土曜日、早朝ゆっくりしていられる拓人さんがピアノを弾いておられます、九時からの練習なので八時には家を出ることでしょう、いつもと同じ時間に起きて大人びている彼は紅茶を飲んで、そしてピアノを弾いているのです。 凄い、自分には到底無い自覚というものを、彼は持っている、神童家という自覚を。
拓人さんのピアノを耳にしながら花壇の花に水をあげます、気分が良くなるのも頷ける、今日は朝から調子もいいしなんだかいつもより心が澄んでいる気がするのです、特に何かがあったわけではないけれど、きっと昨日の件と今のピアノのおかげなんだわ。
つい鼻歌交じり、傍にいた関さんもなんだか嬉しそうにしているから、私も自然と笑顔が出てきます。 疲れがどっと抜けたような笑顔、どうしてかな、こんなに笑えたの久しぶりです。
ぴたり、演奏が止みました、どうしたのだろうと部屋のある二階の窓へと目を向けてみると丁度同じ時拓人さんがこちらを見ていました、なんだかくすぐったく感じて取り敢えず笑ってみると、拓人さんが窓を開けて身を乗り出してきたじゃありませんか。
「た、拓人さん!危ないわ!」
「平気さ。それより紫苑、今日はそこで朝食をとらないか?」
「え、あ、ここで?」
「ああ、君の育てた花壇の前で」
待っていろ、そう言って窓を閉めた拓人さんがすぐに降りてきた、同じように使用人の方々が朝食の準備に取り掛かる、自分はどうしていいのかわからず、取り敢えず関さんにシャワーホースを渡して拓人さんの近くへ行ってみることにしました。
あっという間に広がる机と椅子、勿論パラソルとテーブルクロスだって欠かしません、出来上がったそれに目を細めて笑っていると拓人さんがすくそばの椅子をゆっくり後ろに下げました、それはエスコートで私は応えるようにそこに座ります。 拓人さんも無事に席に着けば運ばれる朝食にいただきますと声を揃えて言ったあと静かに口に運ぶ。 まだ早い時間だからこそリラックスできる環境というのは必要なもので、一週間の長い時間が一瞬のようにも感じますね。
他愛ない話で笑い合うと、屋敷中に音楽が流れました。 客人だ。 拓人さんが呟いてハッとします、豪華な呼び鈴に未だ慣れずにいる私、勿論慌てたように拓人さんを見ると、少し出てくる、と言いながら席を立ちました。
「大丈夫なんでしょうか…」
「関めも付き添ったほうがよろしかったですか?」
「…ううん、いいんです、だってここは拓人さんのおうちですもの」
自分で言うのもなんだか寂しくなる言葉の響きに落ち込みつつ、拓人さんの帰りをそわそわとしながら待つことにしました。
「今から?」
「そ、倉間達も天馬達も集まってんだ、三年には流石に声はかけられなかったけどな」
「そうか…うん、俺は少しやることがある、それが終わったら行くよ」
「わかった、倉間たちに伝えておく、じゃあな」
「あとでな」
家のモニターから出るのは面倒でそのまま正門まで行くと幼馴染がそこにいた、久しぶりにきた、なんて笑いながら言う霧野の言葉がそっちに聞こえて仕方ないからスルー、こいつが決まって恋人のような行動をするのは、きっと俺をからかっているんだと思う、天馬あたりからの情報によると、だが。
最初は他愛ない話だったが、暫くして本題になったその内容とは倉間達や天馬達と早めに集まって練習しないか、というものだった。 勿論参加するつもりでいるが、気がかりなこともあるし、決めておきたいこともある。 まだ七時とちょっとの時間帯、俺は八時までには学校に行くと霧野に伝えて手を振った。
正直言うと、迷ってしまった、天馬達とやるサッカーは楽しいしこれからは自由に試合や大会をやれるのに、紫苑とのことをはっきりさせたくて仕方ない。 このもやもやがある限り俺はサッカーに前向きになれないと思う、別に紫苑のせいじゃない、俺のこのはっきりしない気持ちが嫌なんだ、やるからには全部に責任を持ち全てすっきりさせておきたい。
やはり俺は、彼女との婚約を、せめてサッカー部のやつらには言っておきたいんだ。
