇に囚われたら最期ーーーきっと俺は戻れない。
END
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