菊丸家の騒々しい朝はけたましく鳴り響くいくつもの目覚まし時計の音から始まる。大家族、しかも子供五人は全員学生であることから新聞社で記者を勤める一家の大黒柱の分とそれから今は三井のも合わせて計七人分のお弁当を作らなければいけない母の負担は大きい。そこで俺が小学三年生になるころからはじまったのが、この朝ごはん当番制度だ。

「ったくなんでお前は卵の割り方も知らないわけ?」
「返す言葉もございません」
「姉ちゃん、卵どうする?」
「目玉焼き」
「オッケー。…お前そんなんじゃ嫁のもらい先も見つからないからな」

お客さん扱いはしないという母ちゃんの宣言通り、今日の当番は三井。でも今の会話からお分かりの通り、今まで大体一人で夜は済ましていたという言葉が信じられないくらいこいつの料理の腕は壊滅的だった。掃除とか洗濯を部活でささっとこなしてる姿から家事なんでもできますキャラみたいになってたけど(お嫁さんにしたいよなーなんて荒井とか二年が言ってた)とんだ詐欺だよね。ハムを皿に載せてトースターにかけようとするってどう育ったらそうなるの。都大会決勝の前夜、不可抗力で泊まってしまったときに見たキッチンにもそういえば食パンとスナック菓子しか置いてないなかった。ベーコンをフライパンの脇によけて卵を片手で割ってやる。この間に俺と兄ちゃんのスクランブルエッグを焼いてと。

「あらひなた。いざとなったら英二に貰ってもらってうちの子になりなよ」
「なに寝ぼけたこと言ってんの姉ちゃん」
「わたし歯磨きが趣味の人なんていやです」
「ぶっ飛ばすぞお前。はやく皿運んでこい」

俺たちはテニスの朝練、短大に通う大きい姉ちゃんはパン屋の早番、兄ちゃんと姉ちゃんは高校で委員会の集まりがあるとかで、食卓には五人分の朝ごはんが揃おうとしていた。ベーコンとスクランブルエッグの焼けたあとの匂いがダイニングに広がっている。あとはもう少ししたら降りてくる親父の分のコーヒーを淹れるだけ。

「えーこわーい。英ちゃんってこんな王様なの?」
「ちょっと。英ちゃん言うな」
「亭主関白っぽそうよね。わたし絶対結婚したくないや」
「ひなたなら俺が貰ってやるから心配すんなって」
「まあ菊丸先輩よりはいいか」
「くだらねーこと言ってるとまた置いてくぞ」

朝っぱらから姉ちゃんズの不本意な言葉を受けて、気分はそこまで良くない。もたもたしてたら歩いて学校まで行ってもらうからなと言い捨てて牛乳を一気に流し込むと「そうだ!昨日見捨てやがりましたね!」口をもごもごさせる三井が詰め寄ってくる。

「仕方ねえだろー部活終わって皆で校門いく流れになったんだから。あのまま帰んないと不自然じゃん」
「そりゃわたしもご厄介になってることはあんまり知られたくないですけど」
「ほらみろ。いいじゃん」
「だからって菊丸先輩が頼まれてたおつかいまで押し付ける理由にはなってません」
「居候が口答えすんなバーカ」

いらいら。朝からエネルギー使わせやがって三井のやつ。昨日と言えば大石だってそうだ。ちょっとしたジョークにマジになっちゃってさ、相方突き飛ばすってどういうことだよやんなるわ。桃は来ないし、こいつ後ろに乗っけなきゃいけないし。朝練に憂鬱になっていると大きい姉ちゃんがじっとこちらを見つめていた。

「なんだよ」
「いや、菊丸先輩って聞くとなんか中高のこと思い出すなーって思って」
「っていうか俺もサッカー部だと菊丸先輩だし」
「それを言うならうちの家族みんな菊丸先輩よ。ややこしいからもう名前で呼んだら?」
「そうそう。わたしたちはひなたって呼んでるのに英二だけ名字で呼んでるのも変だしさ」
「……」

