校庭には、まだ生徒達の声が響いていた。授業を終了させるチャイムが鳴るまで、あと二十分程だろうか。そんな事を考えながら、真っ直ぐに伸びた人気のない廊下をとぼとぼとジャージ姿で歩く男が一人。少しだけ大き目の中履きがぺたんぺたん、と廊下のタイルを蹴る度に大きな音を響かせて居たが、臨也を注意するものは誰一人居なかった。臨也は基本的に授業を休む方では無い。出席日数がどうとかそんなのはともかく、まず、彼、が居れば退屈する事がなかったからだ。だが、今日はその、彼、の姿はこの体育の授業には無かった。体力だけが取り柄とも言えるあの平和島静雄の姿が、だ。そんな授業に居てもただ退屈なだけで、臨也にとっては何の意味も成さない。つまり受けても受けなくても同じと言う訳だ。そうとなれば、サボるのが一番。これからの体力を温存して置かなければならない。どうせ、もう数時間もすれば、静雄との鬼ごっこが待っているのだから。そう思い、臨也は体力だけが自慢の頭の悪そうな教師に適当な言い訳を付けて体育の授業を抜け出した。行く宛てなどなかったが、一番退屈しない方法を臨也は一つだけ知っている。やはり、静雄を見つけ出すこと、其れしかなかった。それに不思議な事に、静雄の居るところが、臨也には容易く想像できる。この時間、彼が何をし、どう行動するのか。もう二年以上そうして来ただろうか。計算やそういう部類で分析出来るようになってしまっていた。嫌な癖がついちゃったな、などと、臨也はぼやきながら、階段を駆け上がる。屋上、もしくは教室。今の時間静雄が居るとすれば、このどちらかしかない。そして、今日はそのどちらか、と聞かれれば、臨也の天才的な頭脳が導き出す答えは一つしかなかった。
外は馬鹿みたいな炎天下が続いてる。こんな日に屋上に居るなんて、自殺行為だ。まあ、静雄は其れを平気でやって退けるのだが。さすがに今日と言う日は違うだろう、と思いつつ、臨也は真っ直ぐ寄り道もせずに、数十分前まで着替えをしていた教室の前で足を止めた。開いた窓の隙間から、吹き込む風で小さくカーテンが靡き、温い風が不快なほど肌を撫でる。電気が消され薄暗くなった、その空間の一番端の窓側の席。カーテンの合間から漏れる太陽の光りを纏いながら、静雄は数学の時と寸分違わぬ格好のまま机に突っ伏していた。変わったところ、と言えば息苦しかったのだろうか、顔が半分ほど腕から覗いてるところくらいだ。それ以外は何もかも全く同じ。足の位置から伸ばし具合、耳に差し込まれたイヤホンが、片方だけ外れているところまで全て一緒で、臨也は、やっぱり、と嬉しそうに唇を小さく歪めた。開いたままの教室のドアをすり抜け、足音を立てないように、静雄との距離を縮める。ぱたり、ぱたり。それでも歩く度に小さく鳴る足音に肩を竦めたが、静雄がそんなか細い神経を持っているはずも無く、何事も無かったかのように身動き一つしない、静雄の真横に臨也はそっと立った。覗き込むように、幼さの残った寝顔を見下ろす。半開きの唇から涎が垂れそうになってるのを見て、思わず噴出しそうになったのを臨也は必死になって耐えた。こうしていれば、本当可愛いのにね。まあまあ、綺麗な顔だし、女子にモテるんだろうな、なんて思いながら、シズちゃん、と小さく高めの声で静雄を呼ぶ。その瞬間、ぴくり、と動いた身体に少し臨也は身構えたが、その目蓋が持ち上がる事は無かった。
「油断しちゃって、殺しちゃうよ?ねえ、シズちゃん」
そう耳元でそっと囁いて、むに、と肉の付いていない頬っぺたを細い指先が突付く。さすがにこんな事までしたのだ、何かが起きる事を盛大に期待していた臨也ではあったが、未だに静かに寝息を立て、一向に起きる気配など微塵も無い。さすがの臨也も、はあ、と半ば呆れたように溜息を吐き出し、つまらなそうに、唇を尖らせながら、静雄の机の前にしゃがみ込み、交差した腕を机の上へと付く。ねえ、ともう一度呼んでみても、静雄は少しも臨也の名を呼びはしない。うざい、死ね、とも、その半開きの唇が言葉を紡ぐ事は無く、臨也は小さく眉間に皺を寄せた。10センチ程しか離れていない、その距離で、静雄の吐息を感じる。目の前では長い睫毛が揺れて、今にもあの瞳に臨也を映しそうだと言うのに。静雄は未だ眠ったままで、何も言ってくれない事に臨也は無性に苛立った。最早、苛立ちを通り越し、泣きそうになっているのを臨也は知らないのだろう。ねえ、シズちゃん、シズちゃんってば。蚊が鳴くような声で、何度も紡ぎ、顔に掛かった金色の前髪をさらり、と壊れ物に触れるように指先で撫でる。露になった穏やかな表情を見つめ、臨也は吸い込まれるようにその白い頬に接吻けた。ちゅ、と柔らかな感触。触れたか触れないか、臨也自身はっきりしないほど、そっと触れて、リップ音の後にすぐ離れた臨也は目元を押さえ、軋んだ膝を伸ばしながら立ち上がる。見下ろした寝顔に唇の痕跡は微塵も見えない。それは当たり前なのだが、臨也は吐き捨てるように何度か、馬鹿と死ねを繰り返して、唇を噛んだ。
「…、シズちゃんの、ばーか…死んじゃえ、」
そう呟いた臨也の声を掻き消すように、教室に取り付けられたスピーカーから、チャイムの音が鳴り響く。鳴り終わる前には、両隣の教室かは生徒達の声がし、今までの静寂が嘘のように喧騒が臨也と静雄を飲み込んでいった。二人の時間の終わりも告げる。臨也はそっと、未だに寝顔を晒す静雄の頬に触れて、シズちゃん、と囁き、すぐに手を引っ込めると、さて、と切り替えるように声を上げた。着替えるのめんどうだな、と、ひとりごちながら伸びをし、勢い良く教室のタイルを蹴って廊下へと飛び出す。すると、入れ違いに教室へ入ってきた新羅や門田が臨也に声を掛けた。だが、臨也はその声に答える事無く、廊下の向こうへと消えていく。そして、新羅と門田は顔を見合わせ、教室に入ると、次はむくり、と起き上がった静雄に声を掛けた。静雄、顔真っ赤だけど、大丈夫?熱でも。新羅がそう言いかけた言葉を遮るように静雄は、ああ、と惚けたように答えながら口元を押さえ、がたり、と立ち上がる。ぼんやり、と熱を持った顔を俯かせ、ゆっくりと廊下の方へ歩き出すと、再び新羅の声がしたが、何と言ったのか静雄には届いていなかった。三度、顔を見合わせる新羅と門田を他所に、静雄は長い廊下をのそのそ、と歩き、屋上を目指す。目的はただ一つ。いや、二つ?三つ?まず一つ、臨也に死ね、と言い返す事。二つ目、先程の行為を問い詰める事。それから最後三つ目、問い詰めた上で、臨也、と呼んでやる事。屋上に繋がる階段を上りながら静雄はそう思考を廻らせ、太陽の光が漏れたドアのノブに掌を掛けた。風に乗って臨也の匂いが、静雄の鼻腔を擽る。

嗚呼、四時限目の始まるチャイムが鳴った。






宵残る春の小指










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