「さて、どう説得するかな」
戻ると彼女はお付の関さんと何やら複雑そうな話をしていた、席を離れて十分程度だろうか、その間彼女の心境にどのような変化があったのかすら気になって仕方ない、喜怒哀楽全て愛しく見える。 それはどれも俺がまだ見たことのないものだからなのだろうか、全て見れば俺は満足して、彼女を手放してしまうだろうか。 あって欲しくない未来に頭を振り、急いで駆け寄った。
「あ、おかえりなさいませ、拓人さん」
「ああ…すまない、少し二人きりにさせてもらえないか?」
「え?」
「かしこまりました、お嬢様失礼します」
「え、あ、うん」
さっきまで腰をおいていた椅子に再び座って真剣な表情で彼女を見つめる、ふわっとした髪が綺麗に風に靡くのを暫く見て、生暖かい風がやんだ頃、小さく声を出した。
「紫苑、」
彼女の肩がびくりとはねたのが見て分かる、一週間ではまだ慣れないのか、それでもトータルして出会ってから二週間は経っている、まだ俺が怖いのだろうか。 話すことに戸惑いを持ってしまうその反応に言葉が詰まった、声を出そうにもどうしたら怖がらせないで話をつけられるかが頭をよぎってまた口が締まる。
時間もあまりない、明日にしてもよかったのかもしれない、でも、きっと俺はこのままじゃっきりしないんだ。 昨日だって結局あのままだったし、いや紫苑は柔らかくなっていたけど、許してもらえたのかがわからない。 帰ってからの反応じゃ幾分か笑顔も増えていたけれど、その笑顔がまた愛想がよく、少し、どころかだいぶ堪える。
「そんなに身構えるな、気軽な話しさ」
「え…」
「やはり俺は、あの条約を守れそうにない」
「そ、んな」
「君は家のことを考えて俺といるんだろうけど、俺は違うんだよ」
「拓人さん、今、なんて?」
「…え?」
俺の言葉に、きょとんと瞳を丸くする、俺は何かおかしなことをいったのだろうか、俺の推測と彼女の心は一ミリたりともあっていなかったのだろうか、思いもしなかった可愛らしい反応に少し、恥ずかしくなる。 取り敢えず話を聞いてくれっ。 恥ずかしくてつい顔を背けてしまうが、明らかに集中する視線、絶対に俺の顔は赤いだろうし、これ以上そらすわけにもいかない俺はそのまま話を続けることにする。
君は俺が怖くてこれに賛成したんだろう? そう聞くと、彼女はそれは大きく首を横に振った。 驚いたのは俺で、目を見開いたのはお互いだ。
その状態のまま俺は何かを掴み話を続けてみる。 俺は君と一緒にいたいからあの条約をなくして欲しい、君が俺を嫌いで困ると思われても俺は君との婚約を隠したくない、せめてサッカー部には。 すると彼女の瞳から一瞬で涙が溢れかえっている。 掴んだ何かは幻だったのか、その反応につい謝罪をしてしまう、だけど紫苑はまた大きく首を横に振って俺を見つめてきた。
「拓人さんはお優しいですね、私、拓人さんに迷惑かけたくなくてあの様な条約を提案しましたのに」
「…それは、」
「ありがとうございます、それだけで心が救われます、でもいいんです私のことはお気になさらないで?今まで通りでいましょう?」
「違う…俺は君が、」
「拓人さん、携帯が鳴ってますよ」
「あ、ああ…」
どうにも伝わらない気持ち。 しかしわかったことは俺は彼女を相当きわどいところまで追い込んでいるということだ。
俺はディスプレイに映る霧野という文字に苛立ちを感じ少し離れたところで電話に出た。
俺の想いよ彼女まで届け。
(…どうした) (なんか知らねえけど天馬と狩屋が喧嘩してんだ!早くきてくれ!) (自分でどうにかしろ!) (ちょ、どうしたんだよ神童…) (…っ、お前のせいだ!) (は?え?ちょ、しんど)
会話の途中で電話を切った俺は紫苑にまた後で話すと伝えて沢山の愛を捧げたあと憂さ晴らしに学校へ向かった。
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