三井がうちに来てからもう一週間以上。はじめは口の利き方のわりにずいぶん遠慮もしてたけど、こんな家族に囲まれてたら馴染むのもすぐで。俺がうちに来るよう言い出した以上、三井が慣れ出してることは何も思わないしむしろ良いことだと思うけど、やたら俺たちをくっつけにかかったり仲良くさせようとしたりする家族の言動にはちょっとうんざりだった。言っとくけど学校じゃほんとそんな仲良くないからな。嫁に嫁にって猫可愛がりしてるけどそんな良い女でもないだろ。互いに無言で朝食を口に運び、ほぼ同タイミングで席を立つ。

「十分後に玄関だからな。一秒でも遅れたらほんとに置いてくし走っていけよ」
「分かってますよ、英ちゃん」
「おまえは英ちゃん言うな!!」

俺たちのやり取りに食卓は爆笑に包まれた。キッチンで人数分の弁当を仕上げてた母ちゃんやリビングのソファで新聞を読んでいた爺ちゃんまでもが顔をゆるませている。「最愛の大石先輩と喧嘩してるからって当たらないで下さい」一足先に洗面所へ向かう三井を不幸にも追う形となり、俺は乱暴な手つきで自分専用の歯磨き粉を取った。

「最愛とかちげーし。それに俺、もうあいつとはコンビ解消したから」
「へえ。じゃあ越前と組むんですか」
「あいつももうだめ!こうなったら桃だな桃。ってあいつ関東のメンバーじゃないじゃん!」
「朝から一人ツッコミなんて元気なんですね。もうひとりでダブルスしたらいいんじゃないですか」
「お前バカ?二人でやるから"ダブル"スだぞ」
「…ほんとに解消してからじゃ遅いんですよ。意地張らずに素直になったらどうですか」

三井なんかからこんな説教っぽい言葉が出るとは思わなくて、俺は思わずブラシに歯磨き粉をつける手を止めた。いきなりなんだと鏡越しに目を合わせればふいと顔を逸らされる。しばらくは二人とも歯磨きタイムに入って無言が続いたが、先にうがいを済ませた俺が話の続きに迫った。

「もしかして昔組んでたパートナーとのこと重ねてんの」
「すれ違ったらどんどんその分誤解も積み重なっていきます。一応うちの大切な黄金ペアに、そうはなってほしくないので」
「心配しすぎだよー。だってどうせ大石からいつものように折れてくるし」
「わたしもそう思ってましたよ」
「?」
「けど気が付いたときには何もなかった。お願いですから、先輩から歩み寄って早く仲直りして下さい」

俺の服の裾を引っ張り、鏡を通してではなく直接目を合わせてきた三井に俺は返す言葉をなくした。他人の揉め事にどうしてここまでムキになってくるんだこいつ。一向に目を逸らさないこいつに根負けしたのは俺だった。

「…分かったよ」
「よかった」
「変なやつ」
「褒め言葉として受け取っておきます」

キレイな顔して少し笑うから。なんだよ調子狂うなんていつもより適当に髪をセットした俺はテニスバッグや充電中のスマートフォンを取りに階段を駆け上がる。仲直り、仲直りか。そんな言葉使うの小学校以来だぞ。一番自然な謝り方といえばあれだな「よう大石。今日はいい天気だ釣りでもしようぜ!そういや昨日は悪かったな」と天気の話題で始める。次にベストなのは「大石!今日も髪型決まってんな」と何事もなかったかのようにすんなり会話を振るってやつで、いやいやここは大石から折れる姿勢を見せてきたところを…。だめだ自分からいけ素直になれって言われたんだった。つうか何様だあいつ。しかもなんだこれ、俺は船長と喧嘩した長鼻の狙撃手かなんかか。
ああもう。部屋でしばらく考えて爆発しそうになったから考えるのをやめた。なんであいつに言われたからってこんな悩まないといけないんだよ、これも全部三井の親父のせいだ。とっとと連絡寄越しやがれ。もしかするとこいつの家出にもまだ気付いてないかもしれない顔も知らねえ父親に俺は大きく舌打ちをかました。そうだよ、俺の中に、入ってくんな。

「十分経ちました。走ってくださいねー」
「てめえ!それ俺の自転車だっつの!」

あのチビナスと分かり合える日はまだまだ遠い。 つうか本当に十分で準備済ませてくるあいつの女子力ってなんなんだ。





「本っっっ当にすいませんっした!」

桃が手塚に向かって頭を下げている。朝練のため学校に出発して、途中他の部員に二ケツしてんのとか見られないよう三井を下ろして、チャリを駐輪場に置きにいったとき桃のクロスバイクもあったからもしかしてとは思ったけど。コートは都大会決勝戦の朝と同じ緊張感で包まれる。

