「今日は一周55秒以内だ。それを越えてしまった者にはペナル茶が待っている」
「ギャアアアアア」

関東大会を視野に入れ最近は体力作りに凝っているのか、はたまた自作の汁を飲ませたいだけか。とりあえず最近の乾はやたらと僕たちを走らせにかかる。コートの周りを一周一分、それ以上かかってしまった者にはなんとも洒落の効いたあのペナル茶を飲まなければいけない地獄のハイテンションランニングは、乾が銀華中の偵察に行ってから始まったものだった。そんなに向こうはハードな練習しているのかと驚いたけど、僕はやっぱり楽しみな気持ちの方が大きいな。僕の笑みを隣で走りながらみていた桃は「不二先輩!」と声を上げる。

「あの汁好きなんすよね?なんで必死になって走ってるんスか!」
「人が苦しんでるを見るのは、もっと好きなんだよね」
「あ、……そうッスか」
「くっそベリーアングリー!!ひなたちゃんがいれば常識的にあんなの何とかしてくれるはずなのに」
「今日も休みかよー?サボりじゃなくて?」
「昨日までの三日間は学校も休んでたッスよ」

体調不良ということでひなたちゃんはもう四日も部活を休んでいた。調子がおかしいな、と思ったのは月曜日の部活後。けどあの日は他校生からうちの部員が暴力を受けたあとだったし動揺してるんだろうと思ってたけど、もうそのときから体調は悪かったんだろうか。火曜日は練習の準備だけしてそのまま早退、それからはテニス部のメーリングリストでの連絡だけで、僕はひなたちゃんの顔を全く見ていない。あの子がいないと部活の楽しさも半減だ。

「馬鹿は風邪引かないっていうのにね」
「無駄口を叩くな。ラスト一周だぞ」

手塚の号令で再びレギュラーは気合いを入れる。コートのフェンス越しには不気味な色のジョッキを片手に笑う乾が見え、「加速ううううう!」青ざめた英二の走りっぷりといえばとても見ていて楽しかった。

「ふむ。54秒…残念ながら同着だ」
「乾おまえ、ころす気かァ…」
「あーしんど」

バテバテで全員地面に座り込む中、手塚だけは「いつまで座ってる気だ」と声を発した。こういうときの貫禄はバッチリなのに、最近の手塚はどうも残念なかんじだ。スミレちゃんも出てきて全国に向けたパワーアップの重要性を力説すると、これから紅白戦を行うことが発表された。今のような疲れきったときこそより試合に近い練習をするべきってことだね。早速コートに呼ばれた僕は対戦相手の白いキャップを見て高揚するのを感じる。

「不二先輩対越前か。いきなりすげー試合だな」
「どっちが勝つと思います?」
「不二」
「不二」
「不二」
「越前かわいそ!」
「じゃあ俺は越前…って三井!!」
「なんですか耳元で騒々しいです桃城先輩」

桃が声を上げたのをみて振り返ると久しぶりとなるうちのマネージャーの姿があった。いつも一年の小豆色ジャージなのに、土曜日の今日ひなたちゃんは制服だった。なぜと一瞬思ったけど、変わらない物言いと態度に僕はホッと息をつく。そこまで会ってなかった訳でもないのになあ。

「お久しぶりです」
「たった三、四日なのにね。毎日会ってたら感覚も狂っちゃうのかな」
「わたしに会えなくて悲しいって意味なら間違いなく狂ってますよ」
「おー三井!」
「なんだほんとに風邪だったのアンタ」
「けど良かったなァお前!ぎりぎりで治して、明日の都大会にもばっちり来れるんだからよ!」
「そのことなんですが」
「?」
「みなさんにお話ししなければいけないことがあって」

やっぱり感じていた違和感は本物だったと思うと同時に、その先は聞いちゃいけないような気がした。ランニングで先にリタイアした部員達も集まってきて、神妙な面持ちのひなたちゃんが自分に向く顔をひとつひとつ確認するかのように見渡す。やめろ、言うな。彼女の口の動きがスローモーションに見えた。

「わたし三井ひなたは本日をもってテニス部を退部することにしました」

全員が息を飲む音がする。ある者は「は?」と呟き、ある者は一心に彼女を見つめる。スミレちゃんと手塚は予めこうなることを言われていたようだったけど、複雑そうな顔は隠せていなかった。いきなり、こんな試合の前日に何を言い出すのか。皆が口を閉ざす中、僕は先陣を切って声を発する。

「理由は。」

冷たいとも思われる言い方だったかもしれない。本心では動揺もしていたけど、普段常備している笑みを消し去り真っ直ぐに彼女を見た。一番に騒ぎ出しそうな英二や桃も理解はしているようでその行き先を見守る形で沈黙を保っている。

「そこらの遊び感覚でやってる部活とは違うんだ。ただちょっと強いくらいのチームでもない。この時期にうちを去るなんて無責任なことしようとするからには、それなりの理由を示して貰わないといけないな」
「……」
「黙ってて分かってもらえる訳ないでしょ」
「本当にすみませんでした」
「…謝らせたいわけじゃないんだ」

ひなたちゃんは今日初めて僕から視線を逸らした。いやまあものすごい勢いでガン飛ばしてたからな、ふつうの子じゃ最初のアレでも耐えられない。「でた不二先輩の覇気」って桃、今はそんなふざけたこと言う時間じゃないからね。

「面倒くさくなりました。テニスに関わる全てのことが」
「おい、本気で言ってるわけじゃないだろうな」
「本気です大石先輩」

今度は僕らの目をしっかり追ってひなたちゃんが一言一言、丁寧に紡んでいく。こんな状況でも彼女は毅然とした態度を崩さず、声色もしっかりとしていた。いつものことながら表情は読めない。

「先輩方や越前の超人じみたテニスにはついていけないしわたしのサポートもいらないと思いました」
「そんなこと」
「正直部活の時間が無駄に感じます。自分がスポーツしてる側ならそんなこともないですし、日を重ねれば上達する喜びがありますけど。中学生が退屈な主婦の真似事するより、遊んだり勉強したりもっと時間を有意義に使いたいんです」
「それは今までマネジメントしてきた時間も有意義じゃなかったってことかな」
「…そう言ってるじゃないですか。とにかくもうテニスに飽きました。マネージャーもうんざりです」

「他に質問はありますか」淡々と述べるひなたちゃんを前に誰一人として動けなかった。一通り周りを確認した彼女は手塚に向き直ると「ないようなので、昨日の届けで受理しといて下さい部長」なんでもないように言い放つ。まるでいつものテンションで生意気を叩くような様子は、今からでも着替えて普通に部活をはじめそうなそれだった。

「ああ。…三井」
「なんでしょう」
「いや、」
「……」
「俺はもう、おまえの部長ではない」
「…。すいませんでした手塚先輩」

もう一度僕たち全員に深くお辞儀をし「ありがとうございました」と、今までの感謝と謝罪を述べた彼女はそのまま顔を上げることなく場から立ち去る。ただの一度も振り返らなかった。


(140715 執筆)
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