「おやすみなさい、拓人さん」

「何を言ってるんだ、紫苑は俺の部屋だぞ」

「…え?」



急いで紫苑を風呂に追いやってまだ準備の整っていないために用意できない彼女の服を考えて俺のパジャマを置いておいた、上がった紫苑からは俺と同じ香りが漂い心地いい、髪から滴る水滴を拭って俺も風呂に入ったあとにすぐ夕飯。
話すことなど無い沈黙の夕飯を終えて一緒に廊下を歩いて暫く、彼女のお付の部屋の前でカーディガンを肩にかけた紫苑が足を止め、口を開いた。
俺とは違うところで寝ようと思っていたらしいのだが、一緒に暮らす婚約者が尚も己の身内といては意味がない、俺は優しく彼女の腕を掴み微笑んでやる、だが、驚いた表情を浮かべる紫苑の瞳には、不安しか見えなかった。

正直、最初は嫌だった、14になる誕生日、自分の知らない家のご子息までをも招いた誕生会で知らされたとき、まだ早いと思ったんだ。
だけど年に二、三度しか帰って来れない両親の頼みを断れるはずもなく、俺はそれを受け入れた。
まだ会う前の紫苑という存在を聞かされて、嫌な気持ちでいっぱいだったが、出会った瞬間稲妻というのは本当に走った。
父さんは、契約だとか、将来だとかで選んだ嫁候補だと言ったけれど、母さんも、俺も、見た時から違う将来が楽しみで仕方がなかった。
だけど彼女も知っているんだろう、きっとすでに、政略結婚だと。
俺は前向きだし、所謂一目惚れというものだが、本当はよくわかっていない、その、恋愛というものを。

時折そのことを考えると、申し訳なくて辛くなる。
罪悪感が押し寄せて、顔が歪む。
彼女のこれからを奪ってしまったようで、そして俺の気持ちがこの先変わることないのかが怖くて、この子を幸せにしたいと思うのは、最初だけじゃないといいのに、と。
嗚呼、これだからいつも天馬や霧野にネガティブだなんて言われるんだ。



「驚くことなんてないさ、俺たちは婚約者、だろ?」

「…ええ、そう、ですよね」



小さく微笑んだ彼女の肩を抱いて一緒に部屋へ行けば、一層震える彼女をとにかく優しく、優しく抱きしめて、一緒に眠りについた。
といっても、俺より先に眠ったのは紫苑の方で、安心して眠ってもらえたことに安心して俺が追って眠ったんだけどな。










「拓人さん、起きてくださいまし」



彼女の澄んだ声に導かれて瞳を開けば俺のパジャマを着た婚約者が優しく起こしてくれる、頬に滑り込まれた冷たい手が気持ちよくてまた眠ってしまいそうになるのをどうにか抑え、彼女に寄りかかるように体をおこした。
紫苑、おはよう。
そう笑顔で言ってやれば彼女も綺麗に笑ってくれた。

だけど時は残酷で、朝練を控えている俺は紫苑に手伝ってもらいながら身支度を整える、どうやら眠りすぎてしまったようだ。
昨日の帰りも適当に理由付けて先に上がらせてもらったのに今日の朝遅れてしまっては周りからどんな冷やかしがくるか。
たまったもんじゃない、手軽に作られた朝食を平らげて玄関へ向かうと、俺のために早起きしてくれた紫苑が見送りに来る。



「今日も頑張ってください、拓人さん」

「…ああ、紫苑も気をつけて行くんだぞ」

「はい、行ってらっしゃいませ」

「行ってくるよ」



使用人とは違う見送りに頬が緩む、途中まで駆け足で行けば霧野を見つけ、そこから一緒に行くことになった。

幸せなのは自分ばかりだ、一週間は悩んだけれど、やはりこの一週間、彼女が脳内に居座るほどには好きなようで、だけどこれが本当に恋愛の好きなのかはわからない。
霧野にも心配されるほどのため息をついていたらしく軽く笑われてしまった、嗚呼らしくない。
幼馴染の鋭い目からは笑いすぎて涙が浮かぶ、すぐに話を切り替える霧野に俺も少し落ち着いた。

詳しいことは、言えない、言ってしまったら紫苑との約束を破ってしまうことになる。
霧野には家庭環境に落ち込んでいる、とだけ言ったが、多分見透かされていると思う、何年の付き合いなのだろうか、顔パスでうちに入れるのは霧野ぐらいだ。

…そうか、霧野だ、大事なことを忘れていた。
大変だ、別に知らないわけじゃない雷門中女子生徒が俺の家にいれば顔パスで入った霧野は驚くなんてものじゃなく混乱して暫くサッカーなんてできないだろう、きっと相談なしの俺に対して凄く怒るだろうし、仕舞いには言いふらされるかもしれない。
どうする…どうしたらいい…、言いふらすなんて親友の俺の口からも出てくるぐらいこいつはやりそうなんだ、まるでオレの保護者で俺の恋人のような行動をするんだ。
…やめろ!俺はそういうんじゃない!
別の意味で問題が起きた…もし紫苑に霧野との関係を疑われたらどうしよう…。

部室につくまで殆ど無口だった俺に霧野は相当まいってるんだと勘違いしたのだろうか話題を逸らしてずっと励ましてくれていたが、そんなもの等耳に入るはずもなく俺は今日一日どうにかしようと考えたんだ。

結果、使用人に連絡して霧野の顔パスを暫く禁じることにして、霧野にも適当に理由をつけて暫くは俺の家への出入りが出来ないと伝えておいた。
うん、これが一番安全だろうな。

俺は、怖いんだ。







だけど恋愛はわからない。



(紫苑との約束を)
(守れるかだって不安なんだ)
(君の前で他人のふりや)
(嫉妬をしないなんてできるのだろうか)

(キャプテンなんかおかしいですね)
(天馬もわかるのか)
(はい、なんだか百面相です)
(あれはな、おかしいんじゃなくて)
(え?)
(おもしろんだよ)
(…ああ、そうですか)

朝練中大爆笑の霧野には倍のメニューを渡した。





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