「二十周…いや三十周…」
「今までのデータから推測すると五十周はいくな」
「…暑いんじゃない乾?」
「大石、桃のやつ、何周だと思う?」
「えっ」

俺が声を掛けたのがそんなに意外だったのか、大石は固まってこちらを見た。ありゃりゃ自然に何事もなかったかのように元通り作戦失敗か。微妙な沈黙の間に鼻の下を掻きながら考える。くそ、こうなりゃもう直球で行くっきゃねえか!向き直って大石の名前を呼んでやると。

「大石!」
「英二!」

全くおんなじタイミングで大石も呼びかけを被せてきた。驚きはしたけど言わなきゃ!という思いが勝ち、一呼吸置いてごめんと言えばその呼吸の置き方から声を発するタイミング、ついでに言葉まで大石と一緒で、思わずお互いに噴き出しちまう。なんだよー良かった。三井はああ脅してきたけどほら、やっぱ大石はすぐ折れてくるんだよ。まあいつもだったら謝ってくる大石に「別にいいけど?購買のパン三つな」なんてお互い様のくせでかい態度取っちゃって苦笑いされるんだけど。ハイタッチを交わして、桃の方はどうなったかなと成り行きを見守る。

「規律を乱す事は許さん。暫くお前にはラケットを持たせない!球拾いからだ」
「…っス」
「三日も無断で部活を休んだ罰だ、いいな」
「…はい!すいませんでした!!」
「グラウンド百周だ。今すぐ、放課後も合わせて走ってこい」
「はい!」

どよどよ。間違いなくぶっちぎりの最高記録が叩き出されて一同は騒然。けど当の本人はと言えばいい返事をかえして本当に走り出す準備をしていた。おーおーアツいねえ。桃とすれ違う瞬間、皆に聞こえるくらいの大きさで手塚が言う。「桃城、次のランキング戦で戻ってこい」その言葉に桃はやる気全開になってたから、これはうかうかしてらんないぞ。

「よっしゃ行ったるぜこのヤロー。こいひなた!」
「うえ。まじだったんですか」
「三井も無断欠席したことがあったな。お前も練習の準備が終わり次第、百周行ってこい」
「は?わたし走りましたよ都大会の会場!なんであの子走らされてんだろうみたいな視線の集中攻撃を浴びながら」
「あれは突然失踪し俺たちの心配を煽った分だ。行ってこい」
「ちょ、マネージャーですよわたし。体力つけても意味ない!」
「青学テニス部たるもの、マネージャーとはいえ軟弱なものはいらない」
「んなアホな」
「それに選手と同じ苦しみを分かち合うことでよりチームとしての成長が見込まれるというものだ」

自分の言ったことへ完全に酔っちゃってる手塚の決定を覆すのはほぼ無理。大人しく走ってくるんだなと見ていると、あいつも観念したようで手早くボールを出し、洗濯物を干しに部室横へ向かおうとしていた。あ、タオル忘れた。ついでに三井をざまあと茶化してやろうと思って俺もやつの背中を追う。いつから気付いていたのか、追いつく前に三井が振り向いてきたのはちょっとびっくりした。

「うお、三井」
「見てましたよ。黄金ペア復活ですね」
「うん。まあお前のおかげってことにしといてやるよサンキューな」
「英二せん…いや、菊丸先輩の力ですよ」
「いや、わざわざ呼び直すようなことじゃないでしょ」
「今朝の態度的に嫌なのかと思って」
「別に嫌なんて言ってないだろ。俺も家で親父とかの前でまで名字呼びされんの違和感だったし」
「…なんだ。分かりました英二先輩」
「ちょっと!嫌じゃないとは言ったけど学校でも呼ぶなよ!仲良いとか思われたらどーすんの」
「そう言われても家と学校で使い分け出来るほど器用じゃないです」
「そこをがんばんの!」
「ほんとに横暴だな」

馴れ合う気はなかったんだけどな。唐突に五月の初対面時の会話を思い出して俺が微妙な顔をしている横で三井はもう気を取り直していて「自転車で百周してやろうかな」なんてぶつぶつ独り呟いていた。


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