この時期、誰にとっても、戦争だった。無論、俺も、その対象だ。戦争の真っ只中。毎日のように小テストの点数はいつもの事ながら雪だるまかアヒルが並ぶ。開き直ってしまえば其処までなのだが、俺ほどの馬鹿もそう居ないのだろう。逃げる暇もなく、俺に科せられたのは大量のプリントだった。数字が馬鹿みたいな羅列を並べる。外は雨。何をするにも億劫だってのに、チャイムが鳴り終わった放課後の教室の中、ぐしゃぐしゃと紙が縒れる音だけが響いていた。それ以外の物音は一切しない。誰も居ないなら未だしも、俺の他に新羅が俺の付き添いとして残っている。それ以外にも、面白がってノミ蟲もわざわざ俺の机の前に座ってた。ついでに門田は臨也の付き添いなのだろう。いつも読んでいる文庫を開いて黙々とページを読み漁る。なんだこりゃ。お前ら帰れ、とはもう言った。
だが臨也はもちろん、門田でさえ聞く耳を持たなかったのだ。もう諦めるとかそう言う次元ではない。何しろ、日本語、が通じない訳だから。まあ、其れが理由という訳では無いが、訳が分からない数字が並ぶ参考書と早々に睨めっこする。いくら見ていてもさっぱり解らない。それもそうだ。そもそも、何をする為に式で何を求めているのかも、根本から理解出来ていない。別に威張ることではないが、この問題は一生掛かってもを解けない自信はあった。はあ、と吐きそうになった溜息を咽喉元で堪えながら、指先で持ったシャープペンを置く。もう一時間はやっただろうか。ていうか、そんな事より教科書を見てるだけで腹が減るのはなんでなんだ。と数字以外の事に思考を巡らせながら、教室の窓に打ち付ける雨を見つめて、ぐ、っと背筋を伸ばした。その拍子に全員の顔が上がったが、門田はすぐに、本に視線を戻す。新羅もすぐに顔を下げた。関しては何をしてるのか定かではないし別に興味も無い。が、よりによってこの場合一番関わりたくない臨也と視線が合い、俺は眉間に皺を寄せた。どれどれ、と口元を持ち上げた臨也が机に腰掛けながら俺の手元を眺める。全然進んで無いじゃん、と一言言われると、解っていても頭に血が回った。冷静を装って居ても、腹が立つ。奥歯を噛み締めながら、うっせえ、と小さく呟くと、臨也は俺の目の前に腰掛けて、優しい俺が助けてあげる、と笑った。
「いらねえよ」
そう言ったが臨也は聞く耳を持たない。これはね、こうするんだよ、と俺の置いたシャープペンがプリントと参考書を交互に行き来する。その動きを目で追っている間に俺が解らなかった答えが臨也の手によって導き出さた。ね、簡単でしょ、と自慢げに笑う臨也。悔しい事にこいつの説明は授業より遥かに解り易い。こう見てもこいつは授業をまともに受けてない割りには成績もトップだ。それを思えば納得も出来なくはないがこいつには言ってやら無い。絶対に、だ。こいつが付け上がるのも目に見えてるしな。後々面倒くさい。事実今、臨也はにやにや、と俺の顔を見ながらシャープペンを差し出す。言いなりにはなりたくない。だからと言ってやらない訳には行かないのだが。渋々、シャープペンを握り、臨也が解いた問題と参考書を見比べながら、まだ半分以上未解答の問題に手を付けた。
「シズちゃん、ほら、最後」
臨也の声に、気の無い返事を返すと詰まらせた息を吐き出した。外を見れば疾うに日が暮れていて、真っ暗な闇が広がって雨音を強める。教室には俺と臨也が二人。新羅と門田は一時間程前に先に帰った。俺が帰れと言ったら新羅は爛々とした顔で帰って行った。あの野郎、白状者め。そうも思ったが、新羅からして見れば俺の所為で居残りなんざ真っ平だろうと思う。俺も新羅の為に残れと言われたら、丁重に断ってやるところだ。それにも関わらず一時間前まで居たとなればよく出来た友人だと思う。門田も同じだ。そもそもあいつは残る必要も無かったのだから。そして、一番の問題のこの目の前の男だが、俺だって一度は、いや、ニ、三度帰れとは言った。それにも関わらず俺に合わせて残っている。よっぽど居残るのが好きなのだろう。物好きな野郎だとは思ったが、そのおかげで俺は助かった。三時間ほど前まで埋まってなかったプリントも残り一問のところまで来ている。これが終われば解放されるのだと思えば、俺の心の中は清清しく晴れ渡っていた。固まった肩の骨を鳴らして、気合を入れ直すとシャープペンを握り直す。並んだ数字の隣に書き慣れ始めた方程式をゆっくりと書いて行けば、自ずと導き出される解答を最後に一文字並べた。そっと隣にシャープペンを置き、臨也に目を移すと、お疲れ、と赤茶色の瞳が細められる。その表情に俺は項垂れるように、目の前の机に突っ伏した。
「おわったあああ…」
溜息と一緒に吐き出された言葉に臨也が笑う。今なら臨也に何をされてもキレない自信がある。其れほど開放感に今、正に俺は包まれていた。未だかつてこんな開放感に包まれた事があっただろうかと、考えても見たが、無い。絶対に無い。断言出来る。でももこんな開放感二度とならいらねえな。結論付けたところで、シズちゃん、と臨也の声が鼓膜を揺らす。なんだよ、と顔を上げずに答えると、ぽんぽん、とそんな効果音が付きそうな手付きで髪を撫でられた。あ?と声を漏らして、次こそ顔を上げる。目の前にあった臨也の顔を見上げると、ふ、と影が落ちて、柔らかな感触が唇に当たった。すぐに離れる其れに、瞬きも忘れる。その前に何だったのかも理解出来なかったが、ご褒美、と笑った臨也が、手ぶらのままで廊下に繋がるドアに駆け出した。そのまま振り返った臨也がまた明日ね、と残して、廊下を走り去る。それを唖然としたまま、俺は見つめていた。ちょっと待て、整理しろ、俺。プリントが終わっただろ。いや、其処はいい。つうか、何だ、さっきの柔らけえの。すげえ柔らかかった。そう思って、自分の唇に触れてみる。何も残っていなかったが、触れた瞬間に、振り返った臨也の表情を思い出して、頭が爆発した。あいつキスしやがった。無駄に冴え渡ってしまった俺の脳内が導き出した答えが其れだ。それ以外には考えられない。まじか、あいつ、まじかよ。ぐちゃぐちゃ、と混乱する頭を掻き毟って、再び脱力するように、机になだれ込む。何してえんだよ。まじであいつよ。
「何、キスしてんだよ、あの野郎」
改めて、唇に触れる。ぶわあ、と熱くなる顔が冷えるまで動けそうに無くて、俺は誰も居ない教室に一人取り残されながら、思った。あんな数字が並ぶ問題なんかより、よっぽどあいつの事が解らない。いつも殺し合いなんかしてんのに。何がしてえんだよ。どうしたいんだよ。つうか。俺も、何してんだ。あいつにこんなに、乱されてるなんて冗談じゃねえ。しかも嫌じゃなかったなんて。如何してくれんだ。
なあ。臨也。どうすりゃいいんだよ。これの答えも教えてくれよ。なあ。てめえなら、知ってんだろ。この得体の知れない感情の正体を。
眠らない雨が、青々と